『週刊読書人』1997年5月16日号

エリック・ホブズボーム
『二〇世紀の歴史 極端な時代』

河合秀和訳(上・下、三省堂、一九九六年九月)


  原題は Age of Extremes: The Short Twentieth Century. 一九九四年秋に英米で刊行され、ただちにベストセラーとしてひろく読まれたものである。このたび河合秀和訳はやや趣きをかえたタイトルで登場した。注意したいのは Extremes が複数であって、一方で共産主義、ファシズムといった極端な統制のシステム、他方で自由市場主義の極端なシステムをさす。二〇世紀は『両極端の時代』を経験したということであろう。

  著者ホブズボームは、第一次大戦中、ロシア革命の年にエジプトで生まれ、オーストリア、ドイツ、イギリス、アメリカで生活したユダヤ系知識人。その人生をとおして伴走したソ連の崩壊を省察しつつあらわした二〇世紀論が本書であり、彼にとって文字どおりの同時代史である。強調しておきたいが、これは現代史のなにか客観的な教科書をめざすものではない。既刊の『革命の時代』(邦訳は『市民革命と産業革命』)、『資本の時代』、『帝国の時代』といった「長い一九世紀」(一七八九〜一九一四)の三部作につづき、一九一四年から九一年までを「短い二〇世紀」とくくって、誰よりも自分を納得させるために書いた大著である。

  二〇世紀はなにより「一九世紀ブルジョワ文明の解体」として把握される。それはもはやヨーロッパ中心にできあがった世界ではなく、「古い海図」が役立たない世界である。地球は単一の「作戦単位」となった。彼の「短い二〇世紀」は三つに分けて論じられる。第一は第一次大戦(一九一四)から第二次大戦の終結(四五年)まで、二つの全体戦争にはさまれた「カタストロフィの時代」とまとめられる。第二は冷戦の始まりから経済成長、各地の社会革命、第三世界の興隆、現実的社会主義で特徴づけられる「黄金時代」であり、ヴェトナム停戦・ドル変動相場・OPEC石油戦略の七三年で終わる。第三は、それ以降の地滑り的「危機の時代」である。短い二〇世紀は解決のみえない問題群をかかえたまま「世界的な無秩序のなかで終わった」のである。

  全体を通じて民主主義と人道にもとづく良識が印象的に、そして心地よいくらいに歯切れよく表明される。議論は政治経済はもちろん、科学技術、暴力からアヴァンギャルド、ポストモダンまで、あらゆる問題におよび、明快である。浩瀚博識であることにおいて、残念ながら日本人の著作の比ではない。ただ一つの欠点は、日本および東アジアの叙述が弱いことであろう。

  ホブズボームが自分にむかって説明しなければならなかったのは、ソ連の崩壊だけではない。むしろ「破滅の淵にあるかのように見えた資本主義体制が‥‥異常なまでの、まったく予想外の勝利を収めたこと」であった。広告写真(本書の図版64)の雄弁な表現を借りれば、世界制覇をやってのけたのは、カエサルでもナポレオンでもレーニンでもヒトラーでもヒロヒトでもなく、コカコーラのみ、といった事態の根拠である。資本主義は、フルシチョフの望んだように「社会主義の優越性によって埋葬されてしまう」ことなく、むしろ正反対のことが起きた。ホブズボームの考察は「実在した社会主義」、第三世界と革命をのべるときにもっとも暗い。

  「二〇世紀末の人類は、安全性のない大気のなかで呼吸してゆくことを学んだ」。「次の千年はほぼ確実に依然として暴力的な政治、暴力的政治変革の世界であり続けるだろう」という。広大なアジアの大部分の人々が恐怖と悲劇の時代を終わり、今「より良い時代」「向上への見通し」をもって二〇世紀の終わりに立っていることは、著者にも疑いの余地がない。だが、マルクスとケインズにかわる代案がでていない以上、著者の合理主義は「未来の地球の見通しは不確実である」と言明する。それにもかかわらず、「一人の歴史家として」次の四半世紀、あるいは半世紀の間に事態が好転する希望を棄てていない。

  翻訳について。急いだ痕跡がのこる。最後から二番目の段落は、問題の先送りでなく「世界は変わらねばならない」と印象的に論をしめくくっている大事なところだが、この最後のセンテンスが脱落してしまった。 全体に民衆(人民)と大衆(マス)を区別せずに訳しているのも気になるが、たとえばスペイン内戦をめぐって
 「イベリア半島のようにマッチョでない社会であったならば、大衆の政治的動きがこのような殺人を犯すほどまでに偶像破壊的であったかどうか‥‥」(上、一一六頁)
といった日本文は望ましくない。わたしなら
 「事実に反する仮定だが、イベリア半島ほどマッチョな社会でなかったなら、民衆政治はかくも殺人や偶像破壊をくりかえしたかどうか」
とするだろう。二〇世紀を代表する知識人ホブズボームの文章であればこそ、ここではR・フォーゲルのいう「反事実的命題」を連想しながら訳さなくてはならなかった。

近藤 和彦

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