米川伸一先生(1931−99)を悼む

2000.4.26 補筆

  1999年11月22日(月)、イギリス経済史・経営史の米川伸一さんの葬儀があり、初冬の穏やかな快晴の日、恋ヶ窪の東福寺まで行ってきました。67歳。蜘蛛膜下出血で倒れられたのが1987年の秋。以来、不自由な身体ながら頑張って、直前まで夫人に付き添われて明星大学に勤務しておられました。

  ぼくにとって米川伸一という存在は、大学院に入った年の史学会大会「近代イギリス史の再検討」で越智、吉岡、成瀬、遅塚、米川、と並んだ5人の報告者のうちもっとも若々しく、誰しも一目を置かざるを得ないヒーローでした*。院生時代、新聞研(今の社会情報研)でマイクロを読んでいてお会いしたこともあります。お弟子さんの湯沢威、鈴木良隆、和田一夫、工藤雄一といった方々にはお付き合いを頂いています。工藤は無茶な勉強家で、南山大からケインブリッジに留学している途中に急死しました**。米川さん自身もそういうところがなくはなく、ひたむきで学問が唯一の趣味という先生でした。

  1987年9月に京都で開催された Textile History Conference、10月の経営史学会 のためにかなり腐心なさっていたらしく、その京都で挨拶した折にはご機嫌斜めのような印象でしたが、あとで考えれば過労だったのです。

  Douglas Farnie 先生とも共同研究をなさっていますが(日英の紡績業比較)、病後もファーニーさんは日本にいらっしゃる度に 国立の米川家を訪ねています。ぼくも90年代の初め、そして今年の9月22日にご一緒して容子さんの手料理で楽しく会食しました。11月6日(土)に電話を頂いたのが最後です。そのときはたいへん上機嫌で、『岩波講座 世界歴史』16 について、色々言って下さったのですが。
 
  米川さんは「ジェントルマン資本主義論」など 誰かが受け売りし始めるよりはるか前、1970年の『経済評論』に、マルクスとケインズの眼という副題をもつ「イギリス政治過程の再検討」「資産階級の形成」etc. といった重要な論文を連載していた。今では『現代イギリス経済形成史』(未来社、1992)に再録されているこの議論を、学界はあたかも忘却したかのごとくです。しかし、そんなことは意に介するでなく、『イギリス地域史研究序説』(未来社、1972)から『紡績業の比較経営史研究』(有斐閣、1994)にまとめられた仕事まで次々にご自分の研究を展開し、外国人研究者と交流し、若い世代を激励しつづけた米川さんは、研究者=大学教師の手本のような人と言えます。

  あえて彼の仕事の唯一の欠点をあげるなら、誤植が少なくないことでしょうか。P・アンダーソン「現代イギリス危機の諸起源」『思想』1966年、の翻訳連載のときからすでにそうでした。もしや議論のおもしろさに心を奪われて、誤字・脱落やシンタクスの乱れに気を配るなど悠長なことよりもっと大事なことがある、と先を急いでおられたのでしょうか。

  ご冥福を祈ります。

 * その余韻は 『イギリス史研究』 22号(1975) にも残っています)
 ** 中岡哲郎 『イギリスと日本の間で』(岩波書店、1982)pp.175-200 に「K・Uの死」として扱われています。 ただし、この著者の叙述に全面的には賛成できないところもあります。

    PS:  2000年3月14日午後には東京フォーラムにて米川先生をしのぶ会がありました。
  湯沢威さん、安部悦生さんの司会のもと、山田金吾、大河内暁男、中川学、吉岡昭彦、二宮宏之、といった故人の大事なご友人たちが貴重な話をしてくださいました。午後2時に始まった会は、2次会、3次会と、話は尽きず、米川さんにちなむ方々とご一緒して、ぼくは幸せな日を過ごしました。



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