///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注141-143ページ///
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 そしてその証言は確立しており、証拠は不動である。神──その名に祝福あれ──は、使命(al-risalat)を選ばれた者にしか下さず、カリフの地位は満足のいく者にしか与えず、忠実な信用の置ける者にしかそのウンマを任せず、ふさわしい管理人(al-qa'um)にしかその宗教(millat-hu)の保護を求めない。それは、公正な行為が続き、包括的な福利が供されるためであり、また至高偉大なる神が、彼の被造物を守り、その宗教を保護し、その判決を確固とし、その意図することを完遂する者であることを知らしめるためである。それ(カリフ位)は、神からの好意であり、成功への導きであり、神が望む者に与える恩恵である。まことに神は偉大な恩恵の持ち主である。
 語り継がれてきた話や伝えられえてきた伝承において、現世と宗教の双方に力を注ぐ者たちの立場が語られてきた。それは、預言者の高貴な立場や〔txt. 142, ms. 201〕正しく導かれたイマームの地位と比較すれば、崇高なる地位(カリフ位)における、美徳上の彼(カーイム)の位置や上昇ぶりが判るものである。しかも、この時代の様相が厳しく、その導きが手に負えず、善良の門が閉ざされ、退廃の綱が強く張られ、能力の結び目が解け、誠実の誓約が不可能となっているのにもかかわらず、そうなのである。しかしながら、彼(カリフ=カーイム)──神よ彼の治世を守り給え──は、成功への導きにつなげられた恩情、運命の援助に助けられた好意、よき信仰に基づいた行為、全力を尽くす努力に邁進する決意によって、その残された〔この時代のよさ〕を掌握したので、それは掌握された。また彼が残余を見守ったので、それは見守られた。また彼がこのウンマを防衛したので、それは防衛された。彼がこの宗教(al-milla)を守ったので、それは揺るぎなきものとなった。もしも仮にこのようなことを彼がしなかったとしたら、疫病が猛威をふるい、治療が困難となり、分裂が広がり、回復が妨げられたことであろう。あなたが神に感謝すべき恩寵であるということを理解していない者は、まさに無知蒙昧である。〔ms. 202〕まこと神は下僕たちに優しく、聖なる座所(カリフ位)を明らかにすべく明らかにし、為すべく為し、曖昧さを消し去るべく消し去り、慈悲を下すべく下されたゆえに褒め称えられるべきお方である。また神は、完全なる強化と援助の責任をそれ(聖なる座所)に対して負い、それと共にある人々に対しては善行とその追加の継続の責任を負ってくださる方である。<本当にアッラーは、主を畏れる者、善い行いをする者と共におられる>[コーラン16章128節]。
 この下僕(著者)は、高貴なる署名入り文書(al-tawqi`at)、それが含む1美しく雄弁な言葉、素晴らしく正しい意味内容を読み続けた。彼が目を凝らし耳を傾けると現れ出るものは、<アッラーは何処に(また如何に)彼の使命を果たすべきかを最もよく知っておられる>[コーラン6章124節]という至高なる神の言葉である。
 彼は、その厭わしい技術による彼の取るに足らぬ作品が、高貴なる店頭で売りに出され、高位なる貨幣で値がつけられていることを知ると2、溢れんばかりのその(カリフ=カーイムの)気前よさへの信頼を頼りに〔ms. 203〕、溢れんばかりの畏れがためらわせてしまうようなことを敢えて行なった。彼は、彼と同じく禁域(al-hurma)〔たる宮廷〕を誇りとし、仕えることを望む者たちが求めるのと同様の寛容を希望した。すなわち、彼が為したことが受け入れられるという好意を得ることを望むのである。神が彼に、成功と望みの達成を、その恩恵と寛大さと力によって与えますように。
〔txt. 143〕
 神に讃えあれ。われらが主人ムハンマドとその一族に神の祝福と平安あれ。
 <神は我々にとって十全な存在であり、もっともよき管理者である>[コーラン3章173節]。

 ウスターズ・アブー・アルハサン・ヒラール・ブン・アルムハッスィン・ブン・イブラーヒーム──彼に神の慈悲あれ──の手になる原本からの書写は、455年ラジャブ月9日/1063年7月8日火曜日に終了した。

 〔この写本と〕著者の手になる原本が対校され、正確であることが確認された。万世の主、神に讃えあれ3

【2001.11.10, 2002.1.13:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]

1 校訂本ではyatadammanuと読んでいるが、tatadammanuと読み、直後のminに続く部分を主語と考える。写本では、問題の部分には弁別点が打たれていないので、どちらの読み方も可能である。

2 この部分は、ヒラール・サービーの著作をカリフ=カーイムが高く評価していることの比喩であろう。

3 この部分は、校訂本では143ページの1-2行目に組み込まれているが、写本では左余白に記されている。これは書写の正確さを確認する注記なので、本文中に組み込むのは不適切である。

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