///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注136-141ページ///
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〔txt. 136〕
第16章 礼拝時に太鼓を叩くこと1

 以前は、首都においてカリフ以外のために、礼拝時の太鼓が叩かれるという慣習はなかった。ただ、カリフの皇太子達や軍司令官達には、彼らが旅(safar)にあるか、或いはカリフ(al-sultan)の御前から遠くにいるという条件で、〔ms. 193〕3回の礼拝時、すなわち、朝1回と夕方と夜の2回、彼らのために太鼓を叩くことが許されていた。なお、叩かれたものは太鼓 (al-tubul)であって、小さなドラム (al-dunbula )2ではなかった。
 さて、ムイッズ・アッダウラが〔イラークの〕支配権を確立した時3 、彼はバグダードにある彼の〔館の〕門のところで太鼓を叩くことを欲した。当時、ムイッズ・アッダウラはカリフ宮の近くにあるムーニスの館4に滞在していた。ムイッズはムティー――神の慈悲が彼の上にあらんことを――にそれ(太鼓を叩くこと)を要求した。しかしムティーは、ムイッズに対して反対することは少なかったのだが、その事は拒否した。そして、ムティーは言った。「その様な前例(`ada)はない」と。
 そこで、ムイッズ・アッダウラは彼の館5をシャンマースィーヤ門のところに建設し、〔txt. 137〕ふたたび、話し合いと要求を行った。そして、ムティーに対しては以下のように伝えられた。「その館は町の外縁部にあり、軍営地たり得る」6と。そこで、ムティーはムイッズ・アッダウラに、荒野に向いている門のところ以外で太鼓を叩かないよう、条件をつけて許可した。そして、太鼓係の者達(ashab al-dabadib)のために、門のところに天幕が設営された。彼らはそこで前述の3回の礼拝時に、太鼓を叩いたのであった。ムイッズ・アッダウラが町の中にある彼の館に入る場合でも、彼ら〔太鼓係たち〕は彼らの場所から移されなかった。
 その後、アドゥド・アッダウラがやって来たが7、その事に関しては、〔その時までバグダードを支配していた〕イッズ・アッダウラに対しても、ムイッズ・アッダウラと同様のことが行われていた。〔ms. 194〕そこで、アドゥド・アッダウラは、今日の王宮(Dar al-Mamlaka)であるムハッリム地区の彼の館の門のところで太鼓を叩くことを、彼に許可するよう、ターイーに要求した。その王宮は以前ハージブのサブクタキーンが所有していた。そこで、その事が実行された。そして、アドゥド・アッダウラの後、アドゥド・アッダウラの子孫達で、権限を授けられた者達の状況も同様であった。

〔txt. 138〕
第17章 婚礼のフトバ8

 カーディーであるムハッスィン・ブン・アリー・タヌーヒー9はターイーとアドゥド・アッダウラの娘との婚姻契約が為される際にフトバを行い、神への賛美と神の使徒ムハンマド――神が彼の上に祝福を垂れ給わんことを――への祝福で始め、以下の様に続けた。

 さて、その栄光のいと高き神は婚礼を、諸々の血縁関係を絡み合わせ、人類を高貴なものとなすという手段となされた。そして、神は最も偉大な婚礼を美徳となし、最も神に近い婚礼を預言者の地位と、カリフの地位につながる結び付きとなされた。そして、神は宗教に荘厳、高貴、卓越、崇高をお与え下さった。
 また、我らが主、神の僕たる信徒の長、アブド・アルカリーム・ターイー・リッラー〔ms. 195〕――神よ、彼の寿命を永からしめ、彼の高貴さを永続させ給わんことを――は宗教から敵を撃退し、ムスリム達を保護し、教宣(al-da`wa)10の外に身を投じ、カリフ制の援助のために奮闘することにおける、彼(ターイー)のマウラーたるアドゥド・アッダウラ・タージュ・アルミッラ・アブー・シュジャー――神よ、彼の栄光と幸運を永からしめんことを――の立場を知った時、ターイーは最も高貴なる報償でもって、その事についてアドゥド・アッダウラに報い、最も素晴らしい報酬でもって彼を満たそうとお考えになられた。そして、また、アドゥド・アッダウラの家系を神の使徒――神が彼に祝福を垂れ給わんことを――の家系に結びつけようとお考えになった。それについて神の使徒は以下の様に語ったと伝えられている。<全ての結び付きと家系は我が結び付きと家系を除いて、審判の日に分断されるものである。>11、と。
 さて、ターイーは、その時代の女性のなかで、最も優れて高貴なる女性、その時代の娘達の中で、最も雅量に富み、完全な娘、信徒の長のマウラーたるアドゥド・アッダウラ・タージュ・アルミッラ・アブー・シュジャー・ブン・ルクン・アッダウラ・アブー・アリー――神よ、彼の栄光を永からしめんことを――の娘何某を婚姻の相手として、アドゥド・アッダウラに求めた。そして、ターイーは、上質で素晴らしく、重さ数ミスカールもある金塊で100,000ディーナール12分の婚資を彼女に与えた。〔txt. 139〕
 汝ら、彼(ターイー)との近しい関係を維持することで高貴さに急ぎ至る者たれ。また、汝らをそれへと駆り立てるところの彼(ターイー)との血縁関係に急ぐ者たれ。〔ms. 196〕そして、彼との婚姻関係によって高貴さを獲得することの機会を捉える者たれ。そして、崇高なる彼の命令に付き従い、耳を傾け、服従する者たれ。
 私はこの言葉を述べ、我らが主人たる信徒の長のために、そして私や汝らや全てのムスリムのために、偉大なる神に対して、その赦しを求め奉る。

 ところで、これ以前カーディーのムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーン・ブン・クライア13は、ターイーとバフティヤール・イッズ・アッダウラの娘との婚姻の際に、彼の御前で同様の形式のフトバを行っていた。その婚資は、同様に100,000ディーナールであった14

【2001.12.15:橋爪烈】[[このページの先頭へ]]

〔txt. 140〕
第18章 下僕が供する終章

 全てではないがその一部の説明や、全体ではないがその要約の集成が最後に述べられることによって定義される必要がある、偉大で預言者性を持つ聖なる〔カリフの〕坐所(al-hadra)15――その幸運は昇り、その光は輝き、その栄誉は高く、その権力(sultan-ha)〔ms. 197〕は優勢であり続ける――の記述によって本書の叙述は始められた。しかし、〔カリフの坐所の〕時代が連綿と繋がり、時期が長いために、この目的はまだ達せられておらず、把握はまだ確実ではない。ただ神――讃えあれ――の仰った命令<なんじの主の恩恵を宣べ伝えよ>[コーラン93章11節]に従い、明らかにされるべき事を明らかにし、述べられるべき事を述べるよう最大限の努力を行うのみである。
 〔神が〕その中に自らの被造物を住まわせ、その中にいる人々に自らの定めを課した世界において最も重要なことは、かのお方がそれによって自らの証明を照らし、その中に自らの権力(sultan-hu)を確立するイスラームの命令であることは明白である。神はその民を最良のウンマにし、全き保護を与え、彼らに証拠を示し、進むべき道を明らかにし、大きな配慮と深い温情によってその恩寵を彼らに与えた。なぜなら彼等は神の命令に従い、神への服従を識り、神が主人であることを知り、神の唯一性を悟る者達であったからである。
 以上のことがこの通りであるなら、神――彼の名に讃えあれ――は、高貴な生まれ、良い出自、偉大な家系、卓越した〔ms. 198〕出身、尊い血筋、栄誉ある集団の者以外には代理者の地位を与えず、またこのような者達の中から最も清浄な家系、高い評価、豊富な知識、十分な分別、強固な意志、確固とした決意、完全な性質、正しい信条を持ち、そして諸事への配慮や良策の保持に最も長けた者以外を選ばない。
 このような人物がわれわれの長、われわれの主人たる信徒の長、イマーム=カーイム――神よ彼の余生を長らえさせ給え、そしてその余生が続く限り〔txt. 141〕永遠の栄誉と高貴の中にありますように――である。以上のような特質は付け足しではなく正確に、追加ではなく明白に語られたもので、比喩ではなく真実、一般論ではなく限定的に、隠すのではなく明らかに、相対的ではなく絶対的なものである。さらに彼は人々を分けるなら第1、比較されても〔比較できない〕唯一の者で、賭けられるなら優先され〔ms. 199〕、量られるなら重い者であり、終着点を望めばそこへ達し、目的を狙えば過たず、極みを望めばそこに急ぎ、目標へ走ればそれを得るとも言われるとすれば、その言葉が省みられぬ真実を否定する者や、神が怒りによって拒むような徳を妬む者以外から戦いを挑まれたり、反抗される恐れはない。
 最も高貴なる坐所(al-mawqif)――神よその王権を長らえさせ給え――の物語はそれ以外のものの物語と同様ではない。後者は多様な見解が影響し、いろいろな偏見が覆い、変転し続ける時の流れが変化させ、長々と伝えられたイスナードがねじ曲げてしまったような語りによる過去の伝承であるので、それに関しては、損なわれたものと正しいものの区別も付かない盲従と盲信以外に我々には方法がない。
 しかし聖なる〔カリフの〕坐所(al-hadra)――神よ、それへの支援を増し給え――に関することには疑いは混入せず、憶測が傷つけることもなく〔ms. 200〕、〔見解の〕反目が影響することもない。なぜなら我々は、証拠によって証明され、根拠によって立証され、審査によって真であると認められたことを語っているからである。

【2001.10.13:二宮文子】[[このページの先頭へ]]

1 この章の邦訳として、後藤敦子「10-12世紀における王権の象徴に関する一考察―太鼓の用例を中心に―」『オリエント』42-2(1999) :115-116がある。

2 F. Steingass, A Comprehensive Persian-English Dictionary, 1892にa sort of wooden drumとある。

3 334/946年のことである。

4 後藤敦子 前掲論文p. 118の地図及び注17によると、ムーニスの館はカリフの館の側にあるのが正しいとなっている。一方、Le Strange, Baghdad during the Abbasid Caliphate, Oxford, 1900, p.206では、ムーニスの館はシャンマースィーヤ地区にあるとされているが、本文の内容から、後藤の見解を採る方が妥当である。

5 al-Dar al-Mu`izziyaを意味しており、テキストの14頁において、先に述べた「ブワイフ家のムイッズの統治の館(Dar al-Mamlaka al-Mu`izziya al-Buwayhiya)」ではない。それについては、Kurkis `Awwad, al-Dar al-Mu`izziya : min ashhar mabniy Baghdad fi al-qarn al-rabi` li-l-hijriya, Baghdad, 1954を参照せよ[校訂136ページ、注4]。

6 「軍営を設営しうる場所」ということは、本文に述べられているように、旅(safar)の状態にあることを意味するため、太鼓を叩くことが許される条件に当てはまることになる。

7 367年/977年のことである。

8 `Uyun al-akhbar, iv: 72-76参照[校訂138ページ、注1]。

9 al-Muhassin b. `Ali al-Tanukhi. 彼は多くの優れた作品の著者である。その著作の中には、al-Faraj ba`da al-shidda, Nishwar al-muhadara, al-Mustajad min fa`lat al-ajwadなどがある。彼はヒジュラ暦384年に死去した[校訂138ページ、注2]。

10 ここでいうal-da`waは「イスラームの理念」のことを指すと考えられ、それがない地域へアドゥド・アッダウラが進んでいくこと、すなわちジハードを念頭に置いていると思われる。

11 Majd al-Din Ibn al-Athir, al-Nihaya fi gharib al-hadith wa al-athrのsababの項目を参照せよ[校訂138ページ、注3]。

12 諸史料の一部では、200,000ディーナールとなっている。al-Muntazam, vii: 101 ; al-Nujum al-zahira, iv: 135を参照せよ[校訂138ページ、注4]。

13 al-Qadi Abu Bakr Muhammad b. `Abd al-Rahman Ibn Quray`a al-Baghdadi. 彼はバグダードに属するシンディーヤ地区及びその他の諸地区のカーディーであり、彼の任命者は大カーディーのAbu al-Sa'ib `Utba b.`Ubayd Allahである。そして、彼はムイッズ・アッダウラのワジールであったAbu Muhammad al-Muhallabiとの関わりも深かったようである。ヒジュラ暦367年Jumada al-Akhir月20日土曜日(978年2月2日金曜日)に死去。享年65歳。ちなみに、シンディーヤ地区はイーサー運河沿いにあって、バグダードとアンバールの間にある村[Ibn Khallikan, Wafayat al-a`yan, ed. Ihsan `Abbas, Bayrut, iv: 382-384.]。

14 ヒジュラ暦364年に執り行われた。al-Muntazam, vii: 76 ; Ta'rikh al-Islam, (in Tajarib al-umam, ii: 355, n. 1) ; al-Bidaya wa al-nihaya, xi: 280を参照せよ。また、Takmila Ta'rikh al-Tabari: 228ではヒジュラ暦365年となっている。また、彼女の名前はShah naz][Shah baz][Shah zanan]などと述べられている[校訂139ページ、注1]。

15 この語句が意味するところについては、訳文注1を参照。

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