文学部図書館の「お宝」を紹介せよとの話で、一寸困った。私の専門である日本近代史の分野では、学内で文学部でしか見られないという本は、ほとんどないのである。
総合図書館はもちろん、経済・経営に限らず日本近代史関係の蔵書が多い経済学図書館、明治期の新聞雑誌に強い法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、社会科学研究所や史料編纂所の図書室、さらには理系を含む各部局の図書館・室などに日本近代史の研究の上で他には見られない貴重な図書が多くある。これに対して文学部の日本近代史関係の本の多くは日本史学研究室の大学院生の図書委員が選んで購入したもので、学生用図書的な色彩が強い。すなわち、利用度が高いものや代表的なものを他部局と重複して所蔵しているのである。そこで、我々が文学部所蔵の本を利用することは多いのだが、数冊を取り上げて「お宝」だと言うのは、実は難しい。
関東大震災の記録も、最も浩瀚で政府から住民までの対応を伝える東京市役所『東京震災録』は学内に3セットあって、文学部にはない。しかし3号館地下の書架で一冊の「お宝」と出会った。山角徳太郎『大正大震火災帝都復興記念 神田復興史並焼野記』(山角徳太郎、1925年)である。
関東大震災にともなう大正12年9月1日から3日にかけての東京市の延焼火災では、おおむね現在の東京タワーからスカイツリーまでの範囲が焼野原となったが、現在の秋葉原駅の東側に神田和泉町と佐久間町を中心とした一角の千数百戸だけが奇跡的に焼け残った。この地に米穀市場があったため、1万3千余俵の玄米の在庫があり、これが被災者をはじめ市民の当座の生活を支えたことは当時から良く知られている。また、太平洋戦争中の昭和17年からは小学校、当時の国民学校4年生向けの修身の教科書に「焼けなかった町」として紹介された。ここでは「町内の人たちが、心をあはせてよく火をふせいだおかげで、しまひまで焼けないで残った」とされ、消防のために「年よりも子どもも、男も女も、働ける者は、みんな出て働きました、自分のことだけを考へるやうな、わがままな人は、一人もゐませんでした」と、住民が踏みとどまって消火にあたったことが強調されている。当時、空爆で焼夷弾が落ちてきたら住民が踏みとどまって消すように指導されており、その宣伝材料にされたのである。
確かに、神田和泉町・佐久間町は踏みとどまった住民たちが飛び火を消し、また迫った火に立ち向かったために焼け残った。しかし、それが可能であった背景には、風向きに恵まれてどの向きから迫った火もこの一角に迫るときには勢いを失っていたことや、周囲に耐火建物が多く、また水利に恵まれた上に消防用のガソリンポンプも利用できたなどの様々な好条件があった。さらに重要なのは、主たる避難先であった不忍池や上野公園との往来が2日の昼ころまで可能で、それ以後は南側や西側の焼跡を通じて皇居前方面への往来が可能であったので、延焼を阻止できなくなっても、防火にあたっていた住民たちの退路が常に確保されていたことである。
このような状況を背景に、住民の多くは上野公園方面に退避し、家族や店の中で役割分担して居残った少数精鋭の人びとが火に立ち向かい、2日になって、未だ家が残っていることに気付いて戻った老若男女がこれに加わった。大規模地震によって発生する火災は可能な限り初期消火すべきであるが、延焼火災となっても、急速な延焼を防いで避難の時間を稼ぐためには、飛び火の消火や延焼阻止の試みが有効である。しかし、それは避難に時間がかかる人々を避難させたうえで、退路が確保できる限りで行うべきもので、そうでなければ人命を損なう可能性が高い。近頃また神田和泉町・佐久間町の住民たちの活動を讃える論調が見られる。確かに彼らの力は評価すべきであるが、その舞台が常に退路が開けていた地域だったことを忘れてはならない。
さて、この本がお宝たる所以は、例えば「震火災の勃発するや氏は到底危険の免かるべからざるを予知して、一家と共に上野公園常盤華壇(料亭)に避難した、更に同華壇の危険に瀕するに及び再び本郷方面に遁れたのであった。三日に至り自宅及び一廓付近の無事焼残れるを聞き、急ぎ帰宅したのである」というように個々の住民の具体的な例が紹介されていることである。この本の3分の2以上の紙幅が「賛成者略伝」という、出版資金を出した600余名の住民がどういう人で震災時に何をしていたかの記録にあてられているのだ。このうち約500名が焼け残り地域の当主たちであるが、そのうち120余名は防火活動に従事しないで避難したことが確認できる。
神田和泉町・佐久間町のような恵まれた条件の下でも、家族ぐるみ避難した当主が多かったのである。上野公園も、そこへの道も大変な雑踏で、女子供だけで行かせるわけには行かなかった。2日夜には引用の例のように上野公園に火が迫り、山の手への再避難が必要になったので、結果的にも当主がついていた方が良かった。褒められることではなく、結果的に焼いてしまった例も多いが、避難にあたって荷物を持ちだした家族も多く、この点でも男手が必要であった。家族を挙げての避難者がいたことは、他の史料からも推察できるが、それが決して例外的でなかったことは、本書を見てはじめて、そしてすぐにわかる。
当時は家や店に住み込みの使用人がいて家族も三世代同居が普通の大家族だったからこそ、当主が家族と避難しても残留者を残せる場合もあった。しかし、現在のように核家族中心で、避難に家族以外の助けを要する高齢者などが多く住む時代には地域の防火のために残る人を得ることが難しいであろうことも、この記録から容易に推察できる。
一方で、それへの対策の可能性もこの本に載せられた佐久間尋常小学校長の始末記が示している。残留者の少なかった2日未明の破壊消防にあたって「校内の避難者も挙て応援に趨く」と記録しているのである。すでに焼失した地域から避難して来ていた人々が消防に加わったのだ。今後の震災時の延焼火災への対応では地域住民より避難者や帰宅困難者の方が消防の担い手として期待できる場合が生じるに違いなく、それに対応した物心両面での準備が望まれる。
本の話がすっかり災害教訓になってしまったが、時節柄、諒とされたい。もちろん、一つの町内の住民のプロフィールがこれほどの密度で明らかにされることは通例なく、本書は社会史や都市史、経済史の史料としても「お宝」である。
なお、この貴重な本にはお茶の水図書館の蔵書印がある。数年前、同図書館の蔵書の一部が整理された時に、縁あって文学部図書館に引き継がれたものという。様々な「仕分け」が進む中で、受け皿としての大学図書館の意味がますます重要になっているように感じられるが、それを機能させるには、狭い分担にとらわれない幅広い関係者の努力が必要である。