吉岡昭彦先生をしのぶ  
1927−2001 
  BBS登載 2001/11/15 (木)   2001.12.29補筆   



         昨夜、仙台からの電話で、吉岡昭彦先生が亡くなったと聞きました。

         丈夫な方で、東北大学の文学部長のときも、図書館長のときも自転車通勤でしたし、
 退職後は心臓やいくつかの大病をなさいましたが、それこそ不死鳥のごとく立ち直って
 活躍なさっていたので、予想もしていませんでした。

        最後にお話ししたのは、2000年3月14日です。別のページ
  www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Yonekawa.htm にも書いた、米川伸一さんをしのぶ
 会合が東京フォーラムでありました。そのあと、2次会 =パーティだけでは去り難くて、
 仙台に帰る先生に「最終の新幹線まで」と誘われて、岡田与好、二宮宏之、渡辺尚と
 いった方々と一緒に、東京駅丸の内側の小さな店で2時間くらい四方山話をしました。

        誤解されているかも知れませんが、ぼくは吉岡さんと仲が良かったのです。
 かつては 土地制度史学会 @高知大学 1976 で先生と論争したこともありますし、
 『文明の表象 英国』 pp.70-86 ではやや強烈な書き方をしました。だからでしょうか、
 周囲の皆さんは、ぼくが仙台に行っても、気を使ってしまって‥‥ ところが本人同士は
 県の美術館レストランで会食していた!ということもありました。
  ぼくの名古屋時代 (1977〜88)、吉岡先生ごじしんは名古屋の藤瀬浩司さん
  とたいへん仲がよいということもあって、お二人の懇意のバーに<連行>されたことも
 あります。そこには「新古今和歌集」のごとき歌が、あの達筆で書き付けられていて、
 驚きました。大病のあと東京大学出版会や岩波書店の会合でお会いした折にも、
 ぼくの姿を見つけるとまっすぐこちらに向かって来てくださって、それこそ
 抱きかかえるように、挨拶してくださるのでした。それは高知以来の<型>でした。

         「おれは流行を追っかけているだけのヤツは嫌いだ」
    「話術だけで書かないヤツは駄目。相手にせん」
    「院生は最初の論文のときこそ鍛えなくちゃ、ほかにいつ鍛えるんですか」
     etc. といった印象的な発言は忘れられません。

         文字記録としては 『史学雑誌』 86-5 「1976年の‥‥回顧と展望」 p.306 における
 わが「民衆運動・生活・意識」(『思想』 630号)へのいささか的はずれの批判から
 二人の因縁は始まるのです。じつは後になって
 「宗派抗争の時代 − 1720, 30年代のマンチェスタにおける対抗の構図」(『史学雑誌』 97-3)
 については、ずいぶん誉めてくださいました。「きみの学風も変わったな」 と!

         結局、先生は 史料分析、実証の学としての歴史学 あるいは Sachlichkeit を
  信じていたし、(東大経済学部出身ではあるが) ひとの歴史学をみるときに、
 経済学的立場にはこだわらなかったのではないか。 熱心な教育者でもありました。

     ご冥福を祈ります。


     12月9日(日)午後に仙台で、東北大学ヨーロッパ史研究室の主催する「吉岡昭彦先生を偲ぶ会」があり、
 盛会だったようです。
     ぼくは出席できず残念でしたが、先生の死をいたみ、戦後史学におけるその存在感と足跡を
 強く感得している点で、あまり人後に落ちないのではないか、と密かに思っています。        近藤 和彦

  → 発言・小品  → index