『歴史学事典』第6巻(弘文堂、1998年)

労働運動史(history of the labour movement)
2000.1.29 登載


  労働運動の歴史というジャンルは、ひところまで労働組合ないし社会主義の歴史と同一視されることが多かった。イギリスの S. & B.ウェッブ夫妻による『労働組合運動の研究』(1894年)は、組織・制度からみた労働組合の発達史であり、フェビアン社会主義の実現をめざす天路歴程であった。地方自治や救貧政策の研究と並行して行なわれた夫妻の史料研究は徹底したもので、制度に関心が集中しているという偏りはあれ、その発掘、収集した史料は現在の研究者もまず利用すべきものである。1789年以来のヨーロッパにおける思想史的系譜を重視した通史には G.D.H.コール『社会主義思想の歴史』(5巻、1953−60年)があった。

  両大戦間から1960年代までマルクス主義および社会政策学の影響の強い東側および日本のアカデミズムでは、労働運動史は経済学・経済史の下位分野とみなされていた。東ドイツの J.クチンスキによる『資本主義のもとの労働者の状態の歴史』(7巻、1952−55年。増補38巻、1961−72年)は経済統計を駆使して、いわゆる「労働者階級の窮乏化」を明らかにしたとされる。西側ではこれに対して産業革命によって労働者民衆の「生活水準」が窮乏化したか上昇したかをめぐる論争がおきた。計量的データの発掘・利用はこれ以降より盛んとなる。

  従来からあった指導者の顕彰や、制度史、思想史、経済史とは違う、固有のジャンルとしての労働運動史の胎動は1950年代に始まる。E.ホブズボームが、それまで無謀な反抗とされていた「機械うちこわし」について再解釈をしめして先蹤となった。地域に即した社会運動の事例研究が進んだのも、この時期以降である。イギリスでは1960年に創立した「労働史研究協会」が重要なフォーラムとなり、E.P.トムスン『イングランド労働者階級の形成』(1963年)は階級文化の形成史としてアメリカ・ドイツ・日本の研究者にもインパクトを与えた。またチャーティズムは1832年選挙法改正後のイギリス労働者階級の全国的な政治運動とされていたが、むしろ政治綱領に収束しない多様な社会的要求、生活文化の活気が明らかになってきた。ヨーロッパの1848年は従来からの革命研究に加えて、社会史的文化史的な側面が注目されている。

  労働運動史の明確な所産とみなせるのは、国際的な連携のもとに行なわれた『労働運動人名事典』の編纂である。各国の事情により精粗の差はあるが、指導者にとどまらず労働運動に関与した人々の浩瀚な事典が実現した。その編纂と並行して実証研究がはかどり、地域史や労働者の日記などの発掘・刊行が続いている。

  今日の労働運動史は研究の裾野が広がり、その日常生活、文化活動、住宅、家族、食事、衛生、レジャーなどが明らかにされている。労働力移動や移民も重要なテーマである。単一の性とエスニシティからなる労働者階級の組織・運動にとどまることなく、究極的には労働民衆のレベルにおける複合社会の解明へと向かうことになろう。1959年の学位論文で16世紀リヨンの職人の運動を究明した、あのナタリ・デイヴィスもいま文化混交を問うているように。

  参考:『歴史家たち』(名古屋大学出版会、1990)はホブズボーム、トムスン、ガットマン、ゴードン、そしてデイヴィスをはじめとする欧米の労働運動史から出発した歴史家たちのインタヴュー集成。いずれも広く深い歴史学へと展開するところに共通点がある。
  近藤和彦「民衆運動・生活・意識」『思想』1976年12月。

 
近藤 和彦
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