///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注130-135ページ///
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 さて、武の者、軍隊指揮官のなかでは、アブー・ムスリム・アブド・アッラフマーン・ブン・ムハンマド(Abu Muslim `Abd al-Rahman b. Muhammad)が「ムハンマド家の守護者(Amin Al Muhammad)」のラカブを与えられた〔txt. 131〕。一説には「ムハンマド家の剣(Sayf Al Muhammad)」であったともいう。ターヒル・ブン・アルフサインは〔ms. 185〕マームーン──彼に神の慈悲のあらんことを──の時代に「2本の右手の主(Dhu al-Yaminayn)」を与えられた。ムータスィム──彼に神の慈悲のあらんことを──は、ハイダル・ブン・カーウス(Haydar b. Kaws)に「アフシーン(al-Afshin)」のラカブを与えた。これは彼がウスルーシャナ出身だからである。アフシーンとはウスルーシャナ王の名称であって、ルーム王がカイサルと呼ばれるようなものである。ムータミド──彼に神の慈悲のあらんことを──は、イスハーク・ブン・クンダージュ(Ishaq b. Kundaj)に「2本の剣の主(Dhu al-Sayfayn)」のラカブを与えた。ムーニスはムクタディル──彼に神の慈悲のあらんことを──の時代に「勝利者(al-Muzaffar)」のラカブを、サラーマ・アフー・ヌジュフはカーヒルの時代に「信頼を受けた者(al-Mu'taman)」のラカブを、ムハンマド・ブン・トゥグジ(Muhammad b. Tughj)はラーディーの時代に「イフシード1のラカブを与えられた。イフシードとはフェルガナ王の名称である。ハサン・ブン・ハムダーンはムッタキーの時代に「王朝の守護者(Nasir al-Dawla)」のラカブを、彼の兄弟アリーは「王朝の剣(Sayf al-Dawla)」のラカブを与えられた。トゥーズーン(Tuzun)は、ムスタクフィーの時代に「勝利者(al-Muzaffar)」のラカブを与えられ、彼の文書には「勝利者アブー・アルワファー(Abu al-Wafa')信徒の長のマウラーより」と書いた。
 ブワイフ家の時代が到来し、〔ms. 186〕この時代にはラカブは初めて、3人の兄弟すなわちアブー・アルハサン・アリー、アブー・アリー・アルハサン、アブー・アルフサイン・アフマドに対して、「王朝の主柱(`Imad al-Dawla)」「王朝の支柱(Rukn al-Dawla)」「王朝に栄誉を与える者(Mu`izz al-Dawla)」が与えられ、その後継続した。ムイッズ・アッダウラに関していえば、彼は「王朝の栄誉(`Izz al-Dawla)」を要求した。しかし、ムスタクフィーはこれを拒み、「王朝に栄誉を与える者」へと表現を弱めたのだった。しかしムティー──彼に神の慈悲のあらんことを──は、その後アブー・マンスール・バフティヤール(Abu Mansur Bakhtiyar)に「王朝の栄誉」のラカブを与えた。アドゥド・アッダウラは、物事が定まったときに、「王朝の冠(Taj al-Dawla)」のラカブを与えられることを要求した。しかし、これは容れられず「王朝の力(`Adud al-Dawla)」へとかえられた。祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラールが、以下のように私に語った。

 364/974年-75年アドゥド・アッダウラが、トルコ軍に対して、〔従兄弟であるイッズ・アッダウラ・バフティヤール〕を支援するために〔バグダードに〕到着した時、彼は私に、議論をもちかけて言った2
「アブー・イスハークよ。知っての通り、〔ms. 187〕叔父ムイッズ・アッダウラは我らに、「王朝の冠」のラカブが与えられるのを拒否し、我らにそれを思いとどまらせた。もし我らが、〔すでにムイッズ・アッダウラが世を去った〕今、そのラカブを受けようとしたとしても、〔txt. 132〕「王朝の力にして王朝の冠」と呼ばれるのは、まずいだろうな」。
 そこで私が言うには、
 「ではなぜ「〔王朝の力〕にして宗教の冠(Taj al-Milla)」と呼ばれようとしないのですか。そうすれば2つのラカブのなかに「王朝(al-Dawla)」と「宗教(al-Milla)」を併せ持つこととなります」。
 アドゥド・アッダウラが言うには、
 「その通りだ。しかし、このことは然るべき時が到来するまで秘匿しておけよ」。

 こうして、367/977-78年になると、アドゥド・アッダウラはこのラカブを受け、それ以来ラカブは2つ併せ持つようになった。その後バハー・アッダウラがカリフ・カーディルの最初の宣言の際に、第3のラカブを「共同体(al-Umma)」を含む形で授与された。さらにその後第4のラカブを「宗教(al-Din)」を含む形で授与された。そしてこの件は、このやりかたを踏襲することとなった。ホラーサーンの総督(wulat)に関していえば、以前は誰もラカブを与えられることはなく、クンヤで呼ばれるのみであった。しかし、カーディルの時代にマフムード・ブン・サブクタキーンがラカブを与えられることによって、このことが導入された。

〔txt. 133〕
第15章 ミンバルにおけるフトバ

〔ms. 188〕
 ミンバルにおいてフトバに際してカリフのために唱えられることついて言えば、一旦座して、神への頌詞(hamd)とムハンマド──神よ彼に祝福と平安あれ──への祈念(sala)を繰り返した後の、2度目のフトバで以下のように述べられる。

 あぁ神よ。あなたの僕にして、あなたの代理人、神の僕──ここでカリフの名とラカブが言及される──イマームにして信徒の長に安寧をもたらしたまえ。それはあなたが、正義を行う、正道を行くカリフたち、正しく導かれたイマームたちにもたらしたものであり、それによって彼らは公正を保ったのであった。あぁ神よ、あなたが彼に課した責務について彼を助けたまえ。彼に与えたものについて彼を祝福したまえ。彼に世話を任せたものを、彼のために守りたまえ。そして彼を、あなたの数々の恩寵に感謝する者、あなたの祝福を思い起こす者のひとりとなしたまえ。

【2001.9.8:清水和裕】[[このページの先頭へ]]

 首都をおさえたアミールたちについては、そこのミンバルで彼らについて言及する習慣はなかった。ただ、彼らの支配している遠方の国々のミンバルで彼らに言及されるのみであった。かつてムハンマド・ブン・ヤークート3が権力を持っていたとき、バグダードの説教師たち、〔ms. 189〕すなわち、マディーナ4のモスク(マンスールのモスク)のイマーム、ハムザ・ブン・アルカースィム・ブン・アブド・アルアズィーズ(Hamza b. al-Qasim b. `Abd al-`Aziz)、カリフ宮に隣接するモスク5のイマーム、アブド・アッラー・ブン・アルファドル・ブン・アブド・アルマリク(`Abd Allah b. al-Fadl b. `Abd al-Malik)、ルサーファのモスクのイマーム、アフマド・ブン・アルファドル・ブン・アブド・アルマリク(Ahmad b. al-Fadl b. `Abd al-Malik)が、ラーディー──神が彼に慈悲をお与え下さいますように──のための祈願の後に、フトバの中で彼を祝福し彼に言及することに同意した。そして彼らはそれを金曜日に行った。ラーディーはそれを知ると、それを不快に思い、彼らを彼らの定められた職務から解任し、彼らの代わりに他の者を据えた。
 また、ナースィル・アッダウラ・ブン・ハムダーンは首都にいたとき、金曜日にたびたびフトバにおいて言及された。それはまず彼がカリフを援助し守護しているという話で始まる。続いて彼の名前と彼のラカブと彼の父の名前で祈願がなされた。が、それは〔txt. 134〕確かな根拠があったわけでも、カリフの御前から出たことでもなかった。
 〔ms. 190〕
 また、アドゥド・アッダウラが到来し、物事を掌握し、あらゆる人々が彼になびいたとき、説教師ハールーン・ブン・アルムッタリブ6は、ルサーファの大モスクで、彼に言及して次のように言った。

 その恩寵によって7称賛され、天地で崇拝される神に讃えあれ。神は我らにイマーム・ターイーというカリフと、彼の王朝の力(アドゥド・アッダウラ)、宗教の冠(タージュ・アルミッラ)にしてカリフ位の隠れ家(kahf)たるアミールたちの長に関する彼のお考えの美しさをお与え下さった。そして彼は、彼の敵たちを殺害し、彼の支持者たち(awliya')が従うような政治のすばらしさで、困難な国々を彼の両手をとおして神が征服なさったお方であり、神が彼の子孫たちと同様に讃えられたお方である。神はかの完全なる本においてこう語られた。<汝らの本当の伴侶は神とその使徒と、それから正しい信仰を抱き、礼拝を欠かさず行い、定められた喜捨をこころよく出し、常に熱心に跪く人々をおいて他にはない。神とその使徒と信仰あつき人々だけを友とする人々、こういう神の一党こそ真の勝者となろう>[コーラン5章55-56節]。彼はモスクを建て、運河を掘り、〔ms. 191〕全ての都市をよくするよう努め、夜も昼も神の権利を実行なさった。神は語られた。<神の礼拝所の世話をするのは、神と最後の日を信じ、礼拝の努めを果たし、定めの喜捨をこころよく出し、神以外の何者も怖れぬ者に限る。こういう人は正道に導かれる人々の仲間に加えていただけるであろう>[コーラン9章18節]。
 ゆえに、神に感謝しつつ懇願し、信徒の長と、彼の王朝の力にして宗教の冠、信頼できる長、聖域の守護者にして快楽の責めを問われることを怖れる者のために祈願を重ねよ。<いや、いや、〔今から〕はっきり知ってもらいたいもの。きっときっとお前たち、その目で地獄を眺めるぞ。も一度言おうか。きっときっとお前たちその目ではっきり眺めるぞ。その日には、お前たち、快楽の責めを問われるぞ>[コーラン102章4-8節]。最も良く真実を語る者である神は語られた。<これ汝ら信徒の者、神のお言いつけをよく守り、またこの使徒とそれから汝らの中で特に権威ある地位にある人々の言いつけをよく守るのだぞ>[コーラン4章59節]。そして、信徒の長、ターイーへの服従は、〔txt. 135〕汝らの主に喜びを、汝らの財産と子孫の豊かさをもたらすであろう。彼の王朝の力に従え〔ms. 192〕。さすれば正道を辿れよう。汝らの宗教の冠に従え。さすれば正しい道に導かれよう。我はアッラー以外に神なく、彼と同等の者もいないと証言する。

 以上でそのフトバは終わった。ハールーン・ブン・アルムッタリブはそれを何の根拠もなく行ったのであった。アドゥド・アッダウラはそれを知り、ターイーに書簡を送って、ハールーンがフトバにおいてアドゥド・アッダウラに言及することを〔正式に〕命じるよう求めた。そこでターイーはそのようにした。そしてその状態はここにまで至ったのであった。

【2001.9.22:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

1 校訂本はIkhshidhとしているが、写本ではIkhshidとなっているので、語末の文字を特にdhと読む必要はなかろう。

2 母音点が記されていないので明言はできないが、校訂者`Awwadはこの部分を、tajadhabani-hiすなわちVI形の完了男性3人称単数と読んだようである。そのうえで、「おそらく原本ではjadhabani-hi(III形の完了男性3人称)であろう」と注記している[校訂131ページ、注3]。VI形であれば「互いに議論する」という意味になり、3人称単数の形では文意が取れないため、`Awwadはこのように考えたものと思われる。しかし写本の該当箇所[ms. 186, l. 11]を見ると、`Awwadが「ta」と読んだ部分は、文字の弁別点がない一方で「u」を示す母音点が打たれている。したがってこの母音点を考慮し、弁別点をストロークの下につけて「yu」と読めば、yujadhibuni-hiすなわちIII形の未完了男性3人称単数(直説法)と読める。そうすると「アドゥド・アッダウラが私にそれを議論としてもちかける」という意味になり、写本のままで無理なく解釈できる。

3 Muhammad b. Yaqut. バグダードのシュルタの長官。323年没。

4 マンスールの円城のこと。

5 カスルモスクとしても知られるカリフのモスク。

6 おそらくHarun b. `Isa b. al-Muttalibのことであろう。373年没。

7 写本には前置詞biは見えないが、校訂に従って補った。

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