『進学ガイダンス』 東京大学文学部 1997年
賢い選択、愚かな選択
近藤和彦
高校生のころからヨーロッパ、あるいは文明にかかわることを大学でしたいと思っていた。中学のときからすこし親しんだ和洋の小説、そして古典的な音楽がイメージの原型を形成したのだろう。しかし両親の意向はまったく違っていたし、それに強く反対することもできず、また駒場での進路変更は十分可能だと知っていたので、文科2類を受験した。1966年のことである。
いざ入学してすぐにサミュエルソンの経済学教科書を与えられ、OR(オペレーション・リサーチ)のゼミにも出てみたが、わたしが向いてないことは自明だった。逆におもしろかったのは、社会学(折原浩)、社会思想史(城塚登)、政治学(京極純一)のような講義で、途中から参加した折原ゼミではたっぷり「ヴェーバー」とドイツ語と学問の手ほどきをうけた。2年生になってからは、これが毎週のサイクルの中心であった。杉山好先生の部屋で土曜に開かれた『古代ユダヤ教』の読書会の末席を汚したこともある。駒場時代に西洋史はおろか歴史学と名づく授業にでて興味をひかれることは、残念ながらなかった。「4学期」に念願の文学部の持ち出し授業に出席してみると、すべて知的でおもしろかった。史学概論は柴田三千雄先生であった。新築の経済学部におもむいて大塚久雄先生の「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」と題された講義にも出てみたが、幸か不幸かこれは彼の最後の学期であった。
親を理詰めで説得することはできなかったが、とにかくやがて大学院にすすむつもりで文学部の西洋史に進学した。漠然とイタリアとドイツの比較中世都市論みたいなことをヴェーバーの『経済と社会』を応用して研究する(!)つもりになっていた。進学後まもなく卒論指導の会でそんなことを口にしたら、林健太郎先生が呆れておられた。本郷の西洋史の授業は、どの先生も気をいれて取りくんでおられた。今から考えると『岩波講座 世界歴史』の担当部分を執筆中か書き終えたばかりだったのだろう。堀米庸三先生の演習テキストはブロックの『封建社会』(英訳版)、新任の成瀬治先生はローゼンベルクの『官僚制・貴族制・独裁』を用いられた。
しかし、すべての授業に熱心に出席していたその年の6月15日には大河内一男総長が構内に機動隊を導入して、60年代の政治文化のなかでは当然ながら、ただちに学科討論、無期限ストライキ、自主管理の季節に転じてしまった。それから1年半(18ヵ月)のあいだ、わたしたちは文学部の建物に寝起きすることになった。その毎日といえば、謄写版のビラを切り、生協の入口で配り、わたしたちを扱った新聞の一面記事やTVのトップニュースを論評し、たいていは2・3回で尻切れ消滅してしまう古典の学習会を何度でも企画し、本郷通りの喫茶「こころ」や「ボンナ」(この2つは今も昔のまま)そして「ルオー」(これは画廊タンギーに変わった)*に入り浸り、恋をし、アゴやスネに傷をつくり、‥‥
再開された授業に出たのは1970年の初め、当然ながら留年である。やがて一種のアンチクライマックス感とともに卒業論文のテーマをきめるころには、関心は移ろっていた。『大塚久雄著作集』、そして『岩波講座 世界歴史』がほとんど出そろっていた。何年も前に『歴史評論』や『史学雑誌』で展開したという堀米・吉岡論争も読んでみた。今から振りかえると、これは不十分なばかりかとんでもない議論でもあったが、若いわたしには、この論争の帰結は明白で、近代あるいは資本主義社会をダイレクトに問題にしなければならない、近現代史の必要性を力強く訴えていると読めた。論理的にイギリス近代を対象にするしかなかった。ずいぶんイデオロギー的な選択であった。さいわい院生や助手に良き先輩がいたし、史料のマイクロフィルムも購入されたばかりだった。
それから年月がたち、研究者として月給をもらうようになってから数えても20年以上になる。今にして思うが、べつに西洋史、とりわけイギリス近代史である必然性はなかった。なにか文明史、あるいは人間の運命みたいなことを考えさせてくれる仕事なら、何でもよかったのだろう。近ごろは、日本史と東アジア史がむやみにおもしろそうに見えるし、かつてはまったく無知だった文化人類学的アプローチに惹かれたこともある。そうではあっても、駒場から本郷に進学し、専門をきめる20歳をこえたばかりのわたしの迷いながらの青い選択を、今のわたしは後悔していない。理詰めの合理性はないが、一種の動物的な嗅覚による選択だった。
近藤 和彦 (西洋史学)
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* 残念ながら、1999年12月、木造2階建ては取り壊され、立て替え工事が始まりました。