403. ちくわぶさん、ありがとう サイトの主 [URL]  2002/05/07 (火) 19:34
402.の続きですが、Amazon.co.jp の『長い18世紀のイギリス − その政治社会』レビュー欄に、次のようなコメントを発見。

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 意欲的な作品, 2002/05/06
 投稿者 ちくわぶ 京都府 Japan

読者には、ぜひ、タイトルに使われている「(長い)18世紀」と「政治社会」ということばに注目していただきたい。序章で語られているように、なにげないこの二つのことばに、これまでの「近世」「イギリス」史の枠組みを積極的に乗り越えようとする編者たちの意欲がこめられている。各章の論文の質は高く、それぞれで展開されている事実も興味深い。
しかし、なによりも、この作品の真の価値は、これを一つの総体としてとらえたときに、実感されるであろう。ともあれ、ぜひ、御一読をお勧めしたい。
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文体が堅めで、無批判な点がいささか気になる(なんて贅沢なことを言いますが)。とはいえ、見ず知らずの「ちくわぶ」さん、書き込みをありがとうございます。
じつは編者としても、(これまで共編著の経験はいくつかありますが)こんなに気持ちよく、かつ自分じしんたくさん学びながら、共同作品を創りあげることのできた経験は初めて。ぼくはこの本を出す前より出したときの方がはるかに wise になっています。
言うまでもなく、司法とか、文学・出版とか、経済・植民地関係の立法や汎ヨーロッパ的な政策論争とか、欠けている側面はいっぱいありますが、これが最後の本ではありませんので、‥‥。
あらっぽい造りの類書がないではないことを考えあわせると、多忙さでは誰にも負けない我々8名にして、これだけのものを生産できた! とたいへん快い充実感があります。



402. 「カスタマー」氏のジョーク☆☆ サイトの主 [URL]  2002/05/04 (土) 16:20
今日、偶然ながら Amazon.co.jp の 本『長い18世紀のイギリス − その政治社会』カスタマーレビュー 欄にて、なんと「おすすめ度:☆☆」(満点は☆☆☆☆☆)で、次のようなコメントが載っているのに遭遇。
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流行! 流行?, 2002/05/03
投稿者 カスタマー  東京都
 堅実な実証論文を中核に構成されている。その点では優れた良書だが、本文中に「われわれは流行には追随しない」と編者近藤氏がいさましく宣言している点が、逆に、ブラック・ジョークになっている感がする。「長い18世紀〜」というタイトル自体がそれを象徴しているのではないだろうか?
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 カスタマー氏がどういう人か分からないが、まず第1にこのコメントは不正確です。p.20 の文章をもう一度読んでください。引用は正確に。第2に、なにを何のために発言しているのか、不明です。いったい『長い18世紀』というタイトルの本が日本中に溢れているのですか? ブラックジョークならぬ、意味ゼロの冗句。
 批判は大歓迎。気の利いた、おたがい励みになるコメントをしたいものです。



401. Im wunderschoenen Monat Mai... サイトの主 [URL]  2002/05/02 (木) 20:18
この素晴らしき五月をさらに充実した気持にしてくれるのは、『長い18世紀のイギリス − その政治社会』の読者からの反応です。ただの時候の挨拶という方も無いではないが、しっかり受けとめて正面から(短くても鋭く)コメントしてくださる方が何人か −けっして少なくない数− いてくださるだけで、報いられた気持です。ありがとうございます。
人は一人で本を出版することはできない、という場合、原稿を読んでくれる友人、編集者・出版社の協力への感謝がこめられていますが、さらに2冊目以降を生産し続けるためには、友人以外の読者の理解と批判が不可欠です。人は真空のなかで/荒野に向けて叫びつづけることはできない。今のような時代、この世が真空ではない、という証みたいなものがないと、ぼくのような意志薄弱の凡人には、出版はつづけられません。

400.では Ramon 殿の母上が音大生だった、と初めて知らされました。‥‥一連の「鼎談」を何人かの人びとが黙って読んでくれていたようですが、過去の大事な想い出を語りあうことが、将来への励み/勇気になるといいな。



400. 御礼 Ramon  2002/04/28 (日) 12:34
Gustav様、「神は我がやぐら」のご激励、どうもありがとうございました。熱いものがこみ上げてきるものを禁じ得ませんでした。具合は3歩前進2歩後退を繰り返しつつ快方に向かっています。ゆうべは久しぶりに一回も起きずに7時間熟睡できました。これからは、ハイネ作詞、シューマン作曲「詩人の恋」第1曲で歌われた「美しき五月」がやってきます。これからはもっと病も回復に向かうでしょう。
ケンプのゴールドベルクをお薦めのことですが、実は私の母が音大生だった1955年頃ケンプが来日し、ゴールドベルクを弾いたのを聴き、強い感銘を受けたとのことです。ちなみに、母が卒業演奏で弾いたのは、バッハ=ブゾーニ編曲「トッカータとフーガ ニ短調」BWV.565でした。
とにかく、今回の鼎談で、たとえば、フルトヴェングラー=バイロイトのベートーヴェン第9交響曲を、我々がそれぞれの時期にそれぞれの思いで聴いていたことを知り、非常に嬉しかったです。このゴールデンウィークにまた聴いてみるとしますか。
勝手ながら、今後は療養に専念するため、しばらくのあいだ休載させていただきます。なにとぞ御理解ください。



399. Re: マタイ受難曲 サイトの主 [URL]  2002/04/26 (金) 16:18
(つづき)
受難曲のすべての最後に、Wir setzen uns mit Traenen nieder で罪深きわが生が、許されることはなくても慰められる。これは Ramon ヘルメス殿のおっしゃるような「バッハの最高傑作」というより、音楽史上の最高傑作でしょう。聞き終わったあと、しばらくは音のない時空に身をひたしていたい。

ルターとバッハをもったドイツ(語)人は幸せです。

今から想えば、ベートーヴェンはドイツ語を越えた啓蒙と近代の人なので、20世紀日本の中高生でも容易にアクセスできたのかもしれない。



398.  第九とマタイ受難曲 サイトの主 [URL]  2002/04/26 (金) 16:15
(つづき)
で、どうしたかというと、新卒で千葉大附属中の音楽の先生になったばかりの高梨桂子先生の部屋に毎日!通って、音楽室にあるすべてのレコードを聴いた。それから新譜は、むかしの京成千葉駅の近くにあった「松田屋」という楽器・レコード店に通って、「試聴させて下さい」と聴き比べたのです。ぼくを含めて数人そういう男子生徒がいて、同じ高校に進学したものだから、その音楽室 → 松田屋あらしは2年ほど続きました。
千葉大教育学部が西千葉に移転するというので、大学生の楽器実習室にあったSPレコードを処分するときには、歴史的名盤をずいぶんいただいてしまいました。戦間期のブッシュか誰かのブランデンブルク協奏曲なんて中3の坊主にはなんの意味もなかったし、30歳を越えてレオンハルト、ブリュッヘン、クイケンのブランデンブルクに出会うまでは、「チャカチャカといそがしくて退屈な曲」という先入観ができてしまった。

フルトヴェングラに戻ると、結局、新品を買う余裕のないぼくを憐れんで、東大美学を出て県立高校の校長をしていた文人が父だという友人が(中3で、すでに好きなだけレコードを買っていた! こいつが『朝日新聞』のMです)、2枚組を1000円で売ってやるといったのです。素直に喜んで買ったぼくは、今でも − Mは46歳で死にましたが − この特別の布張り箱にはいった盤を大切に持っています。このLP版の出だしは傷だらけで、最初の弦のピアニッシモがいつ始まるのか、正確にはわからない! 後に同じ1951年録音のCDを買って最初にかけたときは、全身を耳にしました。

マタイ受難曲は、まさか寝るためにかけることはできない。グスタフ先生のように教壇に向かう前に聞こえてくる、というのも凄いが。名古屋から東大に移るときに、古代史のH先生がお祝いに、といって下さったのが、ヨッフム=アムステルダムのマタイ受難曲でした。80年代までぼくは極端に金欠でしたから、とても嬉しかった。このマタイのアリア(アルト)Erbarme dich, mein Gott を聴くより前に、ヴァイオリンとチェンバロのためソナタ4番をずいぶん聴いていたので、それだけ印象的だったのだろうか。



397. フロイトとフルトヴェングラ サイトの主 [URL]  2002/04/26 (金) 15:34
394.ではまたもや我が頼りない記憶が是正されました。たしかに本郷ではなく、ロンドンはノーザンラインの Belsize Avenue の寓居で聴いたのでした。
その前か後かに、戦前に福田赳夫のいた宿とか、労働党マクドナルドの家とかを見ながら、Sigmund (そして娘のAnna) Freud の家にも行きました。これが亡命ユダヤ人の家か、と不思議な気持になるほど立派な家で、アナの死んだあと、博物館になっています。歴史的なフィルムも見ながら、穏やかな庭、ゆったりした階段、こんなに広い書斎=仕事場があれば、ぼくだって立派な仕事ができる、なんて愚かな言説をはいた覚えがあるな。そう、フロイトはぼくの父(1994年に手術)と同じく顎の癌でした。その治療の苦しみも Freud Museum は記録していました。

ところでフルトヴェングラ=バイロイトの第九を聴いたのは、中学3年ですが、そのLPレコードを手に入れたのは高1のときでした。そのころLPレコードは1枚1500円〜2000円していて、第九は2枚組で2500円もしました。県立高校の授業料が千円強、封書が10円、葉書が5円の時代ですから、中高生がおいそれとレコードを買うことはできなかった。



396. Re: ヘルメスの偏愛曲(2) Gustav  2002/04/26 (金) 01:50
高槻に陣をはって一年、週に二晩くらいの徹夜はなんともなくなってしまった日常にあって、精神的にめげそうになったときによく聞くようになったのは大バッハの宗教音楽です。中でも『マタイ受難曲』については、徹夜明けで教壇に向かう際には冒頭部分が、授業を終えた快感を味わった後では終曲部分が、頭のなかでよくリフレインされています。(ゴルゴダへ向かう気分というよりはむしろ復活と浄化の気分を求めているのですが。)リヒターの58年版が傑出した演奏とされていますが、私の変態チックな収集癖の結果としては冒頭部分の異常に速いバーンスタイン(メンゲルベルク版やフルトヴェングラ版のようにかつては頻繁に行われていたカットのある演奏で・・・しかもテキストが英語(大爆笑!)・・・だみ声のバーンスタイン先生による講義も同時収録です)版なども滅多に聞けない演奏です。

それはさておき、私は北欧史の講義のなかで(完全に私の趣味的なセレクトで)中世から現代にいたるスウェーデン音楽(日本初演の音楽がほとんだと思われます・・・汗)を聞かせています。今年は宗教改革期から講義を始めましたが、そこで聞かせる音楽はといえばマルティン・ルターの手になる“Ein'feste Burg ist unser Gott”です。言うまでもなく、この賛美歌は、ライプツィッヒと深い関係のあった二人の作曲家によって、堅き福音主義信仰をイメージさせるモチーフとして用いられました。つまり大バッハが教会カンタータ第80番を書き、メンデルスゾーンは5番交響曲の第4楽章を書きました。そうした用いられ方としては、かつてスウェーデン・ナショナリズムが華やかなりし頃、国民主義的な作風を代表した作曲家アルヴェーン(スウェーデン狂詩曲の第一番「夏至祭」が有名でしょうか・・・)が組曲『グスタヴ・アードルフ』を書いた際に、福音主義信仰救済の英雄としてグスタヴ王のモチーフをやはりこの賛美歌に求めました。私はと言えば、リュッツェンの教会でこの賛美歌を歌って以来、心挫けそうなときいつも口ずさむ歌となりました。長久手のErmitageに籠もられているRamon様にその詞の一部を贈ることで、不躾ながら激励の言葉に替えさせて頂きたく思います。

「神は我がやぐら 我が強き盾 苦しめるときの 近き助けぞ
己が力 己が知恵を 頼みとする 陰府の長も など恐るべき」



395. Re: ヘルメスの偏愛曲(1) Gustav  2002/04/26 (金) 01:50
大変興味深い音楽談義に、(無粋な水戸っぽもいよいよ大阪人気質に感化されたのでしょうか・・・)どうやって「ツッコミ」を入れようか手薬煉を引きながら、機が熟すのを待っておりました。Ramonさまから『マタイ受難曲』が話題にあげられた時点でグスタヴ・アードルフ王よろしく「斉射」を開始すべきだろうと考えておりましたので、そろそろ頃合いのようです。

クラシック音楽を意識するようになった頃にはすでにメディアとしてCDが登場していたような世代の若輩者が、こうした談義に横槍を入れるのはそもそも烏滸がましいことかも知れません。(とはいえ大枠として、リヒテルの平均律だとか、アルバン・ベルクのベートーヴェンの四重奏だとか、フルトヴェングラのバイロイトの第九(もちろん冒頭の足音入りで・・・あの印象的なLPのジャケットは忘れられません(後にCDでも復刻))だとか、共有する意識はほぼ同じですが。余談ですが、もし心穏やかに眠気を誘うゴルドベルク変奏曲をお探しなら、今は懐かしきケンプによる「中庸」の演奏などお勧めします。)



394. ヘルメスの偏愛曲 Ramon  2002/04/25 (木) 13:37
主様とリヒテルのベートーヴェンを聴いたのは、1995年3月にロンドンのお宅にお邪魔したときでした。第32番op.111をポリーニ盤と聴き比べて、ポリーニに軍配をあげたのを憶えています。
弦楽四重奏曲については、1989年にアルバン・ベルク四重奏団の来日公演で、第15番op.132を聴きました。第3楽章の「病から癒えたる者の神に対する聖なる感謝の歌」から第5楽章のフィナーレまで、非常に感銘を受けました。
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団のベートーヴェン第9交響曲のCDは、私がCDプレイヤーを購入して最初に買ったCDです。1985年の大晦日に聴きました。LPで最初に買ったフルトヴェングラーの演奏は、ベートーヴェン第7交響曲でした。1980年、高校1年のときでした。第2楽章アレグレットは慟哭のようであり、ディオニュソス(バッカス)の祭りのリズムの乱舞に陶酔しました。
バッハに話を移すと、お薦めのフランス組曲、イギリス組曲のなかでは、イギリス組曲第2番を最もよく聴きます。アルゲリッチの情熱的な演奏とポゴレリッッチのクールな演奏を、その日の気分によって聴きわけています。バッハの最高傑作が「マタイ受難曲」であることは、言うまでもないことでしょう。1990年にライプツィヒの聖トマス教会聖歌隊の来日公演を聴きました。
モーツァルトのピアノ協奏曲については、第9番「ジュノーム Jeunehomme」K.271も加えてください。
最後に、フランス音楽について。私が最も好きなフランス音楽は、ビゼーの「カルメン」とセザール・フランクのヴァイオリン・ソナタです。(もっとも、フランクはベルギーのフランス語圏のリエージュの出身ですが。)この二人の共通点は、いわゆる「一発屋」であること、つまり今あげた曲が、二人が書いた他の曲に比べて極めて傑出していること、この曲を書くために彼らが生まれてきたように思われることです。実際、古今のオペラのなかで「カルメン」は一二を争う人気を博しており、フランクのソナタも、古今のヴァイオリン・ソナタのなかで屈指の名曲です。フランクのソナタは、コルトー・ティボー盤からリヒテル・オイストラフ盤まで、いろいろな演奏で愛聴してきました。



393. Re: PS サイトの主 [URL]  2002/04/23 (火) 20:36
392.に書き忘れましたが、眠るため、あるいは静かな気持になりたいときは、
バッハのイギリス組曲(BWV806-811)、フランス組曲(BWV812-817)も未だなら、試してみてください。レオンハルト、あるいは拍手がやや煩わしいがリヒテルの録音も。



392. 眠れぬ夜あるいは清らかな朝のために サイトの主 [URL]  2002/04/23 (火) 20:20
> バッハのゴールドベルク変奏曲‥‥ピアノならシフ、チェンバロならピノックの演奏を聴いています。

そうですか。ぼくなら、レオンハルトですね。シフの演奏もすこし変わってる、と思います。

> バッハ:平均律クラヴィア曲集第1巻、

これは、ご存じリヒテルに尽きます。ほかにもレオンハルトからアファナシエフ, etc. までたくさん買いましたが、やはりリヒテルを聴いてしまうと、他の演奏にたいして「寛大な」気持になれない。

> 無伴奏チェロ組曲

これは寝ること不可能な曲ではないか。とくにミシャ・マイスキ。

> モーツァルト:ピアノ・ソナタ集

ピアノ協奏曲では K.456(No.18)以下 K.595(No.27)まで。どれもよいが、最近は Melvin Tan などピアノフォルテの演奏を聴きます。それからグラン=パルティータ(K.361)はいかが? 映画「アマデウス」では決定的な登場場面で使われました。

> シューベルト:‥‥
たしかに催眠的な効果がありそう。

> フォーレ:
> ドビュッシー:
> ラヴェル:
彼らの室内楽、ヴァイオリンソナタなどになると、むしろ覚醒効果があります。
催眠か覚醒かという次元を越えて、聴く人を清らかな気持にしてくれるのは、ベートーヴェンの弦楽四重奏、たとえばNo.14(op.131)、No.15(op.132)。アルバン・ベルクがいい。そしてピアノソナタの、やはり最後の3つ。いつだか、本郷で?一緒にリヒテルを聴きましたね。残念ながら、その1991年録音版は老いのあらわな演奏だった。
ちなみに、ショスタコヴィッチの平均律(正しくは24の前奏曲とフーガ)も催眠効果はないが、カタルシスを含めて心を洗ってくれます。ぼくはタチアナ・ニコラエワで聴きます。カタルシスという点で圧倒的なのは、今でもベートーヴェン第九(フルトヴェングラ)だというのは、言うも愚かな真理かもしれない。



391. ヘルメスの催眠楽(2) Ramon  2002/04/21 (日) 07:13
不眠を治す曲としてまず思い出されるのは、バッハのゴールドベルク変奏曲でしょう。釈迦に説法ですが、カイザーリング伯爵の不眠のために、バッハの弟子ゴールドベルクが演奏するために作曲された曲です。ただし、有名なグレン・グールドの演奏は解釈が奇抜なので催眠効果はありません。私は、ピアノならシフ、チェンバロならピノックの演奏を聴いています。
このほかに、催眠効果のありそうな曲を思いつくかぎり列挙してみます。
バッハ:平均律クラヴィア曲集第1巻、インヴェンション、パルティータ、無伴奏チェロ組曲
ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ集
モーツァルト:ピアノ・ソナタ集(ただしグールド盤は不可)、クラリネット五重奏曲イ長調K.581、ディヴェルティメント(弦楽三重奏)変ホ長調K.563
シューベルト:即興曲集D.899、D.935、三つの小品D.946、アルペジョーネ・ソナタ
ショパン:夜想曲集
ブラームス:クラリネット五重奏曲ロ短調、間奏曲集(グールド盤がよい。収録曲は、op.76-6,7, op.116-4, op.117-1,2,3, op.118-1,2,6, op.119-1)
フォーレ:パヴァーヌ、夜想曲集
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
サティ:ジムノペディ、グノシェンヌ
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ



390. ヘルメスの催眠楽(1) Ramon  2002/04/21 (日) 07:12
ご激励のお言葉ありがとうございます。ギリシア神話のHermesは、ローマ神話のMercurius(英語ではMercury)に相当し、商人や旅人の守護神ですね。フィレンツェのウフィッツィ美術館にあるボッティチェリの「春」primaveraでは、左端にいる青年がヘルメス(メルクリウス)です。西地中海世界を旅する私も、ヘルメスの加護を受けているのでしょう。
閑話休題。4月になってから私の不眠がひどくなりました。どうも季節の変わり目は病状が悪くなるらしく、大学の同僚で私の同じ病気の人も、年度始めは休講にしていました。「4月は残酷な月だ」というT.S.エリオットの言葉が身にしみて感じられました。3時間くらいしか眠れないこともあります。
かつて、大鵬の弟弟子で金剛という力士がいて、奔放な発言で「ホラ吹き金剛」の異名をとっていました。1975年名古屋場所で、前頭筆頭の金剛に優勝のチャンスがめぐってきたとき、金剛は終盤、プレッシャーで不眠になり、「ナポレオンは3時間しか寝なかったが、金剛は2時間で充分だ」と言っていました。ちなみに千秋楽で優勝を決めたときの発言は、「ほら見たか、ホラじゃなかっただろう」というものでした。
私も途中、目がさめてしまい、眠れないときは、本を読んでいたのですが、ますます意識が冴えてしまうので、最近はCDを小さな音でかけています。催眠効果はてきめんでした。



389. 長い18世紀のイギリス − その政治社会 サイトの主 [URL]  2002/04/19 (金) 17:55
『長い18世紀のイギリス − その政治社会』(山川出版社)
 ようやく刊行です。東大生協など大きな本屋にはすでに並んでいますが、じつは謹呈献本の作業が 近世の conglomerate state 的に複雑で【なにしろ8人の共著者がそれぞれ謹呈したい人のリストを出したのですが、これを間違いなくまとめるのがたいへんな仕事だった−−らしい。出版社の係が8枚のアナログリスト =しかも abc順やあいうえお順とはかぎらない= を畳の大きさの表に拡げて一々対応させて確認して下さったとのこと】、plus 謹呈スリップ(短冊)を間違いなく揃えて入れねばならない。数えるたびに違ってきて、ほとんど神聖ローマ帝国の領邦を数えるがごとき絶望的な作業‥‥。
ようやく今朝になって郵送作業に移ることができた、とのことです。進呈されるはずのあなた、あと1−2日のご辛抱を。
 



388. Ermitage の美術談義 サイトの主 [URL]  2002/04/19 (金) 17:28
>‥‥人里離れた隠者の庵(エルミタージュ Ermitage)と言えましょう。

エルミタージの女将エカチェリーナがベルリンの画商から絵を買いまくり、『百科全書』のパトロネス(マトロン? 要するに後援者)になり、ディドロを招いて哲学・歴史談義に興じたという先例もありますぞ。そう、大黒屋光太夫に謁見して、露 ⇔ 和の初歩的な字引も作らせました。
Ramon d'Ermitage, かの啓蒙の世紀ならぬわがインタネットの世紀に、ゆるりと Hermes 的なご活躍を! 



387. 御礼 Ramon  2002/04/16 (火) 20:30
K2様、早速のご教示どうもありがとうございました。早速、大学図書館へ行って記事をコピーしてきます。
K2様、年賀状を私に下さったのに、お返事を差し上げられなかったのは、喪中だったということと、1月8日に私が病に倒れたためでした。9日に教授会があり、一睡もできずに無理を押して出席しましたが、同僚と話すのも苦痛で、終わってからそそくさと逃げるように帰宅しました。翌日の10日に病院へ行き、病気が判明し、それ以来、大学を休んでいます。どうか非礼をお許し下さい。
今は博士論文も提出し、長年の重荷から解放されました。隠者のように世間から交渉を断ち、療養に専念しています。さしずめ、わが家は、人里離れた隠者の庵(エルミタージュ Ermitage)と言えましょう。



386. ありがたい サイトの主 [URL]  2002/04/16 (火) 11:45
>‥‥朝日新聞夕刊、1987年9月5日に掲載されています。

いやはや、ありがとう。本人の記憶に大きな間違いはなかったが、それにしても曖昧で、やはり MO 、外付けハードディスク、「ひとの頭脳」、名はなんであれ、信頼できる「外部記憶装置」があってこその回答でした。ありがたい。
ここで「ありがたい」とは、新明解の言うとおりで「‥‥身の幸せをしみじみと感じる」「‥‥自然に手を合わせたくなる気持」です。

ちなみに k2 先生のサイトには、こちらもしっかり Useful Links からリンクしていますよ。
http://homepage2.nifty.com/~k2/kura/link.html



385. Re^2: 団塊の世代の同期会 k2 [URL]  2002/04/16 (火) 09:48
たぶんそのエッセイは、「団塊の世代の同期会」というタイトルで、朝日新聞夕刊、1987年9月5日に掲載されています。
キャッチは、「淡々たる明るさ、強さ――戦後史生きて不惑の年」とあります。



384. 眠れぬ夜のために Ramon  2002/04/16 (火) 07:05
早速のお返事ありがとうございます。病気は3歩前進2歩後退を繰り返しながら、しだいに快方に向かっています。大学には医師の診断書を提出して、7月まで休むことにしました。
目下の悩みは、寝ている途中に眼がさめてトイレへ行き、そのあと意識が冴えて眠れないことです。就寝時間は11時から12時のあいだですが、途中覚醒は、就寝後3時間のこともあれば5時間のこともあり、稀に朝まで熟睡することもあります。眠れずに床のなかで思い出すのは、2年間住んだモンペリエや、留学中あるいはそれ以降訪れたブリュージュ(ブルッヘ)、ヴェネツィア、シエナ、アマルフィ、バルセロナ、セビーリャ、プラハなどの景観です。これらの諸都市に共通するのは、街並みが複雑な迷路状になっていることで、私はこれらの迷宮都市の狭い迷路をさまようのを好んだものでした。その点、名古屋は、道路がまっすぐで幅が広く碁盤のようなので、あまり面白くありません。
モンペリエに住んでから3ヶ月後に下宿が盗難にあったあとも、不眠と抑うつに悩まされました。心配した友人がスペイン旅行に誘ってくれ、それ以来、フランス国内やヨーロッパ各地を旅するようになったわけです。
主様の記事は、元気になってから、図書館で朝日の縮刷版で探してみようと思います。もっとも名古屋本社版の縮刷版があるかどうかはわかりませんが。



383. Re: 三傑とフルトヴェングラ サイトの主 [URL]  2002/04/15 (月) 18:49
> 御無沙汰しております。Ramonです。‥‥私も病が癒えましたら、岐阜にK君を訪ね‥‥

心配しています。12月に相まみえた折には、ぼくが鈍感だったのか、気が付かなかった。3月に lina さんと遭遇したときには時間が無くて挨拶以上のことはできませんでしたが。

> 岐阜県は、「日本のハートランド」と言われるように、日本の総人口の重心もここに位置しています。

このことは最近新聞でも報道しているので、よく知られているでしょう。近世の三傑も、この地方の出身でした*。日本語のアクセントも味噌など食文化も、木曽三川が東西の境だとよく言われます。ぼくが名古屋大学にいたころ、国語学の先生がそのテーマばかりで紀要(名古屋大学文学部論集)にいくつも寄稿していたなぁ。
*したがって江戸弁も多くの要素を三河弁から継承しています。
 近代の東京弁は、これに九州や長州のことばが混交してできたようですね。

>‥‥トスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーについてのエッセーを中日新聞に投稿、掲載されたと聞いています。

記憶というのは不正確で、またその後の知識・経験によって影響されることの見本のような気がします。中日新聞ではなく朝日新聞(名古屋本社版)の文芸欄 です。とはいえ、申し訳ないが、正確な年月日は今ただちには言えません。「物」がいろんなものに紛れてすぐ出てきません。
ぼくが40歳になった夏の同窓会の感懐をこめて書きましたから、おそらくは1987年の8月後半よりあと初秋から冬までの間だと思われます。



382. 濃尾同盟 Ramon  2002/04/14 (日) 09:53
御無沙汰しております。Ramonです。このたびは、K君が岐阜に赴任されましたこと、心から嬉しく、喜びにたえません。
岐阜県は、「日本のハートランド」と言われるように、日本の総人口の重心もここに位置しています(郡上八幡付近)。また、古来、壬申の乱や関ヶ原の戦いといった東西勢力が雌雄を決し、その後の天下の帰趨を定めた戦争も、美濃で戦われました。そうした意味で、K君が岐阜に封じられたことは、京阪方面ににらみをきかせるうえでも、戦略的になかなか心憎いものがあると、愚考しております。
名古屋(名駅)から岐阜までは、JRで20分足らずで行けます。東京・横浜間よりも近いのです。私も病が癒えましたら、岐阜にK君を訪ね、金華山に登り、長良川を眼下に見下ろしながら、濃尾同盟を結びたいものだと切に願っています。
話は変わりますが、ずいぶん前にうかがった話で記憶がさだがではないのですがは、主様が名大時代に、トスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーについてのエッセーを中日新聞に投稿、掲載されたと聞いています。ぜひ、その記事を読みたいので、年度始めで御多用のところ申し訳ありませんが、記事が掲載された年月日を教えてくだされば、幸いに存じます。



381. 御礼 SS  2002/04/09 (火) 22:01
謹啓
ぶしつけなお問い合わせにもかかわらず、さっそくご返答を賜り、誠に有り難うございます。事前にあちらこちらに問い合わせたのですがなかなか分からずにおりました。お忙しいところ、誠に有り難うございました。感謝申し上げます。



380. 西洋史学会大会は サイトの主 [URL]  2002/04/09 (火) 11:12
> 日本西洋史学会の今年の5月?の大会の開催場所・日時

5月18〜19日、東京外国語大学(府中・武蔵境)です。
お問い合せはファクス(のみ)で 042−330−5406 へどうぞ。



379. 西洋史学会大会 SS  2002/04/08 (月) 18:04
ご教示願い

近藤和彦先生

謹啓
ぶしつけをお許し下さい。帯広畜産大学の教員でございます。
実は、日本西洋史学会の今年の5月?の大会の開催場所・日時を知りたく存じております。インターネットでいろいろ検索しましたが、ついに分かりません。学会事務局の所在地を存じないため、先生にお問い合わせさせていただくのが一番かと存じました。
お忙しいところ勝手なお願いで大変恐縮ですが、簡単で結構ですので、ご教示を賜れますと幸甚に存じます。
どうぞ宜しくお願いを申し上げます。 敬具



378. a, b, c サイトの主 [URL]  2002/04/06 (土) 15:32
 近況をありがとう。

>‥‥いざ通ってみると、どの本にも引用されていないような研究書があるわ あるわで結構使えることに気がつきました‥‥。‥‥きりがないので、図書館通いは一旦中断し、今月は国立歴史文書館に通うことにします。読むべき審問記録がまだ残っているからです。

 ヒロチくんらしい表現で、研究の進捗がわかりますが、ここでは
a.手稿史料と b.刊行史料、そして c.研究文献について、ちょっと一般的な話を。
 一般に言ってすべて大事ですよ。博士論文とは定義からして、当該テーマの a, b, c それぞれを渉猟し尽くして書かれるものです。 a.の存在するところに居るかぎりそれを第一義に考えるのは当然ですが、しかし、すでに b.としてかなり広い意味をもつ有益な史料が翻刻されていることが普通です(その編纂に瑕疵や問題があるばあいも含めて)。それに、いったい c.を読むことなしに自分の考えを磨くことができるのだろうか? われわれは真空中で考えるのではなく、すでに有るものとの対話、その批判によって独自のものを構成してゆくのです。
 結局は、時間との闘い、自分の頭と意志(の持続)の闘いということになりそうですが。
 お元気で。
 本郷の西窓から西国へ励ましのメール/エールを送ります。



377. 近況 ヒロチ  2002/04/06 (土) 15:07
久しくホームページが更新されませんでしたが、相変わらず御校務でお忙しくしていらっしゃるのでしょうか。お察し申し上げます。

今年に入ってから三ヶ月程、国立図書館に通っています。部屋が暗く、閉架式で、本を頼んでから三十分待たねばならず、雑誌は翌日まで待たねばならず、新しい本は他の場所にあるので頼んでから三日待たねばならず、コピーに厳しい制限があるなど、非常に面倒なので今まで敬遠していました。

いざ通ってみると、どの本にも引用されていないような研究書があるわあるわで結構使えることに気がつきました(そんなのあたりまえで、むしろ気がつくのが遅すぎた)。少しでも有益だと思われる文献があったら片っ端から請求して目を通していますが、こんなことはマドリードにいるうちにしかできないでしょう。しかも歩いて15分で行けるし食堂もあるので、ほんとに便利です。

しかしいくらやってもきりがないので、図書館通いは一旦中断し、今月は国立歴史文書館に通うことにします。読むべき審問記録がまだ残っていているからです。

これだけで済めば問題はないのですが、審問記録だけでは十分な情報が得られそうにないので、そのうち地方の文書館にも行く予定です。

二年以上もこちらで勉強をしていると、ここらへんまでは調べがつくがこれ以上はわからないだろうというラインが次第に見えてきて、そのラインがわかった以上、そこまで調べざるを得ないという気持ちになります。果たしてそこまでやる意味があるのか、そしてそうした仕事が日本で評価されるのか、迷うところではあります。しかし一方で、プロとしてやる以上、そこまでやるがあたりまえのような気もしています。

まとまった手稿文書としては、国立歴史文書館が所蔵する異端審問記録の他に、グラナダ大学図書館が所蔵するイエズス会文書とヴァチカンの文書館(Archivio Segreto Vaticano)が所蔵する聖フアン・デ・アビラの列福調査文書(Proceso de beatificacion)。いずれも夏前までには現地にいって実物を確認し、マイクロフィルムを入手したいと思っています。ヴァチカンの方は利用制限があり、許可が下りるかわかりません。この点はスペインの指導教官と相談してみます。いずれの文書も3000頁くらいの分量で、パソコンへの入力はまず無理でしょう。解読には相当な時間がかかるはずです。しかし内容には期待が持てます。



376. 最近の収穫 サイトの主 [URL]  2002/04/06 (土) 12:38
大学内外の公務に追われているうちに、この春の間にも、たくさん力作が出ました。書誌を列挙するだけでも、
 平野千果子『フランス植民地主義の歴史』(人文書院)
 林田敏子『イギリス近代警察の誕生』(昭和堂)
 松浦高嶺『イギリス近代史を彩る人びと』(刀水書房)
 小田中直樹『歴史学のアポリア』(山川出版社)
そして、
 和田一夫『豊田喜一郎伝』(名古屋大学出版会)
最後の和田さんは、破産したヤオハンの和田一夫会長と同姓同名ですが、違う人。東大教授です。このの喜一郎伝は、全然期待しないで開いたら、第二高等学校 → 東京大学工学部、そして米英遊学、イギリスは Oldham のプラット社での見聞など、おもしろい。
しばらく前には、
 寺崎弘昭『イギリス学校体罰史』(東京大学出版会)
という本も出ていました。



375. 生きてますよ! サイトの主 [URL]  2002/04/03 (水) 11:02
間がこんなにも空いてしまいましたが、年度末の deadheat survival game をなんとか過ごして、生還。
活字での発信はこれから次々に実現するはずですが、デジタル発信も怠りなく続けましょうぞ。
この BBS も生きています。よろしく!



373. 杉浦克己さん、橋本寿朗さん サイトの主 [URL]  2002/01/17 (木) 15:15
 学内広報で 杉浦克己さんの死を
 今朝の新聞で 橋本寿朗さんの急死を、知りました。
 杉浦さん(駒場で相関社会学)はもともと経済学者(労農派!)で、ぼくはマンチェスタ市の図書館の Archives Department という狭い空間で一つの机を共有したなかです。1981?82年?そのころは Kennedy かどこかの経営文書を見ておられました。ずっとあとで、折原浩さんを送る会などで再会しましたが。
 橋本さん(日本経済史。社研 → 法政大学)との付き合いは元来あまりなく、2000年から「地球学の世紀」という変な !? 会で毎回のようにお会いするようになりました。55歳だということですが、ぼくなぞよりはるかに貫禄のある雰囲気を湛えておられ、こんなに急に亡くなるとは予想もしなかった。
 有能な人は今の時代、みんな忙しくしていますが、頑丈な人もそうでない人も、どんどん脆くなっているのだろうか。だからといってどうすればよいのか、妙案は見あたりませんが。最低限、人生における大事なもの(priority)を常に意識しつつ生きましょう、ということかな。



372. Re: 共著 サイトの主 [URL]  2002/01/15 (火) 22:28
> 貧乏学生にもやさしい(^^)価格設定‥‥

まじめな一般学生 & 専門家を標的にしています。学問的に妥協しない、しかし、読みやすい本、というスタンスです。
つまり、山川出版社の全面的な協力があって実現する出版です。
隠すべき情報はありません。共著者は以下のとおりです。

序 章:近藤和彦
第1章:近藤和彦
第2章:坂下 史
第3章:青木 康
第4章:西川杉子
第5章:勝田俊輔
第6章:1 冨田理恵、2 金井光太朗
終 章:高澤紀恵
巻末付録など



371. 楽しみにしております Jizo  2002/01/14 (月) 22:46
サイトの主様

貧乏学生にもやさしい(^^)価格設定、パイオニア的試み、期待して待っております。
個人的には、とくに、青木康さん(先生とお呼びすべきですが)の担当部分が楽しみです(共著者だと思い込んでいるのですが?)。

あっ、この書き込みには、個人名など不適切な情報が含まれているかも知れません。掲載不可の場合は、削除いたします。



370. 長い18世紀のイギリス サイトの主 [URL]  2002/01/10 (木) 14:53
『長い18世紀のイギリス』(山川出版社、2002年4月)
2001年5月の西洋史学会大会から形がはっきりしてきた共同研究ですが、ただいま8名の共著者がそれぞれ初校ゲラと格闘中。
そもそも「近世・近代ヨーロッパの政治社会」から生まれた副産物≒パイロット版のはずだったのに、本格的な、なかなか存在感のある共著になります。コンパクトなボディ(2800円と、ほぼ決定)に各人のこれまでの研究蓄積と踏みこんだ議論が詰まって、‥‥これまで書店でよく見られた、ひとのフンドシで踊ってみせる本とは、違います。
乞うご期待。



369. 人格の問題 サイトの主 [URL]  2001/12/29 (土) 16:12
 ただいま債務不履行にて自己破産寸前状態です。面目なくて人に会わせる顔もない。
 それにしても
「吉岡昭彦先生お別れの会」「吉岡昭彦先生を偲ぶ会」のパンフレットを送っていただいた松本さん、佐藤さん、ありがとうございます。
 公務繁忙のさなかにあっても人柄を崩すことなく学問をつづけられた先生は、やはり立派な人格者でした。↓ここにサイトを設け、366.を推敲した文章を登載します。
 www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Yoshioka.htm
わたしたちの世代になると、「忙しい、忙しい」ばかりか、「こんなバカなことやっちゃおれん」と公言して!校務をさぼるヤツもいないわけじゃない。
 忙 とは 心亡し と書き、
 忘 とは 心を亡くす と書きます。
人格崩壊とは恐ろしい現象です。



368. 木枯らし サイトの主 [URL]  2001/12/11 (火) 14:48
秋景色の日本をあとに、
11月26日からドイツでアフガン和議のために力を尽くして帰国してみると、
本郷は冬景色です。
鈴木書店が潰れていました。
それから感染メールがたくさん待っていてくれました。容赦なく捨てます。
向こうではワインとエスプレッソとジェラートと果物以外にはまともな物を食してなかったので、帰りの全日空ででた「おひょうのマリネ」が天上のご馳走のように思えたのと、もう一つ、日本女性の笑顔がこれまた可愛い天使のように見えてしまった。‥‥よほど辛い思いをしたのかって? Jawohl. ドイツ語の辞書を忘れて行ってたいへんでした。
そう、それからエアフルトでは、吉岡先生のことを十分に悼み偲びました。



367.  吉岡先生を追悼する会 サイトの主 [URL]  2001/11/15 (木) 15:07
 追伸。ふつうの告別式はなく、先生を追悼する会を
12月9日(日)午後に仙台で開くということです。
詳細は、東北大学西洋史研究室にどうぞ。
022 717 7800 (代)



366. 吉岡昭彦先生の死 サイトの主 [URL]  2001/11/15 (木) 15:02
 昨夜、仙台からの電話で、吉岡昭彦先生が亡くなったと聞きました。丈夫な方で、東北大・文学部長のときも、図書館長のときも自転車通勤でしたし、退職後は心臓やいくつかの重病をなさいましたが、それこそ不死鳥のごとく立ち直って活躍なさっていたので、予想もしていませんでした。
 最後にお話ししたのは、2000年3月14日です。別のページ
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Yonekawa.htm にも書いた、米川伸一さんをしのぶ会合(東京フォーラム)のあと、去り難くて、仙台に帰る先生に「最終の新幹線まで」と誘われて、岡田与好、二宮宏之、渡辺尚といった方々と一緒に、東京駅丸の内側の店で2時間くらい四方山話をしました。
 誤解されているかも知れませんが、ぼくは吉岡さんと仲が良かったのです。かつては土地制度史学会@高知大学で先生と論争したこともありますし、『文明の表象 英国』ではやや強烈な書き方をしました。だから、周囲の皆さんは、ぼくが仙台に行っても、気を使ってしまって ‥‥ ということがありました。
 ところが、ぼくの名古屋時代、吉岡先生ごじしんは名古屋の藤瀬浩司さんとたいへん仲がよいということもあって、お二人の懇意のバーに<連行>されたこともあります。大病のあと東京大学出版会や岩波書店の会合でお会いした折にも、ぼくの姿を見つけるとまっすぐこちらに来てくださって、それこそ抱きかかえるように、挨拶してくださるのでした。
「おれは流行を追っかけているだけのヤツは嫌いだ」「話術だけで書かないヤツも駄目」「院生の修論こそ鍛えなくちゃ」, etc. 印象的な発言は忘れられません。
『史学雑誌』86-5「1976年の‥‥回顧と展望」p.306 から二人の因縁は始まるのですが、「宗派抗争の時代」(『史学雑誌』97-3)については、ずいぶん誉めてくださいました。
結局、先生は史料分析、実証の学としての歴史学を信じていたし、(東大経済学部出身ではあるが)ひとの歴史学をみるときに、経済学理論としての立場にはこだわらなかったのではないか。熱心な教育者でもありました。ご冥福を祈ります。



365. Re^2: 石井 進/萩原延寿/プラム サイトの主 [URL]  2001/10/27 (土) 21:21
> NHKの「その時歴史は動いた」‥‥
> 小学館文庫から再版された「日本史の社会集団3 中世武士団」
岩波文庫版の石母田正「中世的世界の形成」にある解説文も石井進先生によるものでした。
さすがグスタフ王は良書を読んでいますね。ぼくのころは文庫でなく小学館の「日本の歴史」シリーズで、網野善彦の『蒙古襲来』と対になっていました。石母田正の解題をマルクス主義者でない石井さんが書いているところに、岩波文庫の気概?品位?が現れているのでしょう。(逆に山田盛太郎『日本資本主義分析』の岩波文庫・解説はごりごりの弟子が書いていてつまらない。)
今日は本郷で「文化資源学フォーラム」というのをやりましたが、(盛況で用意した150部のレジュメが足りず、何度も複写に走っていました)舞台裏ではひとしきり石井進さんの死を悼む言ばかりでした。日本史の人は、明日の通夜のため、一人も出席できないままでしたが。
 つづいて亡くなった萩原延寿さん(75歳)、ケインブリッジのJohn Plumb(90歳)と、それぞれ違うが significant な歴史家たちでした。



364. Re: 石井 進 先生 Gustav [URL]  2001/10/26 (金) 00:04
急逝の報せを聞いて、正直に申し上げまして大変驚いています。つい先だってNHKの「その時歴史は動いた」(すみません、正確なタイトルを忘れました・・・)とかいう番組でモンゴル襲来を特集していたときに、とてもわかりやすい語り口で中世武士団の話をされていた姿が私には印象的だったからです。

私どもの世代ではすでに東大進学時には石井進む先生いらっしゃいませんでしたから、先生の名前は著作上でしか存じ上げておりません。しかし私がまだ茨城の片田舎で歴史を夢見る少年だったこと愛読していた本の一つに、小学館文庫から再版された「日本史の社会集団3 中世武士団」という先生の著作がありました。文学作品や地方の景観、様々な碑文・・・数限りない史料を縦横無尽に駆使して、歴史の表舞台には出てこない名もなき武士団(・・・私の本当に本当の田舎町で活躍していた常陸常陸大掾氏のことなどが中心的に扱われていて、幼き頃の僕の田舎の景観に対する記憶がこの著作の中でオーバーラップしたので、とりわけ感慨深かったのです・・・)の自律的な姿を克明に描き出されている著作で、歴史学の醍醐味を知らしめてくれた思い出の本の一つでした。そういえば、日本中世史についてもう一冊忘れられない岩波文庫版の石母田正「中世的世界の形成」にある解説文も石井進先生によるものでした。

石井進先生のご冥福をお祈り申し上げます。



363. 石井 進 先生 サイトの主 [URL]  2001/10/24 (水) 15:35
日本史の石井進先生が今朝24日に亡くなりました。
山川出版社で今夕予定していた会議がそのために開けなくなったので、そのむね急報がありました。

ぼくは石井先生の授業に出たことはないが、1977年いらい色んな場面でお世話になっています。1977年というのは、岩波書店で社会史の企画を考えるために始まった、いま考えてもすごい研究会合です。
中心には柴田三千雄・二宮宏之・阿部謹也・石井進・網野善彦・安丸良夫・高橋徹・宮島喬といった当時50歳になるかならぬかの錚々たるメンバーが『思想』の編集陣3人をしたがえていました。そこに若き合庭惇さんもいたのです。石井さんも二宮さんも、まだ45くらい! ほぼ10人から15人くらいで、隔月、それぞれの研究と問題意識を明白にだす討論はとても勉強になったが、しかし、最年少で29歳のぼくは名古屋から往復交通費を出してもらって、参加するというより、文字どおり末席を汚していました。(31歳の杉山光信さんも大阪から参加なさっていました。)
ぜいたくな会合でしたが、『思想』の〈社会史特集〉号は柴田先生の学部長就任と病気で、かなり遅れることになったので、ぼくの「1756〜7年の食糧蜂起について」(上下)は単独で78年12月〜79年1月に出してしまいました。結局は1979年9月にでた〈社会史特集〉号には小さな翻訳でお茶を濁し、‥‥むしろ岩波書店としては『日本の社会史』そして『世界史への問い』という企画として結実したのでしょう。
1988年に東大に来てみると、当然ながら日本史は石井先生の時代で、先生は中世でなく近世史の学位論文の主査として2度ほど副査にぼくを加えてくださった。気どらない方で、学生のような服装、法文2号館地下の食堂メトロで定食をとり、教授会では(定席はほぼ会議室のまん中でしたが)気に入らない議題が進行中は、よーく通る豪快ないびきをかいておられた。
東大を定年退職なさって歴博に移られてからもお元気で、中高校が一緒だったという喜安朗さんによれば、
1) こんなに頭のいいヤツが世の中にいるのか、と思い知って日本史は避けてきた。2) あいつは生徒のとき踏切で電車にぶつかったのに死ななかった、丈夫な男だ。
というわけで、急な訃報に信じられない想いです。

妄言多謝、ご冥福を祈ります。



361. Re: 経済学と歴史学 Jizo  2001/10/23 (火) 00:04
サイトの主様

> はたして経済史は経済学のしもべなのか?
> 過去に問いかける学には、独自の課題と貢献はないのですか?
> 山田経済学の正しさを証すためだけにヨーロッパ経済史を研究するなんて...空しいことに思えてしまう。

耳が痛いほど、おっしゃるとおりだと思います。少なくとも僕は、経済史を経済学のしもべとは思いたくありませんし、思ってもいません。ただ、僕のいいたかったことは、歴史独自の課題と貢献をおこなう方法・仕方の問題です。歴史がなにかを表現する場合、どうしてもその方法・仕方に制約を受けると思います(大塚久雄はそのような「枠」を越えて活動してしまった面があったと思います)。

問題にしたいのは、経済史がなにを担えるか、なにを主張していくべきなのか、ということです。経済史と経済学との関係は、経済史のさかんなイギリスでも、しばしば論議になっているようです(たとえば、D.C.Coleman,'History, Economic History and the Numbers Game',Historical Journal,38(1995),pp.635-646.)。

私見ですが、現在の「経済学」と「山田経済学」の対話は不可能に近いものがあります(両者の問題関心さえほとんど一致しません)。『西洋経済史学』は山田経済学の正しさを証すためだけではなく、大塚史学を片方で見据えつつ、経済学を通して歴史を語る「現代的」な方法を探す目的をもつのではないか、と感じました(繰り返しますが、私見です。さらにいうと、そんな難しく器用なことができる方なんて、いないのではないかと思いますが)。日本で(大塚久雄を忘れ去ることなく)「西洋」の「経済史」を学ぶ意義はどこにあるのか。著者たちは明確な答えをだしたいのだと思います。
けれども、おっしゃる通り、この見解(←これ自体、僕の思い込みという可能性もあります)がすべての著者に共通のものであったか否かは、(内容の専門分化もあり)判断できかねます。

> あるとき非常勤を勤めていた私学の英文科で、英文学の先生方が歴史は background knowledge を与えるだけの補助学と考えておられる

同じような悩みを抱える方は、様々な場所に、何人もいらっしゃるのですね。
偉そうなことをいう前に、僕の視野の狭さを考えてみるべきでした。



360. 359↓より:経済学と歴史学 サイトの主 [URL]  2001/10/22 (月) 13:08
> ご無沙汰しております(覚えておられないでしょうが(^^)。
 どなたかお名前、人となりこそ分かりませんが、frequent visitor であることは承知しています。

> 少なくとも経済学部における歴史=経済史の立場は、文学部より微妙なものにならざるをえないと感じております。‥‥
> 何よりも経済史は「経済学」でなければなりません(←ここを追及しないでください)。
 だとすると、わが考えの浅さを反省します。
しかし、同時に大塚さんは常にご自分を歴史家と考えていたので、『西洋経済史学』の共著者の皆さんのばあいはどうなのか、一人一人聞いてみたい気にもなります。はたして経済史は経済学のしもべなのか? 
あるとき非常勤を勤めていた私学の英文科で、英文学の先生方が歴史は background knowledge を与えるだけの補助学と考えておられる−−その証拠に英文の教員10人あたりイギリス史の教員1人で十分!−−ことが判明して、びっくりしたことがあったなぁ。
 過去に問いかける学には、独自の課題と貢献はないのですか?
 大塚久雄が、根本的なところでマルクスおよび山田盛太郎の経済学から学んでいたことは否定しようもない。しかし、山田経済学の正しさを証すためだけにヨーロッパ経済史を研究するなんて! If so, ぼくには空しいことに思えてしまう。



359. Re^2: 西洋経済史学/バーク Jizo  2001/10/20 (土) 02:00
サイトの主様

ご無沙汰しております(覚えておられないでしょうが(^^)。
『西洋経済史学』の評価、拝見しました。

> 共著書がとりわけ教科書であれば、編集方針は決定的で、十分に練らねば、まったく意味のないものが出来上がります。…あたかも、1962年完結の『西洋経済史講座』5巻(岩波書店)の翌年に編んだのか、と想わせる構成です。

よりダイナミックな解釈を試みた『文明の表象 英国』などとは異なり、ずいぶん味気ない「大塚史学」の解釈であること。大切な分析の視点があまり取り入れられていないこと。
世代が異なり、ほとんど知識をもたない僕にも、なんとなく伝わってまいります。

ただ、ご批判には、現在の経済史にはめられている「枠」の厳しさもくみとっていただきたいと感じざるをえません。
少なくとも経済学部における歴史=経済史の立場は、文学部より微妙なものにならざるをえないと感じております。

経済史においても、研究対象が、歴史にも思想にも、多岐にわたるのは確かだと思います。が、何よりも経済史は「経済学」でなければなりません(←ここを追及しないでください)。真面目な方になるほど、経済理論や方法論と、歴史学との対話の仕方を試行錯誤しながら探しているようにみえます。
「ヨーロッパ(現地)の細分化した研究動向」と「経済学」という制約のなかで「大塚史学」(「あえて」と、その前に付け加えてもいいと思います)と向き合おうとした筆者の方々の苦労を、もう少し評価していただきたいような…(←未熟者の戯言ですので、ご容赦ください)。

現在の経済学の潮流とかけ離れてしまったことを悩みながら執筆された(と思います)『西洋経済史学』の視線は、大塚史学とその思想的側面だけではなく、かなりの部分、「大塚経済学」と現在の経済学との架橋に向けられているような、そんな気がします(残念ながら、うまくいきそうにない試みだとのご批判も、もっともだと思うのですが)。



358. ケインブリッジの人びと サイトの主 [URL]  2001/10/15 (月) 15:00
357.↓より
> ‥‥一応みすず版を図書館で借りた次第です.
> ただ僕は根っからのマニエリストであることも‥‥

それは、たいへんな失礼を申しあげました。
マニエリスム、高山宏さん、そして川崎寿彦さんのものには(10年あまり前に)少しのめり込みましたよ。お二人とも、われわれ歴史家より、話がずっとお上手です。

> 「ケンブリッジは大学以外何もない」‥‥

あと図書館と博物館と、川と緑と、晴れた夜は星空がある! 真夏の「白夜もどき」には北欧のはじまりだと思いましたが、天の川ってこんなにたくさん星があるんだ、と感じ入りました。東京はもちろん、そのころ住んでいた名古屋の夜にくらべても、星の密度にはるかに迫力があった。
ケインブリッジでぼくの住んでいたフラットの裏に森があって、そこを抜けると天文学の研究棟、右に曲がると獣医学の棟がいくつか並んでいました。7歳の娘の同級生メアリ、5歳の息子の同級生トムの家族がそこにいたので、ずいぶん行き来しました。お母さんステファニはすばらしい美人で‥‥2年間、そこにいるうちにドラマティックな展開があって、獣医をしていたメアリのお父さんは事故で亡くなり、気丈なステファニが牧師さんにかかえられて取り乱してしまったり‥‥
つまり、ケインブリッジには大学があるだけでなく、人がいます。
中岡哲郎『イギリスと日本の間で』(岩波書店、1982)が、ぼくとすれ違いのケインブリッジ生活を描いています。そこに登場する「K・Uの死」とは工藤雄一(イギリス経済史・経営史)といって、一橋の大学院から南山大学に就職して留学した努力家ですが、死ぬ2ヶ月前にケインブリッジから一時帰省して、名古屋のぼくの部屋に訪ねてきました。



357. Re^2: 西洋経済史学/バーク 東京田舎人  2001/10/14 (日) 03:51
先生の掲示板のレベルを下げているのかと恐れますが,

> それをみすず書房の「著作集」か中央公論社の「世界の名著」で読んで言ってくれたのなら、それこそ sublime ですが、高山宏(英文学)経由では‥‥

もちろん、先生の仰る通りで一応みすず版を図書館で借りた次第です.
ただ僕は根っからのマニエリストであることも付け加えておきます.

私が現在(何故か学部も違うのに)所属しているゼミのT先生(専門は政治思想)はケインブリッジ大学で博士号を取られた方ですが、気取ったところもない優れた方です.「ケンブリッジは大学以外何もない」とか言ってたような,うる覚えです.ああケインブリッジよ!!!ただ、氏は最近狂牛病の発症を恐れてますが【笑、えないが】.




356. Cambridge/エデンの園 サイトの主 [URL]  2001/10/12 (金) 18:07
ケインブリッジ(市・大学)といえば一般に Queens' から King's − Clare − Trinity − St John's にいたる Backs が有名です。ぼくの場合、1980年8月に初めてイギリスに着いて数日後、ケインブリッジはバス停の裏の Christ's Piece に居を移しました。いま考えればたいしたことない普通の公園だが、そのときは美しさに感激しました。
また Granta Place(University Centre)から流れに沿って緑のなかをほんのすこし南に歩き Sheep's Green そして Grantchester に溯る流れをみて、「この世にエデンの園があったとしたら、これだ」と思いました。
同時に(日本には、都市的生活に接してこうした美しい「園」はないし)神は unfair だとも思いました。
カレッジ巡りや Fitzwilliam詣ではもちろんですが、明るい週末に誰かを誘って punt や自転車で Grantchester村まで行くのもいいですよ! 昼食はそこのパブ(たしか Red Lion Hotelという名)で食べるのです。



355. Re: 西洋経済史学/バーク サイトの主 [URL]  2001/10/12 (金) 17:45
> つまり,大塚史学との対峙(退治?)なんて結局誰も考えていなかったということでしょうか.

誤解されそうですから念のために記します。『西洋経済史学』(東大出版会)という本の各章・節を分担しておられる皆さんは、それぞれの持ち場で一所懸命に書いている。そこまで否定しません。
共著書がとりわけ教科書であれば、編集方針は決定的で、十分に練らねば、まったく意味のないものが出来上がります。今回の場合、いったいどういう討論があったのか。あたかも、1962年完結の『西洋経済史講座』5巻(岩波書店)の翌年に編んだのか、と想わせる構成です。
高校の教科書でも、皆さんは似たようなことを感じたでしょう。

> バークの『崇高と美の観念の起源』は滅茶苦茶偉大ですね.

それをみすず書房の「著作集」か中央公論社の「世界の名著」で読んで言ってくれたのなら、それこそ sublime ですが、高山宏(英文学)経由では‥‥
The Oxford Companion to English Literature (5th ed., 1985) にもすでに簡明に書かれていますからね。



354. 崇高美 東京田舎人  2001/10/09 (火) 01:41
なるほど、と『西洋経済史学』への先生の書評を読む.そんな初歩的なミスがあったなんて.つまり,大塚史学との対峙(退治?)なんて結局誰も考えていなかったということでしょうか.まだ買ったまま読んでいませんが.

バークの『崇高と美の観念の起源』は滅茶苦茶偉大ですね.(少なくとも)僕がテレビを食い入って観たのは結局「sublime」だったという.遅れ馳せながら高山宏氏から学んだことですが.



353. 裏返しのオリエンタリズム サイトの主 [URL]  2001/09/25 (火) 17:36
1) のつづき:
実行犯がアメリカや西欧に居住していた、ということは、「敵」は外なる世界にでなく、内なる世界に居る、という、ブッシュなど単純な人びとには身の毛のよだつ事実でしょう。問題が主権国家間の交渉や威圧ではすまないことを、すでに示しています。

2) 2番目に問題にしたいのは、一種、裏返しのオリエンタリズムです。
>問題が単純な2項対立に、つまり‥‥正しい我々とそのような我らの日常を破壊した、わけのわからない奴等という図式に還元される‥‥

という事態を批判するのは簡単です。だからといって「常識」を裏返しにしてイスラームの寛容、アジアの豊かさを礼賛し、それに対置して、近代西洋(キリスト教文明?啓蒙的合理主義?)の非寛容、その痩せた線形の宇宙, etc. をあげつらうというのも、つまらない営みです。
歴史や文化の研究は、対象に同化してその代弁者になるためにするのではない、とぼくは信じます。21世紀の生き方を見つけるための、我々じしんのための営みでしょう。



352. あなたには「見える」のか サイトの主 [URL]  2001/09/25 (火) 17:32
> 問題は“誰にとって”「見えない」のかを考えることだとも言えないでしょうか.‥‥

ぼくが「見えない敵」と言ったことが誤解されているようです。問題は2つあります。
1) ぼくはブッシュみたいに単純じゃありませんし、今回を正邪の戦いとは見ていませんから、この「敵」とは、ニュートラルに法的なレヴェルで実行犯とその集団のことです。
いったいあなたには、そしてタリバンの人びとには見えるのでしょうか? ブッシュおよび米当局者がどんな「証拠」を示すのか、ぼくは刮目していますが、そもそも扇動教唆を証明するのはむずかしい。
演説や電話で「米帝国主義殲滅」「やっちまえ」「ヒコーキで突っ込め」とアジったからといって、それがただちに扇動教唆になるわけではない。具体的に何月何日にどこでどう工作して、誰と誰が組んでヒコーキをハイジャックし、どこそこに突っ込む、という指示を出した、と証明できないまま、Wanted, dead or alive というのは、まるで西部劇の世界です。テキサス州知事なら!そんなこと言っていても許されるかもしれないが、法治国家の大統領が、しかも同盟諸国をまきこんで公言してよい論理ではない。
ちなみに、1952年5月1日「血のメーデー事件」の数日後、恋人宅に潜伏していた都立大学助手・共産党員・柴田三千雄は、警視庁警官隊に包囲されて逮捕されましたが、結局、警察はなにも証明できず、彼を無罪放免するしかなかった。以後、数年にわたって彼は尾行されはしますが、刑事責任を問うことはできません。日本は法治国家なのです。
だれが、どのように全体をオーケストラのように指揮して、みごとに黙示録的世界を表現しえたのか。それを特定することなく、ただ原理主義者だ、過激派だとやっつけるのは、野蛮な行為、犯罪です。ぼくは予言しますが、もし安易に報復軍事行動にうつるなら、のちに国際法によって、アメリカ当局は裁かれるでしょう。
→ つづく



351. Signing the Petition Kondo [URL]  2001/09/25 (火) 12:05
> http://www.9-11peace.org/petition.php3

I sign the petition not because the terrorist attacks were against the USA.
I sign because they were against civilization and humanity.
If the terrorists represented the apocalyptic resentments around the world against the vicious plutocracy and its 'policemen', they would have attracted a huge applause from every corner of the world.
But they do not.
President Bush and other leaders of the world (including the Japanese PM Koizumi) should not respond as 'a conditioned reflex' to a stimulus. They have to show that they have 'reason' as well as civilized humanity.
I sign not out of anger, but with full of sorrow and anxiety.



350. The Petition to avoid war サイトの主(転載)  2001/09/25 (火) 11:11
Action for Justice, not War

The Petition

What follows is a petition that will be forwarded to
President Bush, and other world leaders, urging them
to avoid war....↓

http://www.9-11peace.org/petition.php3



349. 自由主義の最後? amherst  2001/09/24 (月) 12:19
だからアメリカの理念からするとこれは単なる国益の問題ではすみません。自由という理念そのものへの邪悪な攻撃に他なりません。
逆に、自由は全世界人民、あるいは歴史を越えて全人類にとっての貴重な財産と正直に信じているところがあります。一定の価値観に過ぎないとの視点はもてません。イスラムから見るとこれは強者の論理に過ぎないと思える識者が世論を指導できる体制にありません。
ITを最先端として、現在の技術は自由を確保しようとしたら、途方もない管理システムを作らないとすまない段階に来たのかもしれません。イギリスに出現しているように「テレスクリーン」で街頭を市民を監視しないと維持できないのかもしれません。改めて「1984」の世界は自由の体制だったんだと感じています。しかし、それは無理だな、矛盾だなと思います。いよいよ自由主義は最終段階を迎えているのかもしれません。
アメリカで具体政策よりそんなことを考えています。



348. アメリカの自由 amherst  2001/09/24 (月) 12:16
「ですから,善悪という簡単な図式も,結局人々が普通感じる日常の構造にそった声明であり、とりわけワシントンの政略とも言えないのではないでしょうか.」
この見解に賛成します。この事件があったときアメリカははじめからこれは自由に対する攻撃であるとの点に立ってどうすべきかを考えてきています。一つには今回のテロは明らかに一線を越えています。その点でイーヴィルです。しかもアメリカの根本的なシステムの最弱点をついてきました。自由が成り立つためにはずいぶんぎりぎりのことをやっていかなければならない、その認識、覚悟の下に動いてゆくシステムなんだと改めて感じさせられました。本当に自由を維持するためには、それに敵意を持つものさえ偽装している限り奥底まで入っていけることを認めないととてもやってゆけません。今回のテロはそこをつきました。米国文明が危機を感じたのはそこだと思います。たとえば、ハイジャック防止策を徹底してゆけば、移動の自由が大いに阻害されてしまいます。現代米国文明において、航空機での移動なしでは自由なビジネスなんて考えられません。さらにあのテロで何もしなければ、そしてたぶんむしろ反撃すれば、そのほかのセンター機構、水源貯水池、インターステートハイウェイ、原子力発電所まで次々と攻撃されかねません。こうなったら自由な市民生活なんて考えられません。そのおそれはアメリカでは感じます。
一年間まともこちらにいられるのでしょうか、送金が受けられない事態になることもあるのじゃないか、帰国の時期に帰れるんでしょうか、今回無事でもあと4,5年後に史料調査でアメリカ入国なんて夢みたいな話になっているんじゃないか、これくらいにのことはかなり現実的に感じられます。
そんな事態なら、ビジネスはもっとしぼんだものになっているでしょう。グローバルスタンダードなんていっていたのが遙か遠いことになります。アメリカが危機感を持っているのはそこでしょう。
<以下続く>



347. 誰に「見えない」のか 東京田舎人  2001/09/21 (金) 03:59
>  むしろ、事件後、「見えない敵」にたいして直ちに、善と悪との戦いだと定式化したワシントンの政権の単純明快さを問題にすべきだと思います。

蛇足ですが、「見えない」のは自明ではないですから,問題は“誰にとって”「見えない」のかを考えることだとも言えないでしょうか.少なくともイスラーム世界に生きる人々にとって彼ら原理主義者達は「見える」だろうと(仮説ですが)思われます.しかし、非イスラーム世界の人々には「見えない」わけです.そして人々が「見えない(敵)」と感じてしまうこと自体によって(そこに悪というレッテルを貼る以前に)、問題が単純な2項対立に、つまり(「無限の正義」でなくとも)正しい我々とそのような我らの日常を破壊した、わけのわからない奴等という図式に還元されることになると私は考えます.

ですから,善悪という簡単な図式も,結局人々が普通感じる日常の構造にそった声明であり、とりわけワシントンの政略とも言えないのではないでしょうか.

とすれば,結局問題なのは,そのような構造だとも言えますが,これを非難するのは簡単ではないことは言うまでもありません.



346. Field of force  サイトの主 [URL]  2001/09/19 (水) 13:09
> 先進国にとって、イスラーム一般が象徴的に理解されず‥‥

 アメリカ政府はバカではないし、公民権は大前提だから、アラブ人やイスラームもまた「アメリカ人」の構成要素であることを機会あるごとにメッセージとして鮮明にしています。
 むしろ、事件後、「見えない敵」にたいして直ちに、善と悪との戦いだと定式化したワシントンの政権の単純明快さを問題にすべきだと思います。(世界資本主義でなく)文明に対する挑戦、そしてアラブ人もイスラームも国民として受け入れている「自由なアメリカ」による世界秩序 Pax Americana に対する挑戦、という定式に、フランスやロシア、そして中国までが、いろんな計算があるんでしょうが、賛意を表した。さらには、パキスタンも PLO も賛同しないことには殲滅されてしまう、この情況。これは、危機的だと思います。
 ちょうど小学校の理科の時間にシタジキの上にばらまいた鉄粉がばらばらな方向を向いていたのに、磁石を下から近づけるとピリッと姿勢をととのえるみたいに、磁場をよく見える形でしめした。平時にはありえた中間的な存在(or第3、第4の勢力)が、国際政治ないし軍事的な磁力が強まることによって、ニュアンスなしに整列されてしまう。Field of force とは、磁場であると同時に、力の戦場でもあります。



345. 戯画的・生命・イスラーム 東京田舎人  2001/09/18 (火) 20:55
クリントン時代からトマホークをアフガンなどに国際法を完全に無視して打ち込んでいたのですから、それに対する報復が為されても(不見識かもしれませんが)当然といえます、むしろバックドアじゃないのかと疑いたくなります.

先進国にとって、イスラーム一般が象徴的に理解されずイメージ優位で愛憎の次元でしか認識されないということが、アメリカによる正義の報復を容易にするというのは、もうあまりに戯画的で、学者がこの半世紀培ってきた言説がやはり現実の強さによって裏切られるのかと思うと、これから研究者になろうとする身としては自信喪失状態にならざるをえません.まずは冷静になり、サイードの『イスラム報道』あるいは『Power,Politics,Culture』を読むことで、この事件に対する姿勢を見なおしたいと思います.


犠牲になった方、そして正義の報復により犠牲になるだろう方に…



344. 危機の言説 サイトの主 [URL]  2001/09/15 (土) 16:22
> 特派員報告‥‥
をありがとう。
 独立行政法人も、来年度の授業編成も、あるいは○×学会の構想や△▽出版社の企画も吹っ飛んでしまいそうな大事件の衝撃です。
 昨夜=今朝の ABC 中継でワシントンの National Cathedral of St Peter & St Paul (!)の式典を見ました。当然のようにキリスト教諸派のプレゼンスが圧倒的でしたが、イスラム教とユダヤ教からの礼拝が間に挟まれていたのが印象的でした。『文明の表象 英国』第3章に書いたのと本質的に同じですが、宗派の対立を予防したいという政策的メッセージは明白でした。
 それとともに、あの教会空間のなかに 1)「愛は憎しみより強い」とブッシュを諫める言説と 2)「正義・God bless America・軍旗」を顕示する言説、という2つの志向性が共存していた。その矛盾は、単純で美しくアメリカ人の心に訴える音楽と感涙でカバーされる、という構成です。すべてが explicit で気持ちよいくらい。
 そのころ、この島国では、小泉首相のあいかわらず早口で明晰ならぬ短いセンテンス、帰国した石原知事のあいかわらず高慢で神経を逆なでするような発言 ‥‥ どちらも品がないし、朗読/スピーチの訓練をうけてない、すなわち欧米ならエリート≒権力者の資格のない政治家たちに公的言説を占領されて、この国は大丈夫でしょうか。
 世界資本主義の危機が来週からどう現象するのか、文字どおりcritical な局面にどう対応するのでしょう。



343. 戦争とテロリズム mailto:akkudo@club-internet.fr  2001/09/14 (金) 04:52
ニューヨーク、ワシントンの事件について、誰もが感じている危うさ
の焦点は、「戦争」と「報復」という言葉があたりまえに口の端に昇っ
てしまう現状ではないでしょうか。ここフランスでは、事件後二日が
たって、この点についてのコメントが多く見られるようになってきま
した。
ここでは今晩(13日夕)放送された、元大統領ヴァレリ=ジスカール
デスタンのインタビューを紹介します。
(本題とは直接関係ありませんが、フランスではたとえば元大臣は職
を離れていてもずっとMonsieur le Ministreと呼ばれます。政治家の
肩書きが一生ついて回るというのは、他の国でも見られる習慣でしょ
うか? というわけで、「フランスはこれこれすべきか」という問い
に対して、ジスカールはまるで自らが決定権を持っているかのような
調子で、「すべきである」と答えるのですね、なんだか微笑ましい…)
さて、インタビューの中でジスカールが強調していたことは(テロリ
ズムとイスラームとを混同してはならない、といった一般論とともに)、
ここでは「テロネットワークを破壊する」ことが目的であり、この点
についての国際諸国の協力は当然であるが、国民と国民、国家と国家
の対立を意味する「戦争」という言葉を濫用すべきではない、という
ことでした。同じ意味で、「報復」をrepresailleと言おうがriposte
と言おうが、彼にとっては受け入れられない表現なのです。したがっ
て、アメリカへの支援・協力は、その内容についてまず協議がなされ
なければならない…
ジスカールは中道第三勢力のご隠居さまですから、彼の発言は現政権
や現役政治家達の路線を代表しているわけではありません。が、大統
領と首相、全閣僚が最大限に神妙な面もちで宗派共同追悼ミサに出席
しアメリカへのsolidariteを表現しているその裏で、こうした発言
をフランス人向けには発しておくあたりに、ウキウキと憲法解釈を語
り合っているどこかの国とは違った言葉への執着と、政治的老獪さを
感じます。

以上、なにか議論の素材になればと思い、コメント無しの特派員報告
でした。



340. バベルの塔の危うさ サイトの主 [URL]  2001/09/13 (木) 19:41
 ニューヨークの事件で、今のところあまり問題視されていないが、市民の文明的生活という観点から看過できないのは、超高層ビルの脆弱さです。
 いかに飛行機が激突して爆発的な火事になったからといって、1時間前後で構造の全体が自壊する、ということは建築学的にあっていいことだろうか。映画 Towering Inferno では最後に爆弾で屋上の水道タンクを破壊しますが、建物の構造じたいはなんとか保持されます。そうでなければ消防隊や救急隊は危なくて建物に入って行けない。今回の死傷者のうち消防救急の人びとが多数にのぼるというのは、このビルの建築設計思想じたいに、許し難い問題があったためではないのか。
 Birdcage 構造だと、きのう本郷で理科系のある教授が言っていましたが、でも鳥籠は床が抜けても骨組みを残しますよ。とにかく激突でも爆撃でも地震でも、何があっても高層ビルの構造だけは保持されるという建築基準ではない! わたしたちはどう自衛すればいいんですか。エンパイア・ステイト・ビルや本郷の「近代」的な建物とちがって、20世紀末のポストモダン建築物は、建設するときから、すでに数十年後に破壊するときにダイナマイトをしつらえべき急所を設けてあると、ずいぶん前に読んだが‥‥
 慢心と虚栄のシンボルが瓦解した、という点からも、バベルの民とともに O my God... と呟くしかありませんね。



339. 永続的モグラ叩き サイトの主 [URL]  2001/09/13 (木) 18:50
卒論「財政軍事国家イギリス」の筆者から、寄稿をいただきました。ありがとう。そのご、元気ですか?

> ‥‥力の行使を自制する道に進むでしょうか。
> それともヒステリックに領土と自国民の防衛体制の強化、
> そしてさらなる一方的な攻撃手段を求めるのでしょうか。

世界は刮目して見ています。しかし、みずから胸に手をあてて省みる、謙虚、という美徳を知らない国民は、聡明な選択をすることができるでしょうか。
冷戦後の合衆国の世界戦略は、永続的なモグラ叩きになってしまって、これでは耐性ウイルスにたいする戦いと同じく、いかに容赦なく徹底的にやっても、効果はない。最後には疲弊して負けるのです。薬に耐性をもってしまったウイルスにたいして新薬の開発で対する、という永遠のイタチゴッコでなく、そもそも健康とは、有機体とは、というところに帰って再考する、こちらの戦略=生きる姿勢をラディカルに組みかえる勇気が必要です。
ヴェトナム戦争からアメリカがえた教訓は、地上戦にもちこんでは危ない、戦略爆撃で決着をつけよう、というしかないのだろうか。



338. Re^2: Evil versus Evil 堤 一秀  2001/09/13 (木) 14:40
(承前)

 ここ十年にアメリカが行った戦争は一方的な殺戮に近いものだったと
思います。これでアメリカは、いくら技術を高めても、戦えば必ず
自分も傷つくものだと気づき、力の行使を自制する道に進むで
しょうか。それともヒステリックに領土と自国民の防衛体制の強化、
そしてさらなる一方的な攻撃手段を求めるのでしょうか。

 この選択は今後の世界の安全保障体制の先行きにもかかわる問題
だと思います。パレスチナやバルカン半島の安全保障に介入する前に
まず本土の安全を確保しろという声が当然国民の中からも出てくる
でしょう。元々ブッシュ政権は世界の警察役に消極的な気配があり
ますし、あるいはアメリカは覇権国家としての役割を放棄していくかも?
とすら思いました。

 取り留めなく長々と書いてしまい、失礼しました。またお邪魔
します。



337. Re: Evil versus Evil 堤 一秀  2001/09/13 (木) 14:40
 ご無沙汰しております。2000年卒業の堤です。

 全米同時多発テロは大変衝撃でした。アメリカの富と繁栄の象徴
ニューヨーク、そのシンボルたるマンハッタンの摩天楼が、もろくも
崩れ去る。世界で軍事的に最も堅固に守られているはずの米本土、
米軍の総本部ペンタゴンが崩壊し、炎上する。思いもしなかった、
ありえない光景を見た思いです。

 アメリカが易々と本土に対する敵の攻撃を許し、しかも使用された
「兵器」はハイジャックされた民間機であるという事態に、いささか
ならず動揺しました。

 少々速断に過ぎるかもしれませんが、第一次大戦後から始まった
いうなれば「長い20世紀」、アメリカが支配した20世紀の終わりを表す
光景なのかな、と一瞬西洋史研究室の学生に戻った気分で思いました。

 近藤先生の書かれたことに同感です。私は攻撃を受けたアメリカが
正義、テロリストが悪と単純に割り切れません。テレビで繰り返し
流れる航空機がWTCタワーに突入する映像を見て、これはアメリカが
punishmentと称する攻撃で巡航ミサイルを打ち込まれた多くの国々の
民衆の怒りかと感じました。ブッシュ(父)政権のころからアメリカは
自国兵士の死傷を極力抑えるために巡航ミサイルを多用し、まるで
ショーのようにCNNを通じて全世界に攻撃の様子を放送してきました。
大事なtax payerの死傷はなく、打てば打つだけ大統領の支持率が
上がる巡航ミサイルによる一方的な「懲罰」をアメリカはあまりに
気軽に行ってきた気がします。現実に攻撃にさらされた国の民衆は、
我々が(というよりアメリカ国民が)WTCに突っ込む航空機を見るの
と同じ恐怖を抱いて自国の首都にある建物に突き刺さる巡航ミサイルを
眺めていたはずです。アラブ各地でテロを祝う人達の笑顔には、「我々が味わった恐怖を思い知ったか」という感情の爆発があるような
気がします。



336. Evil versus Evil サイトの主 [URL]  2001/09/13 (木) 13:14
 日本時間の11日夜からの報道は、衝撃的でした。まだ全容はつかめませんが、世界史にのこる事件でしょう。
 ニューヨークとワシントン、世界システムの中枢が3機の民間機によって攻撃され、しかも命中した超高層ビルが、火災後2つとも瓦解した、その映像が全世界に繰り返し報じられた。これが衝撃でなくてなんでしょう。
 文明への挑戦−−たしかにそうです。
 多数の市民の命が奪われた。しかも朝9時前から働いている勤勉な市民が殺された。これは許されない犯罪です。こういう想像を絶する暴力にたいして無防備な文明(安全な日常)の急所を襲ったがゆえにこそ、おぞましい。しかし、これはブッシュの言うような Good vs. Evil の戦いではない。Evil vs. Evil の戦いです。
 日本政府の声明も、多くの報道機関も、論調が奇妙に一面的で浅い。
 たしかに許せないテロリズムだが、アメリカ(の権力)のおごり・独善へのいましめでもある、ということを見なければ、類似の事件の再発は防げません。11日夜、なにも知らずに帰宅したら、偶然ながら家人は BS で 'Needful Things' を見ていました。憎しみの増殖によって破局にいたる映画です。合衆国は世界の一極化にともない、マネーゲームとウォーゲームに狂奔し、好き勝手なことをつづけ、異議を申し立てる人びとに報復(ブッシュの言う punish them)をくりかえし、それにたいする civilized protest の道を封じてきた。強大な猫と、弱小な鼠とのあいだに憎悪/恐怖が駆り立てられて、ことここにいたり、いわば窮鼠が死を覚悟して猫の急所を噛んだのです。
 しかもシンボリズムにおいて誰の目にもあきらかな攻撃でした。計画犯の観点からすれば、3/4の結果かもしれないが、効果において大成功と言えます。
 <バベルの塔>の崩壊を、わたしたちは目撃したのです。



335. 夏も終わって 金澤周作  2001/09/12 (水) 17:36
近藤先生
 ご無沙汰しております。お元気ですか。
 イギリスから帰って、もう二週間くらいたちますが、人生初めての時差ぼけで、しばらく生活リズムがめちゃくちゃになりました。
 イギリスでは楽しく過ごせました。留学中の友人に遊んでもらったり、西川杉子さんに教えてもらった国会議事堂見学ツアーに参加したり、ワークハウス博物館に行ったり・・・。一応たずねた町のstudies libraryとrecord officeはすべて行ってきました。長くいれたら楽しいだろうなとつくづく思いました。
 そういえば、旅行中二度、「ピータールー虐殺事件を知ってるか?」という質問に驚かされました。一度目はロンドンに就職活動にきていたマンチェスター大学の卒業生(理系)で、ビールを一緒に飲んでいるとき、この質問をぼくがしたら、そんなのは聞いたことがないと言われ、びっくりしました。二度目はブリストルからマンチェスターに向かう列車の中で、今度は隣に座っていた老人からこの質問を受けました。知っているといったら、さらに詳しく説明してきました。見ず知らずの外国人にこんな質問/説明をするということに驚きました。
 だからどうした、と言われそうですね・・・。
 それでは、秋からもどうぞよろしくお願いいたします。
                  金澤周作



334. 日本語表現の訓練について ヒロチ  2001/09/12 (水) 09:15
日本語表現の訓練についてですが、僕はそもそも文章を書く習慣すら持っていませんでした。

僕が日常的に文章を書くようになったのは、インターネットが普及し出したここ5年くらいのことでしかありません。ほぼ毎日のようにEメールを書くことが、文章の訓練になっているのだと思います。Eメールでは、誤解や不快感を与えたりすると取り返しのつかないことになりかねないので、簡潔かつ的確にメッセージを伝える必要があります。だから文章の訓練になるのです。

それ以前は、文章を書くという習慣は、一部の知識階級の占有物でした。我々下々の者は、せいぜい学校で無理やり作文を書かされるくらいで、自分から能動的に文章を書く機会を持っていませんでした。

10年前にワープロが普及したことよって少し状況が変わりました。何度でも書き直しができるので、書き出すときの抵抗感がなくなり、文章を書くことが数段楽になったからです。とはいえ、それは決して劇的な変化ではありませんでした。なぜなら、必要に迫られて書くとき(卒論や修論など)以外には使う機会がなかったからです。つまりワープロ機能だけでは、人間の中に眠っている「書くこと」に対する欲求や能動性を引き出せなかったのです。

Eメールの登場がこうした状況を根本的に変えました。Eメールは、人に読まれる文章であるからこそ、我々を「書くこと」に対して能動的にしてくれます。以前は「書くこと」に対して無縁であった我々下々の者たちが、「書くこと」に目覚め、日常的に文章を書くようになったのです。

活字文化の衰退が言われて久しく、実際にも本が売れなくなっていると聞きます。しかしながら、事態を「読む」方ではなく「書く」方から見てみれば、Eメールの登場によって、文章を「書く」習慣を持つ人口が爆発的に増えているはずです。こうした人たちの中から今後すごい人が現れるかもしれません。この現象はたかだか5年くらいの間に起きたものであるだけに、まだ表面化していないのです。

なお、我々下々の者も美文や名文を書きたいのはやまやまですが、分を超えたことをすると却って教養のなさをさらけ出す結果になりかねません。また、教養や文才のある方々と同じ土俵上で戦っても勝ち目はありません。ですので、簡潔かつ的確な文章を書くことによって、そうした方々と勝負させていただきたいと存じます。よろしく!



333. Kくん ヒロチ  2001/09/12 (水) 09:14

Kくん:

去年の夏に日本に戻ったときに、Kくんが論文を提出したという話を聞き、負けておれんと思ったのでした。いま思い出しました。お互い頑張りましょう。



331. フランスのゲートウェイ mailto:akkudo@club-internet.fr  2001/09/11 (火) 21:01
ヒロチ様

フランスでどつぼにはまって帰るに帰れなくなる自分の姿が目に浮か
ぶ、Kでございます。お元気でいらっしゃいますか?

さて、サイトの主様のパソコンは、データの全面的消失という最悪の
事態は避けられた様で、安心いたしました。今後の修理復旧作業が順
調に進むことをお祈りしております。

今度のゲートウェイの件を聞いて、数年前にとある先輩とかわした会
話を思い出しました。「ゲートウェイというのはどうだろう … おも
しろいマシンを売ってるが、業績が悪くなればすっと日本から撤退す
るかもしれない、そのへんを割り切って考えるのならばいい選択だろう…」
(たしか、今オクスフォードにいらっしゃる方と話したことだったと
思います。お元気でしょうか。)

ゲートウェイはイギリス、アイルランドからの撤退も発表したようで
すが、フランスでは当面営業を続けています。フランスはパソコンに
限らず、電気製品一般が「希望小売価格」そのままで小売りされてい
るという信じられないくらいのんびりとした先進国なので、ゲートウェ
イも利益が出しやすいのかもしれません(素人考えですが)。

「パソコン」という一つの工業製品が爆発的普及から十年もたたずに
売ってももうからない品物になってしまった、というのですから、わ
たしたち時間に関する思考をめぐらすものとしても、みずからの感覚
を見つめ直さなければいけないのかな、などと考えています。

それでは、失礼いたします。



330. Re: Iggers 先生もお喜びでしょう サイトの主 [URL]  2001/09/11 (火) 14:58
> ‥‥とうとう書き終えました。自分でも驚きました。去年の秋に始めたときには、本当に出きるとは思っていませんでした。しかも(自分で言うのもなんですが)、内容的にも目を見張るものがあり、そこそこまともなスペイン語にもなっているのです。

そこはあなた、何年前でしたか、わたくしめを通訳に任じて Georg Iggers 先生と論争したヒロチくんですから、マドリッドで不良少年たちに殺されても元気に生き延びる不死身の体力も加わって、意あれば通ず、の留学生活ですね。
 ところで、
>スペイン語で文章を書く訓練を積んだことがないのですから、
>やはりそれなりの工夫は必要だった‥‥
>スペイン語表現のデータベースを作ることにしました。
>研究書を読んでいるときに論文で使えそうな表現をみつけては
>アンダーラインを引き、それらを後でまとめてパソコンに入力

というのに似た経験は、PC入力までするかどうかは別として、だれにもあるのではないか。ついでに言えば、ヒロチは日本語表現の訓練はどこかで積んだのですか?
 ある先生(もと東大教授)は、森鴎外の文章を原稿用紙に引き写して、その文章のコツ=秘密を盗んだ/でいる、と20年ほど前に述懐していました。ぼくも英語で書くときは、明晰(くどくない)ということが第一ですが、日本語だと、そのときどき小さな実験≒冒険≒遊びを繰り返していますよ。だから30歳の文体と、50歳の文体では、全然と言っていいほど違う。32歳で「進化した」なんて、図に乗るんじゃない!!
 なお、
>‥‥今回は手稿文書の使用は最小限度にとどめ、主に刊行史料
>と研究文献を土台とすることにしました。

というのは、賢明な選択だと思います。
 どこの歴史研究であれ、たった一人が苦労して判読する以上の(publicな)意味のある史料が、それゆえにこそ編纂・公刊されているわけですから、刊行史料を十分に利用することなく、きちんとした論文は書けないのです。刊行史料を渉猟せぬまま手稿にとびつく人は、いったい自分の仕事がarchivist の作業以上の研究になっているのだろうか、とつねに自問する必要があると思う。
その点をぼくは「18世紀マンチェスタ社会史」『史学雑誌』1982年12月、にしっかり書きました。ぼくのpublicationのうち、もっとも価値があり、もっとも看過されてきたものの一つではないでしょうか。(当時、受けとめてくれた人は、3人+? 荒野に向かって叫ぶような想いでした。)



329. 近況報告(3) ヒロチ  2001/09/11 (火) 09:44
書き始めたのは六月の半ばです。卒論は4日前、修論は10日前に書き始めた自分としては異例の早さですが、なにしろ慣れないスペイン語で書かなければならないのと、少しずづ書いては指導教官にチェックしてもらうことになっていたので、こんなにも早く書き始めることになったのです。

日本語で書くときとの大きな違いは、勢いにまかせて書くことができないという点です。これはつらかったです。しかも夏の暑い盛りで、日中は40度を超える灼熱地獄の中で勉強していたので、脳味噌の普段使っていない部分まで活性化し出し、変な妄想に取り憑かれて困り果てました。

しかしとうとう書き終えました。自分でも驚きました。去年の秋に始めたときには、本当に出きるとは思っていませんでした。しかも(自分で言うのもなんですが)、内容的にも目を見張るものがあり、そこそこまともなスペイン語にもなっているのです。32歳にしてまだまだ進化できるものだと感心しました。

とはいえ喜んでばかりはいられません。日本で言えばたかが修論を書き終えただけのことです。しかも時間をかけ過ぎました。もし同じものを日本語で書いていたら、おそらく半分の時間で終わっただろうと思います。

日本を出るときには2年の予定でいましたが、2年目が終わっても、まだ本格的な文書調査が出来ていないというありさまです。したがって僕の場合、順調だから3年目に突入しているのではなく、順調でないから3年間もいる必要があるのです。しかも留学期間が長くなればなるほど、それなりの成果がないとカッコウ悪くて日本に帰れなくなってしまいます。

日本にいたときには、4年も5年も留学して帰ってくる人たちを見ては、この人たちは何てすごいんだろうと思ったものですが、今から考えて見ると、もしかしたらこの人たちは、どつぼにはまって日本に帰ってこられなくなっていたのかもしれません。

まだまだ先は長いです。



328. 近況報告(2) ヒロチ  2001/09/11 (火) 09:43
2年目に入ると授業はなく、日本の修士論文に相当する論文を執筆することになります。この論文が審査を通ると12単位が与えられ、博士論文執筆資格を得ることができます

日本を出てくるときには、とりあえず2年間を目処にして、博士論文執筆資格を得るところまでやろうと考えていました。ヨーロッパの学問をやるからには、単に論文執筆のための史料収集をするだけではなく、こちらの制度の中に身を置いてみることも必要だと考えたからです。

しかし2年目に入って、論文を書こうかどうか正直いって迷いました。そもそも日本語でも書けないのに、なおさらのことスペイン語では書けそうな気がしませんでしたから。また100頁という分量をこなせるかどうかも不安でした。結局は、締切りがあれば勉強せざるをえないだろうということと、どうせ日本語でも書けないのだから、日本語だろうがスペイン語だろうが関係ない、という理由で書くことにしました。

とりあえず、スペイン語で論文を書くためにはどうすれば良いかを考え、スペイン語表現のデータベースを作ることにしました。西和辞典があまり役には立たないからです。データベースの作成は、研究書を読んでいるときに論文で使えそうな表現をみつけてはアンダーラインを引き、それらを後でまとめてパソコンに入力するという方法で行いました。このデータベースには、たとえば「完全な誤りではないが多いに疑問のある図式」とか「規範は単に禁止された領域を指し示すだけではなく、逸脱の性格を決める」とかいった文例が入力されています。こうした文例を2千ほど収集しました。スペイン語で文章を書く訓練を積んだことがないのですから、やはりそれなりの工夫は必要だったのです。

去年の秋に勉強を始めたときには、1ヶ月かけて研究文献の収集を行い、役に立ちそうな文献から読み始めました。問題が多岐にわたっていたために、さらに必要な文献が増えてゆきました。そうこうしているうちにあっという間に春が来てしまい、面倒くさがって避けていた文書調査を始めなければならなくなりました。文書調査は2ヶ月ほど続けましたが、さしたる成果は上がりませんでした。時間もないので、指導教官と話し合った結果、今回は手稿文書の使用は最小限度にとどめ、主に刊行史料と研究文献を土台とすることにしました。



327. 近況報告(1) ヒロチ  2001/09/11 (火) 09:42
スペインに在住するヒロチと申します。

夏至の頃には10時過ぎまで明るかったのに、今では9時にはもう暗くなっています。日中の気温は35度くらいまで上がりますが、朝晩はだいぶ涼しくなってきました。

つい先日、博士論文執筆資格論文を提出し終えました。口頭試問のための準備が残っていますが、つかの間の息抜きをしています。

留学生活ももう3年目に入り、これまでのことを反省してみる必要を感じています。これから留学する人にとっても参考になるかもしれませんし、近況報告を兼ねて少し書いてみようと思います。

1年目は8月にスペインにやってきて、2ヶ月程語学学校に通っていました。大学院の授業は10月から始まるものと思い込んでいたのですが、実は10月から始まるのは学部の授業だけで、大学院の授業が始まったのは11月の末でした。おかげで最初の4ヶ月間は、スペインの生活に慣れるためという口実で遊び呆けていました。

この年の前期(11月から2月)は週に1コマしか取っていませんでしたが、授業で3度の発表を課されていたので、決して楽ではありませんでした。後期(3月から6月)には4つの授業を取ったのですが、そのうち3つの授業で、学期末にレポートの提出が課されていました。レポートは授業の内容に沿ったテーマでなければならず、先生と相談して決定します。A4で20頁を標準とし、単に当該分野の研究状況を把握するだけではなく、ある程度のオリジナルな結論が求められます。授業の準備と並行して3つのレポートを抱え、この4ヶ月間は寝ている以外はずっと勉強しているという状態でした。生きた心地がしませんでした。

前期と後期であわせて20単位(5コマ)を取得し、1年目の課程を終了しました。授業に時間を取られたために、自分の研究をする時間は全くありませんでした。



326. Re: ハードディスクの無償交換 サイトの主 [URL]  2001/09/10 (月) 20:26
325.を書いたあと、緊急の仕事をかたづけるため、問題マシーンには触らず、こちらのノート据置型 Solo9100 でなんとかやっています。半日仕事すると、機器の底だけじゃなく表面も、とても熱くなって不安ですが。
さて 324.325.について読みなおしてみると、書いてる本人が、分割したあとのドライヴァ名について混乱しているので、読んでる方でも当惑しちゃうでしょう。

> まいったな。すべて backup してあった 旧D:=新E: の内容が
> 消えちゃったわけだ。
というのは、正しくは
 ‥‥すべて backup してあった 旧D:=新D: の内容が
 消えちゃったわけだ。
と記さなくてはならなかった!
旧E:は、今でも新F:として生きています。

じつは日本から撤退したGatewayですが、アフターサーヴィスだけはやっていて、Paddyくんの奮闘に答えて、ようやく次のような返事をくれました。
> ハードディスクから異音が発生し、スキャンディスクを行なっていただくと不良セクタを
> 多数検出しているとの事ですので、ハードディスクに要があると考えられます。
> ハードディスクの交換をさせていただきます。
> 該当部品の無償交換にて対応させていただきます。

グローバル化したり撤退したりのアメリカ企業にも、商道徳はかろうじて生きてるのね、と安心。ハードディスクの到着を待っています。
ちょうど『日経WinPC』で「これがPC自作の王道」、『日経Click』では「ハードディスク増設&交換必勝テク」という特集を組んでいますね。時宜にかなった記事というか、似たような問題をだれしも抱えているのでしょうか。
ミッドタワーを開けてみると、2つのハードディスクのめぐりを帯状のケーブルがとぐろ巻き、マスターとスレーヴの設定っていっても、昔のヘーゲル哲学の Herr und Knecht の関係を想い出して、弁証法的に?混乱しそう。マスターだった旧ハードディスクドライヴ1を新品と取り替えるのだから、これはマスターのままでいいんですよね。
それから OSはこのさい Win98SE にします。Gustav王よりはどうしても守旧派=警戒的になります。



325. ハードディスクの信頼性? サイトの主 [URL]  2001/09/03 (月) 20:32
つづきです:
>もしもこの想定が正しければ、Format D:というコマンドに
>よって、ひとつめのハードディスクの第二パーティションを
>フォーマットしたつもりが、別のディスクの第一パーティショ
>ンをフォーマットしてしまったということが考えられます。
>逆に、E:がアクセス不可能なのは、そのパーティションがまだ
>フォーマットされていないからなのではないでしょうか。

と考えると、あらゆることが説明できる! まいったな。すべて backup してあった 旧D:=新E: の内容が消えちゃったわけだ。

じつは、さもありなん、万一に備えて MOディスクにも backup してあったので、ぼくの「外付け頭脳」のすべてが無になったわけではありません。しかし、フォーマット、再インストール後のマシーン1400XLがリムーバブルディスク(MOディスクドライヴ)を認識しなくなっちゃった、という煩わしい付随事故があり、ギーギーギーという不気味な音もするし、不良セクターも1507Kバイトほどあるし(すべて新C:の問題)、今はちょっと触る気がしなくなっています。
今つかっているこれは1998年春のGateway Solo です。266MHz、5GBを3つに分割しています。

8月28日にようやく呪われた(春休みの!)仕事=原稿の最後の部分を送り、さあこれから本当の夏休み、自分の仕事に移るぞ、というときの文字どおり critical な事故なので、精神的な打撃は大きい。
それにしても昨秋もそうでしたが、常に2台のマシンで仕事していないと危機に対応できないというのは、どういうことだろう。根本的にはハードディスクの信頼性という問題ではないですか?
(Gateway Japan が撤退しちゃったこともあり、1400XLの一番目のハードディスク=新C:+D: を自分で取り替えてしまおうか、という気にもなります。雑誌の「自作マシーン」とかいう記事をみると、IBM の 40GBのディスクが今や 13000円ですよ! この半年ほどの価格破壊はすごい。ちょうど10年ほど前、秋葉原で買ってきて恐る恐る自分で装着した内付けハードディスクが、80MBで4万円以上しました。十年一昔とはいうが、‥‥)

とにかく、おかげで一つの事情がほぼ理解可能になり、皆さまに報告できるまでにはなりました。
当面は旧マシーンで火急の仕事はやっつけるとして、根本的にどういう対策をとるか。これはゆっくり考えるしかありません。
 9月3日(月)



324. ハードディスクの名前!? サイトの主 [URL]  2001/09/03 (月) 20:12
 ぼくのマシーンの不調につき、個人的に情報・助言をくださった方々ありがとうございます。まだ最終的な解決にはいたりませんが、事態が理解可能になってきましたので、お知らせします。ぼくのMSDOSの理解が生半可なので生じた問題といえるかもしれない。いつも適切な助言をくれる @南仏/地中海くんのメールに感謝。

>‥‥、領域確保の結果ふたつのハードディスクがそれぞれ
>「基本領域」を持っているのかもしれません。その場合、
>fdisk後のドライブ文字の割り当ては、
>C: ひとつめの(今回システムをインストールしたハード
> ディスクの)第一のパーティション
>D: ふたつめのディスクの第一のパーティション
>E: ひとつめのディスクの第二のパーティション
>F: ふたつめのディスクの第二のパーティション‥‥

前半についてはそのとおり。後半については、びっくりする指摘ですが、つらつら考えるに、どうもそういうことらしい。
4月に領域分割・フォーマットしたときに、すでにぼくのマシーン1400XLには 40GBのディスクが2つ入っていました。科研費で余裕が生じたので、ほんのすこし贅沢をしたのです。その時点で
  C: PRIDOS 43959Mバイト 100%
  D:1 PRIDOS 21987Mバイト  50%
   2 EXTDOS 21987Mバイト  50%
としました。何かのときのために基本領域を2つ確保しておいた方がよいと、10年以上前に学習した『MSDOSラーニングシステム』に書いてあったような記憶があります。

8月末の作業では、この C: について領域分割して
  C:1 PRIDOS 21987Mバイト  50%
   2 EXTDOS 21987Mバイト  50%
としたのだから、(再起動後にも)当然、
  format c: と format d: でこの2つの領域がフォーマットされる、そして上の旧 D: の1, 2 はそれぞれ E: F: に名が変わるがなんの作用も受けない、ということを疑う余地はなかった! 
(しかし、朧気な記憶をたどると、MSDOSで複数のパーティションがある場合、基本領域のあるパーティションから順に名が付くということも読んだような/読んでないような気がしてきた。今やそのテキストは廃棄物になってしまったのです。)

>もしもこの想定が正しければ、

→ つづく



323. fdisk そしてME再インストールしたが サイトの主 [URL]  2001/09/01 (土) 16:54
今週はほとんどPC問題で明け暮れしています。
8月29日、悪戦苦闘* して、ディスク1について領域を2つに分割、formatのあと、ようやくMEの再インストールに成功。
ついでにいくつかの不良クラスタ、allocation unit の修復もできました。
ディスク2についてはいじっていませんので、ドライヴの名前が変わった以外に変化はないはず。
したがって新しいドライヴ構成は
 C: 21.4 GB システム
D: 21.4 GB データ
E: 21.4 GB システム+データ
F: 21.4 GB 貴重データ
となったはずです! E: F: は前のままいじらず触らず。落ち着いたら、それぞれ E:副システム、F:副データ のドライヴとするつもり。C:に一太郎などソフトのインストールもできているのですが、重大な問題が残っています。
1) なぜかドライヴE: が認識されなくなった。したがって E: に保存してあるものが一切読めない。
MSDOSから dir E: とすると、「無効なメディアの種類」
あるいはシステムのプロパティから見てゆくと「ドライヴE: はMSDOS互換モードのファイルシステムを使用しています」というメッセージ。
2) さもありなんと予想して、もともとの C: については MOディスク2枚にバックアップしてあり、慌てず騒がずここから戻そうとしたら、新しいMEがこのリムーバブルディスクを認識せず。ドライヴァをインストールしてあるのだが‥‥

つまり、2つのメディアにバックアップしてあった、その両方にアクセスできない、という甚大な問題です。
WinME の問題なのか、Gateway の側の問題なのか、知りたいところです。ScanDisk C: してみると不良セクター 1,507,328バイトなどと出てくるので、これはハードの問題ではないかと想像しています。
こんなときに Gateway Japan は撤退してしまいました! 



322. Re: 「システムの復元」 サイトの主 [URL]  2001/08/29 (水) 17:01
> 「スタートメニュー>アクセサリ>システムツール」にある
> 「システムの復元」機能は役に立ちませんでしょうか。

 ご助言ありがとう。今は地中海ですか?
「システム復元」も試みましたが、
「復元できません。コンピュータは変更されていません。」
となってしまった。
いまの症状として、あらゆるソフトについて、突然フリーズしたりリンクをクリックすると暗転したりするのです。もう、最悪!
これはしかたなく旧 2000 Soloで打って接続しています。火急の山川と『西洋史学』の仕事を優先していましたが、なんとかけりを付け、本日午後、Windowsの再インストールという最後の手段を試みます。ついでに領域分割もやっちゃおう。今年の4月2〜3日に南仏のKくんの指示を仰ぎながらディスク2について敢行したときは大満足だったのだが。

 なんと今日のyahoo情報では、ゲートウェイが日本から撤退!?
どういうことですか? 東大西洋史は Gateway を愛用して、そのPCは10台も購入してる(ぼくの場合は2台)というのに。これはY助手以来の美しき信頼の証ですよ、Gateway Japan法人さん。なんらかの挨拶が必要でしょう。

 ちなみに、今日のぼくのアカウントに Harry Kitsikopoulos というヤカラからメールが来ていますが、見ずに削除しました。このところこういう怪しげなのがとても多い。



321. 「システムの復元」 mailto:akkudo@club-internet.fr  2001/08/25 (土) 21:46
サイトの主様

機嫌の悪いコンピュータを抱えたご心労、お察し申し上げます。
例によって素人の浅知恵ですが、Netscapeのインストールが(
すべての原因ではないにせよ)影響を与えているように思われ
ます。

「スタートメニュー>アクセサリ>システムツール」にある
「システムの復元」機能は役に立ちませんでしょうか。このツ
ールを使ってNetscapeインストール以前のシステムファイルの
組み合わせを復元すれば、ひょっとしたら改善が見られるかも
知れません。

もしもまだこの機能をお試しになっていなかったら、御一考下
さい。MSKK社がWindows Meの長所として宣伝していた機能です、
というと途端に信用する気がなくなってしまうかも知れません
が…

この機能によって影響を「復元」されるのは、.exe、.vxd、
.dll、.com、.inf および .sys の拡張子をもったファイルです。
そのほかのファイルや、My Documentsフォルダの中身などは変更
されないはずですが、念のため大事な文書ファイルはバックアッ
プをとった上でお試しください。

また、「システムの復元」をしたらかえってWindowsが起動しなく
なるという恐ろしい事態に陥った場合には、以下の手順をすぐに
お試し下さい。
1.Windows Me の起動ディスクで PC を起動します。
2.「1.システムへの変更を元に戻す。」を選択します。
(直前の作業がシステムの復元だった場合のみ、このメニューが
表示されます。)

それでは、失礼いたします。



320. GDI.exe にエラー発生? サイトの主 [URL]  2001/08/25 (土) 16:03
316.にも書いたPC問題は、じつは解決したわけではなく、機械(Gateway のタワー)をなだめすかしながら使っています。今のぼくのことばで特定できる problematics を拙いながら表現しますと、

1) システムリソース不足。こちらは最近は常に意識しています。
2) GDI.exe にエラーが発生。こちらはよくわからず気持ち悪い。

Netscape6.1 をインストールしてから
「Netscape6 が原因で GDI.EXE にエラーが発生
 Netscape6 は終了します
 問題が解決しない場合はコンピュータを再起動‥‥」
というメッセージが繰り返し、ついに8月16日には何らかリンクをクリックすると暗転するという事態になったので、これをアンインストールしてしまい、もとの Netscape 4.7 を再インストールしました。(もしや 6.1と4.7 が共存していたことがまずかった?)
その後ネットスケープについては普通に使えていますが、依然として
「Explorer * が原因で GDI.EXE にエラーが発生
 Explorer は終了します
 問題が解決しない場合はコンピュータを再起動‥‥」
(* この Explorer の部分は、Almail や Hidemaru などそのときに使っているソフトに可変)
といったメッセージは、毎日くりかえしています!
昨日からは、Paddy 君の電話による指南にしたがって、
システムのプロパティ → パフォーマンス → グラフィックス → 詳細設定 → アクセラレイタを「基本」まで落とす
という対症療法で凌いでいます。お奨めの Google から
  GDI エラー 
をキーワードに関連サイトを検索してみると、究極的に Windows を再インストールするしかない!? ただいま、そんなことをしている心と時間の余裕はないのです。そもそも Windows ME を再インストールするくらいなら、別のOSに替えたい!



319. Re: 書評多載とは容易でないが サイトの主 [URL]  2001/08/25 (土) 15:00
> ‥‥何か先生の「書かずには済まされない」というような気迫(あるいは殺気めいたもの)が伝わってきました.
 とは、ありがとうございます。

>あるいは‥‥「日本」という両義的場所において研究することへの苦悶の現われか、と.
 あなたほんとに学部生ですか? とても鋭い。来週に書店にならぶはずの『日英交流史』V(東京大学出版会)の最後の章「日本の歴史学における近代派の伝統」の最後に、それにかかわることを明記しました。

> John Brewerさんの著作(The Sinews of Power)がおもしろそうで夏休みに読んでいます.
 とはすばらしい。18世紀、国家のかたち、財政ということで一級の専門書ですが、しかしブルーワという歴史家はじつに多面的でゆたかな問題意識をもった人です。歴史人類学的な政治史から、民衆文化、もの≒奢侈の文化史まで、楽しんで書いているといってよいのではないか。1970年代ケインブリッジ大学歴史学部が輩出した秀才群のうちでも傑出。
Sinews of Power は大久保訳でいずれ名古屋大学出版会から出るようです。出版会としては、先に出た Linda Colley『イギリス国民の誕生』の訳文について『學鐙』2月号できびしく批判されたので、すこし慎重になっているのかな? このコリーさんもケインブリッジの秀才の一人で、ぼくの論文審査官の一人でした(ブルーワが前年にケインブリッジからイェールに引き抜かれちゃったので)。

 名大出版会といえば、わが編訳『歴史家たち Visions of History』を版元品切れのまま放置して、増刷してくれないのです。ぼくのかかわった本のうちでも、学生向けに元気の出る、良い本ではないか、と自負してるのですが。



318. 書評多載願 東京田舎人  2001/08/25 (土) 01:32
初めまして、某K大学で歴史(と言っても、非西洋ですが)を学んでいるもの(学部生)です.最近遅れ馳せながら『文明の表象 英国』を読みまして、特に前半は、何か先生の「書かずには済まされない」というような気迫(あるいは殺気めいたもの)が伝わってきました.あるいは、このような感想は少し御迷惑かもしれませんが、「日本」という両義的場所において研究することへの苦悶(でも、言葉にしてしまうときわめて安易に聞こえますが)の現われか、と.後半に関しては、「公共圏」という言葉に無駄に反応してしまう自分がいまして、どうしたものかと苦悶しています.

先生おすすめ?の、John Brewerさんの著作(The Sinews of Power)がおもしろそうで夏休みに読んでいます.Web上で、不勉強な学生に読んでほしい良書をより多く教えていただければ、と思います.あつかましいお願いで申し訳ございません.

それでは.



317. A Brush with History サイトの主 [URL]  2001/08/13 (月) 14:56
 国立西洋美術館の「肖像が語るアメリカ史」と「American Heroism」に行ってみました。全然期待せずに。ところが、これが充実してることこの上なし。2時間では見きれなかった! しかも、すいている。じつは一つではなく、二つの展示企画を同時にやっているのだと、途中から認識。とにかく予備知識の不足を恥じたが、それにしても宣伝不十分なのではないでしょうか、新館長様。

 2つの企画が代表具現しているのは、18世紀から20世紀のアメリカ美術史であることは言うまでもないが、近現代ヨーロッパ世界の歴史でもある。アメリカが「第2のヨーロッパ」でなくなったのは、20世紀のある時期で、それ以前は、啓蒙ヨーロッパないし Pax Britannica にたいする劣等複合の色濃い社会だったということもよく表現されています。
 壁の説明文も分析的で、よくできています。ただし、参事会だの副総督だのは、原語を添えてほしいなぁ。これも歴史家館長のお仕事かな。
 http://www.nmwa.go.jp/



316. またもやPC問題 サイトの主 [URL]  2001/08/06 (月) 21:03
 昨日今日のようにほんのすこし暑さが和らぐ日があると
イギリスの盛夏みたい、と嬉しくなります。
 ところが、PC不調にて、この間、あまり愉快ならざる日々でした。cookie もすでに消えています! 電源!も含めて、いくつか機械的な原因が想像されますが、それだけでなく、このところ複数の不審メールを受けたことも気になっています。
 今後は eメールはいただいても、差出人およびそのアドレスにアテがなかったり、Virus Alert! とか 不審なタイトルの場合は、開封せずにそのまま削除しますので、悪しからず。
 ごく最近では、Berkovsky さんと Wayne さんのものは、見ないまま処分しました(Berkovsky=Hi! の場合は 危なかったのです。Wayne=野暮男?からは 何通も!)。
 親しき仲でも、メールの差出人名ないしアドレスにかぎって、おふざけなし、でお願いします。本文のなかでは、どんなに無礼講でもよいのですが。未知の方と知りあう機会をあらかじめ失うようで残念ですが、とにかく virus 感染予防を第一に考えたいと思います。
 とは言い条、この欄の書き込みでハンドルネームを用いることは、なんら問題はありませんよ。念のため。



315. Re: ターナーと NG / Tate サイトの主 [URL]  2001/07/21 (土) 16:05
 東京はあいかわらず雨のないまま猛暑が続いています。

>‥‥1775年生まれのターナーの世代のイギリス人画家が、1793〜1815年のフランス革命戦争とナポレオン戦争でフランスと戦っていたため、かれより上の世代が行なっていたイタリアへのグランドツアーに行けなくなったということです。イタリアの風景や古美術を見れなかったターナーは、製作にあたって、イギリスにあるクロードやイタリア・ルネサンスのコレクションの研究に依存せざるをえなかったと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。‥‥
> ターナーがはじめてイタリアを訪れたのは1819年でした。

 はい。ラモン殿の説のとおり、たしかにターナーがイタリアを訪れて作風を変えるのは1819/20年です(DNB)。でもそれ以前に、じつはフランスおよびスイスには1802年に行って、ナポレオンが戦役の先から没収し持ち帰った絵の展示会や、山岳風景からたいへんなインスピレーションを受けています。
もちろんイングランドのコーンウオル、北部、スコットランドを旅行すると同時に、古典的な作品の模写を続けていたことが、のちのターナーの素養になりました。あれほど個性的で imaginative なターナーもアカデミックな教育から育ったのですね。1808年には Royal Academy の教授です。
 ナショナル・ギャラリができるのは1824年ですから、それ以前のアーティストたちが古典的な作品を、どこでどう見ていたのか、これは美術史の重要なテーマですね。 現在の NG の建物は William Wilkins の設計で、1838年完成。わが『文明の表象 英国』の表紙に屹立する、功利主義文明の表象、University College とあまりにも似ています。同じウィルキンズの設計、1835年施工、であれば自然なことかもしれないが、しかし、たいていの人は違いを指摘できない。こんなに似ていていいのか(設計の手抜きではないのか!)と思わせるほどですよ。
 1898年に開館した Tate がイギリス近現代美術のギャラリとして構想されたときに、ターナーの遺贈(1851年死)が重要な核をなした、ということはご存じのとおり。
1900年に倫敦に到着した夏目金之助が、できたばかりのテイトに通ったことはごく自然でした。(今では、ホーガースの自画像もありますが、夏目先生が、この愛犬と一緒の「一代の奇傑」と対面したのかどうかは、不明にして知りません。)↓
 www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/PictureGallery.html#Hogarth





314. 今日は海の日 Ramon  2001/07/20 (金) 09:12
Galleryに2枚の海港の絵を加えていただきありがとうございます。「造詣に脱帽」とは面映い。まだまだ浅学非才、勉強中の身です。
クロードがカロ(Callot)同様ロレーヌ生まれの三十年戦争期の人間だということに注目された主様の慧眼には兜を脱ぎます。言うまでもなくフランスとハプスブルク家領の緩衝国だったロレーヌは、フランス軍の侵攻による惨禍を被ります。不思議なことにこの戦時中のロレーヌは多くの画家を輩出しており、あとGeorges de La Tour(1593-1652)がいます。光と闇のコントラストの強調という点で、カラヴァッジョとレンブラントをつなぐ位置にありますが、その生涯に不明な点が多く、死後長く忘れられていました。このことも、当時のロレーヌの不安定性と何らかのかかわりがあるのかもしれません。
あとで気付いたことですが、クロードとターナーの絵の類似性にはある一つの事情が伏在していると思われます。それは1775年生まれのターナーの世代のイギリス人画家が、1793〜1815年のフランス革命戦争とナポレオン戦争でフランスと戦っていたため、かれより上の世代が行なっていたイタリアへのグランドツアーに行けなくなったということです(リンダ・コリーは、この戦時中、海外旅行にかわって、国内旅行が流行し、湖水地方やスコットランドの山水の美が発見されたと論じています)。イタリアの風景や古美術を見れなかったターナーは、製作にあたって、イギリスにあるクロードやイタリア・ルネサンスのコレクションの研究に依存せざるをえなかったと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。
ターナーがはじめてイタリアを訪れたのは1819年でした。これと相前後して、バイロン、シェリー、キーツがイタリアに赴き長期滞在し客死したたのも(バイロンのみギリシアで戦病死)、パブリック・スクールでの古典教育で涵養された地中海世界への憧れが、平和の到来とともに堰を切ったように溢れ出た感があります。



313. Re: Delaroche そして Claude  サイトの主 [URL]  2001/07/17 (火) 19:58
> ナショナル・ギャラリ所蔵のフランスの Paul Delaroche(1797-1856)の歴史画‥‥

漱石ならぬぼくは、生まれて初めてロンドンに着いた翌日、1980年8月11日朝にトラファルガ・スクェアに近い British Council 本部で留学手続きを済ませると、この広場の南アフリカ館、カナダ館など帝国の表象に埋もれるようなチャールズ1世の騎馬像を横目に、迷うことなくナショナル・ギャラリに向かいました。
手当たり次第に、玄関右から見始めたので、ピカソ、モネから時代を遡るかたちになりましたが、19世紀の一つの部屋で、心の準備なく Jane Grey 処刑の大きな絵に遭遇し、それは驚きました。ロマン派というのかアカデミックというのか、美しいジェイン姫をかぎりなく美しく可憐に表象することによって、宗派対立とノーサンバランド家の野望の犠牲になった乙女の悲劇を浮き彫りにする効果はすごい。
あとで知りましたが、ドゥラロシュはジャンヌ・ダルクやマザランなどの歴史絵も描いているのですね。(Wallace Collection)

> クロードとターナーに関係については、たしかナショナル・ギャラリにクロードの「シバの女王の船出」(1648)とターナーの「カルタゴを建設するディド」(1815)が並べて展示されていました。

御意のとおり。ラモン殿の造詣に脱帽して、こちら ↓ に2つの絵を登載します。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/PictureGallery.html

クロードの謎というか、よくわからない凄さは、ロレーヌ生まれの男の、30年戦争中の作品群だということです。



312. 松山・漱石・ターナー Ramon  2001/07/15 (日) 11:02
早速の御教示ありがとうございました。わが故郷の松山には漱石の『坊ちゃん』で赤シャツにより「ターナー島」と命名された小島があり、その前の砂浜でよく海水浴をしたものでした。松山では画家ターナーの知名度は高いです。主様のギャラリにあるターナーの「雨・蒸気・スピード」はたしか『草枕』で出てきましたね。
『倫敦塔』には、漱石が1554年17歳の若さで処刑されたJean Grey(Henri VIIの曾孫、Edward VI死後、女王に擁立されるもMary Iにより9日で廃位)の斬首刑の幻影を見る場面が出てきますが、これはロンドンのナショナル・ギャラリ所蔵のフランスのPaul Delaroche(1797-1856)の歴史画をそっくりなぞって叙述されています。漱石は西洋音楽は苦手だったようですが、美術への造詣の深さはなかなかのものです。
クロードとターナーに関係については、たしかナショナル・ギャラリにクロードの「シバの女王の船出」(1648)とターナーの「カルタゴを建設するディド」(1815)が並べて展示されていました。壮麗な古代建築に囲まれ朝日に照らされた海港の風景は共通しており、クロードのターナーに対する影響に眼を開かれました。
今の日本はフランス印象派一辺倒で、モネやルノアールの展覧会が飽きもせずデパートなどでショッピングの女性をターゲットに催されています。私は印象派は嫌いではないし、絵画技法の革新性を認めるのにやぶさかではありませんが、あまりの偏向ぶり、印象派だけで絵画を論じる人々の多さには辟易しています。英国絵画にもたくさんのいい絵があるのだから、もっと人気が高まることを願っています。その点先年の上野のテイト・ギャラリ展は好企画でした。ラファエル前派のMillaisの「オフィーリア」は大人気で、黒山の人だかりでした。



311. Re: Gallery 探訪記 サイトの主 [URL]  2001/07/14 (土) 13:18
Sire de Ramon
関心を寄せてくださってありがとう。ハムステッドのヒースと反対側の住宅地では Sigmund/Anna Freud の家とフィルムをみて、楽しかった。

> ‥‥ Galleryの数枚の彼[Rembrandt]の自画像のうち、どれがケンウッドのものかはわかりませんでした。個々の絵に所蔵美術館の名をつけていただくとありがたいです。

おいおいそうします。Kenwood 蔵のものは1660年と記されている絵です。残念ながら、サイトに載る≒公開されている絵とそうでないのとがあって、今のところぼくの好みの絵をそのまま掲載できるわけではありません。

> ターナーの「戦艦テメレール」は私の好きな絵で、‥‥
漱石の世界にまぎれこんだことのある人には、ターナーは常に気になりますね。未だ「ターナーぞなもし」ではない、初期のものもおもしろいですよ。

> ‥‥クロード・ロランの風景画などです。‥‥まさに「近代イギリス人の心象風景」といえましょう。
そうなんです。何年か前に上野の西洋美術館でしたか、Claude Lorrain の特別展覧会があって、そのときに目を開かれました。17世紀から19世紀に飛びますが、Turner の先駆とみる見方もあるようですね。



310. Kondo Gallery 探訪記 Ramon  2001/07/14 (土) 11:37
御無沙汰しています。前期も終わりに近づきホッとしています。今日は巴里祭、忙中に閑をえて、かねてから書いてみたいと思っていたkondo Galleryの印象記をものしてみます。
主様の泰西美術への御造詣の深さ、絵画の選択の絶妙さに改めて感服しました。
カンスタブルの「ハムステッド・ヒース」をみて、95年の早春に私が倫敦の主様のお宅にお邪魔したのを思い出しました。あれから主様とケンウッドの丘に上がり、アフタヌーン・ティーのあと、フェルメールの「ギターを弾く女」とレンブラントの自画像を鑑賞したと記憶しています。ただKondo Galleryの数枚の彼の自画像のうち、どれがケンウッドのものかはわかりませんでした。個々の絵に所蔵美術館の名をつけていただくとありがたいです。
ターナーの「戦艦テメレール」は私の好きな絵で、帆船から蒸気船という時代の移行を夕映えの中に劇的に表現した畢生の傑作です。はじめてロンドンのナショナル・ギャラリで実物を対面した時の感動は今でも忘れられません。時代の移行という点では、ヴァトーの「ジェルサンの看板」もそうで、摂政期の小粋な男女が画廊を出入りする横でルイ14世の肖像画が箱にしまわれています。王の死後フランスは不況(B局面)を脱し、好況(A局面)の時代へ移ります。この絵が描かれた1720年がジョン・ローのシステムの崩壊と南海泡沫事件の年であることも暗示的といえましょう。
今後主様のギャラリはますます充実されるでしょうが、浅学の我が身を省みず
あえてリクエストさせていただきますと、ゲインズバラのさまざまのジェントルマンの夫婦の肖像画(夫婦の絵もconversation pieceの範疇に入るのでしょうか)、テイト・ギャラリにあるターナーのGolden Bough(フレイザー『金枝編』の冒頭で言及される)、クロード・ロランの風景画などです。釈迦に説法ですが、クロードのイタリアを描いた風景画はグランド・ツアーの若様に影響を与え、クロードの風景を模した英国式庭園とPalladio風建築の館がカントリ・ハウスの定番となっていきます。まさに「近代イギリス人の心象風景」といえましょう。妄言多謝。



309. 大坂 → 大阪 サイトの主 [URL]  2001/07/13 (金) 20:08
> 大阪の奥深さに興味惹かれる今日この頃です。

大坂は三都のひとつ。元禄(17世紀末)には人口30万をこえて、ロンドン、パリにはかなわないが、ナポリ、アムステルダムと同水準の人口を擁する大都市でした。モスクワ、リスボン、ヴェネツィア、ローマ、ウィーンなどは20万に達していなかった。近世社会を論じるためには、知らなくてはならない都市ですね。

 ぼく自身は大阪に住んだことはないが、父母は戦中に結婚してすぐに大阪に住み、3月11日の大空襲も住吉区で迎えました。その後、松山市に戻って、戦後数年たってから、幼児=ぼくを連れて再び大阪に進出するのですが、そのとき父は家族を阪急桂駅の近くの住宅地に住まわせ、自分は梅田まで通勤するという生活を選んだのです。ぼくは結局、大阪をよくは知らないまま、今にいたっています。



307. Re^4: omniscient Gustav! Gustav  2001/07/10 (火) 00:50
「若きグスタフ」…(笑)。恐縮であります。10年近く(とりわけ多感な時期に)東京を彷徨えば、例え「東京砂漠」などと呼ばれる地であっても、土地勘が身に付くというものです。もちろん「大江戸線」はありませんでしたから、あの辺りにあった例えば「フランス図書」などに参る場合には、当然JR/小田急/京王の新宿東口から歩いていったものです。とはいえ、今「都庁前」と呼ばれる駅のある場所から地理的状況を推察することは可能です。

Shamrockにかかわらず、この手のパブ(を模した飲食店)は、新宿界隈のみならず、いつでもどこでも小規模で混み合うのが必定。大人数で席を取るなどということはおそらく不可能に近いでしょうから、早めに店に入って少人数単位でテーブルを占拠できればluckyですね。

いずれにせよ、このどうしようにもない蒸し暑い時期に、Kilkenyあたりで乾杯できるとは、最高に思います。

かつて東京で身につけたものと同等の土地勘は、大阪ではまだまだ身に付きません…。こちらへ着てからの時間も少ないし当たり前といえば当たり前なのですが、同僚諸氏・学生諸君の話を聞けば聞くほど、大阪の奥深さに興味惹かれる今日この頃です。



306. Re^3: omniscient Gustav! サイトの主 [URL]  2001/07/07 (土) 19:08
> Shamrockですかぁ…。あすこはJamesonの12年ものもちゃんと置いてありますしねぇ…。
> 駅は、都庁前が近いと思いますよ。‥‥

よく何でも知ってるね! 土地勘というのは、そこを歩いてないと備わらないはずだから、若きグスタフはこのへんをシマにしていたんだ。でも大江戸線はそのころからあったの?
卒業生も来るようですが、最近の卒業生はグスタフ王を知っているかな? 岡田くんあたりだと一緒にPCをいじっていましたね。



305. Re^2: コンパの案内 Gustav  2001/07/06 (金) 16:40
懐かしいですねぇ…Shamrockですかぁ…。あすこはJamesonの12年ものもちゃんと置いてありますしねぇ…。イギリス史ゼミのコンパに選ぶとは、粋ですなぁ。

駅は、都庁前が近いと思いますよ。都庁を背にして新宿駅西口へ向かい、京王プラザと工学院大学を越えれば、新宿郵便局ですから。



304. Re: コンパの案内 サイトの主 [URL]  2001/07/06 (金) 12:49
> 日時:7月19日(木)
> 場所:新宿「シャムロック」
いや、さすが幹事くん。神楽坂といい、シャムロックといい、よく知ってるね。
とくに4年生は、この日の午後までに卒論指導を終えて、すっきりした気分で行きましょう。本郷から大江戸線だと、乗り換えなしで便利だが「新宿西口」?「都庁前」? どちらですか。
卒業生、だれが来るのだろう?



303. 夏学期お疲れ様コンパの案内 コンパ幹事  2001/07/05 (木) 22:29
授業でご案内したコンパの詳細です。

日時:7月19日(木)
場所:新宿「シャムロック」 http://www.shamrock-no1.co.jp/
集合:現地集合17:30
費用:注文ごとに各自会計
迷子:新宿郵便局(HP参照)前でお待ちください
出欠:7月11日(水)までにメールでお願いします。
   l01317@mail.ecc.u-tokyo.ac.jp

*個人会計ですから、「一杯だけ」の参加も大丈夫です。
 忙しい方も気軽に顔を出してください。
*混むので時間厳守でお願いします。
 予約が可能かどうかは問い合わせ中ですが、それも人数次第です。
*席はほどよく奥まっテーブル(3〜4人用)のいくつかにみんなで
 居座るかたちになります。
*英語での注文の仕方を覚えておくと便利です。

質問があれば、上記のアドレスまでメールでお願いします。



302. 樺山さんの人事 サイトの主 [URL]  2001/07/03 (火) 14:13
もう既知の情報かと思いますが、確認します。
 樺山紘一さんが6月末日に東京大学教授を退職され、7月1日付けで国立西洋美術館館長に就任なさいました。
 ご存じのとおり、樺山さんは1976年春(堀米庸三先生の亡くなった直後)、34歳で『ゴシック世界の思想像』をひっさげて東京大学助教授に就かれ(そのときぼくは助手の最後の年でした)、以後、多方面で活躍なさいながらも、授業を疎かにすることのない教育者でした。また、今年5月に還暦をむかえ、文学部の現役最長勤続者でもありました。
 この話が具体化するにあたって、関連する諸々のことのなかでも年度途中の人事なので、授業に支障のでないように、というのがご本人と西洋史研究室の第一に考えたことでした。及ばずながら教務委員長としても公明正大な解決にいたった、と思います。つまり、今年度の残りの期間、樺山さんは文学部非常勤講師・大学院多分野交流演習連携教官・客員教授として、これまでどおり学部および大学院の授業を分担してくださいます。
 6月中には、なにか思わせぶりの発言になってしまって、心配して下さった人もありました。ありがとうございます。
 とにかく小泉内閣の成立にともない遠藤前館長が文部科学大臣に就任したあと空席になっていた西洋美術館の館長職が、樺山さんという人をえて、おめでたいことです。
 今後の NMWA に注目! http://www.nmwa.go.jp/



300. Re^6: 先駆的英雄と、恩恵をこうむる遅参者 サイトの主 [URL]  2001/06/03 (日) 17:16
> ‥‥結局、いますぐにやるべき仕事に関して言えば、
> それほど不便は感じていないのです。
という@南仏くんにたいして、Gustav王@箕面は
> 慎重でいらっしゃるのね。ぼくはいつも誇大妄想的なadventurer> です。

と言い切っています。
もちろんグスタフ=アドルフのような英雄の活躍があってこそ、神聖ローマ帝国とローマ教会の普遍主義的支配は解体し、近世の主権国家システムは確立したのでした。ウェストファリア条約に先立つ「会議は踊る」の風刺絵を『岩波講座 世界歴史』16巻 p.53で使わせてもらいました。ここで死んだはずのグスタフ=アドルフが幼少のルイ14世の前に横たわって描かれているのは、画家は誰か知りませんが、当然です。
英雄的な先駆者の死を、丁重に弔わねばならない。
だが、さほどの冒険spiritと先進的能力を有さないわれわれは、一周遅れくらいでしょぼしょぼ付いていき、最先進ではない技術の恩恵をこうむる‥‥というので許されるのではないでしょうか。特許や著作権はもちろん、先駆的adventurerにきちんと謝意を表するのは、当然です。



299. Re^5: 姿勢と道具 Gustav  2001/06/02 (土) 10:30
Kくん

ぼくがいる箕面というところは恐ろしいところで、午後10時半すぎに学生くんたちとの飲み会を終えて帰ろうとしたらバスが全くなく、夜の国道171号線沿いをひとり彷徨ってしまった…。土地勘がないというのは恐ろしい…バス通勤というのはもっと恐ろしい。

> PentiumIII600MHz, 128 (192?)MB
> という環境の方にWordを立ち上げるのが億劫だと言われては私の愛
> 機の立つ瀬がありません(これこそ皮肉です(^o^;) )。

20ではなく21です。どうでもいいことですが700です。皮肉は大いに結構です。

> されていくという過渡期にあたっていて、とりあえず使える数少な
> いツールに賭けるという決心が付かないためでもあります。

慎重でいらっしゃるのね。ぼくはいつも誇大妄想的なadventurerです。



298. Re^2: 註をどうするか Gustav  2001/06/02 (土) 10:06
>  ちなみに出版界の現状についてひとこと言っておきますと、DTPなどと違って普通の=プロの出版社から本や論文を出すときは、編集担当者から「テキストで下さい」と希望されます。

これは不安を喚起させます…テキストでくださいと言われて、それがUnicodeのものだったとして開けないなんてことになったら、通常のShift-JISのテキストでくださいなんてことになったりして。言語コードの過渡期にあってはテキストファイルも互換性が問われているということになりますね…印刷所のオペレータさんはプロフェッショナルだから下手な編集者よりもこの点信用すべきですが。



297. Re^4: 姿勢と道具 mailto:akkudo@club-internet.fr  2001/06/02 (土) 07:00
サイトの主様
いえ、ああした素人臭いマクロの組み方からわかるように、私も決
して「先端的」な部類ではありません。ところで、引用いただいた
部分ですが、「アンガジュマンを表情に出さず」と書いた方がよかっ
たのかも知れません…もっとも表情に出さないということはどちら
にしろ、アンガジュマンとは言えないのかとも思いますが。

新聞などで皆様ご承知のように、こちらでは1962年までの戦争でフ
ランス軍が行った拷問の問題というのがジャーナリスティックに大
きく取り上げられています。議論の様子は日本とはまた様子がちが
っていて、−なぜならここはまがりなりにも第二次世界大戦に勝利
してから脱植民地化を経験した国ですから−、それを見て多少考え
込んでしまっています。


Gustav様
リッチテキストとUnicodeなテキストを変換するツールというのが存
在するかどうかは存じませんが、PentiumIII600MHz, 128 (192?)MB
という環境の方にWordを立ち上げるのが億劫だと言われては私の愛
機の立つ瀬がありません(これこそ皮肉です(^o^;) )。

私がUnicodeを利用しないのは、ひとつにはWindows2000に移行して
いないという純粋に経済的・機械的な条件のためです。ただついで
にいいわけをさせていただければ、今は、Unicodeや2000JISといっ
た新しい文字規格自体が徐々に拡大・策定されつつ、製品にも実装
されていくという過渡期にあたっていて、とりあえず使える数少な
いツールに賭けるという決心が付かないためでもあります。一口に
ユニコードといってもUTF-8がすんなりとデファクト・スタンダード
として定着するのでしょうか? 結局、いますぐにやるべき仕事に関
して言えば、それほど不便は感じていないのです。