///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注126-130ページ///
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〔txt. 126〕
第13章 カリフとやりとりする書状が書かれる紙、中に書状を入れてやりとりする通信袋、その上に押される封印

〔ms. 178〕
 カリフの関わる書状(al-kutub al-sultaniya)については、昔の慣習では、幅広のエジプトのパピルス紙(al-qaratis al-misriya)1に書かれていなければならなかった。パピルス紙が〔彼の地より〕運ばれなくなり、見つけるのが難しくなると、幅広のシャイターニー紙2へと替わっていった。これは、委任状(kutub al-`uhud)、ワーリー任命状(kutub al-wilayat)、ラカブ授与状、そして地方の長に宛てて書くものや、地方の長が書くものについて〔用いられた〕。
〔txt. 127〕
 カリフからの決裁書(al-tawqi`)に類するものや、その御前で仕えているワズィールからの通達(al-mutala`a)に類するものについては、望ましいのは2分の1紙(al-kaghid al-nisfi)である。書状の留紐3は黒絹の房紐、封印は竜涎香と麝香か、竜涎香の練り込まれた黒粘土である。通信袋はというと、黒錦でできており、通信袋の上部は、封印された留輪を通した別の房紐によって締められる。「これは、某が某に委ねたものである」という文句で始まる委任状は、封印の必要はない。というのも、それには宛名書(al-`unwan)がないからである。〔ms. 179〕もしも封印されるとすれば、〔封印は〕委任状の下の方の部分にあるはずだが、私は委任状の下の方の部分に封印があるのを見たことがない。私が見たもののほとんどは、ムカーター文書(al-muqata`at)やカリフから下された遵守事項を記した書状(al-shurut al-imamiya)にあって、その場合、〔封印は〕絹の房紐を通した銀の留輪の上にもあった。
 印章の刻字について言うと、カリフの印とは、神の使徒──神が彼に祝福を与え給わんことを──の印章であるが、刻字は3行で「神の使徒、ムハンマド」である。それ以外のものは人それぞれである。アブー・バクル──彼に神の慈悲のあらんことを──の印章で彼個人のものには「素晴らしきかな、全能の神」と、ウマル・ブン・アルハッターブ──彼に神の慈悲のあらんことを──の印章には「死とは最良の忠告者である、ウマルよ」と、ウスマーン・ブン・アッファーンの印章には「ウスマーンは偉大なる神を信じ奉る」と、アリー・ブン・アビー・ターリブ──彼に平安のあらんことを──の印章には「王者たる神、その僕たるアリー」とあった。これらの世代以後の者は、印章に刻んだものについてはまちまちである4

〔txt. 128〕
第14章 ラカブ
〔ms. 180〕
 ラカブというのは、古くからあるもので、ジャーヒリーヤ時代には「一房の下げ髪の主(Dhu Nuwas)」「小さな峰の主(Dhu Ru`ayn)」「一本角の主(Dhu Qarn)」「自画自賛(Dhu Fa'ish)する者」「良い声の主(Dhu Jadan)」等があった。イスラームが興り、預言者──神が彼に祝福を与え給わんことを──は多くの教友たちにラカブをつけたが、彼らの中には、「神の獅子(Asad Allah)」ハムザ・ブン・アブド・アルムッタリブ5、「両手の主(Dhu al-Yadayn)」アムル・ブン・アブド・アムル・ブン・ナドラ6、そして、二振りの剣を携えて戦いに参加していた「二振りの剣の主(Dhu al-Sayfayn)」アブー・アルハイサム・マーリク・ブン・アッタイヤハーン・アンサーリー7がいる。また、彼(預言者)は、戦いで殉教した者のうち、フザイマ・ブン・サービト・アンサーリー8に「二人分の信仰告白に見合う者(Dhu al-Shahadatayn)」、ジャーファル・ブン・アビー・ターリブ9に「〔天国を飛ぶ〕鳥(al-Tayyar)」というラカブを与え、またこれら以外の者たちで、名を知られ伝わる話も有名な者にもラカブを与えた。
 預言者──神が彼に祝福を与え給わんことを──の教友たちは、彼のことを「信頼すべき者(al-Amin)」と呼んでいた。また彼(預言者)は、アブー・バクルに「真の友(al-Siddiq)」、ウマルに「嘘から真を見分ける者(al-Faruq)」、ウスマーンに「両の灯火をもつ者(Dhu al-Nurayn)」というラカブを与えた。また、人々はウスマーンの死後、アリー・ブン・アビー・ターリブを「後継者(al-Wasiy)」というラカブで呼んだ。〔ms. 181〕
 神の使徒──神が彼に祝福と平安を与え給わんことを──が逝去すると、人々はアブー・バクルを「神の使徒の代理人」と呼び、彼も書状にはそのように書いた。彼の後、ウマルが〔カリフと〕なると、ほんの暫くの間は「神の使徒の代理人の代理人」と呼ばれたが、それから「信徒の長」にかわった。

【2001.7.14:近藤真美】[[このページの先頭へ]]

 その理由は以下のように伝えられている。ウマル──彼に神の慈悲があらんことを──が質問したいことを尋ねるために、イラクの徴税官(`amil)に対して、イラクの諸事に通じている2人の男を派遣するようにと書き送った。そこで徴税官は、ラビード・ブン・ラビーア10とアディー・ブン・ハーティム11の2人を彼の許へ遣わせた。2人はメディナ(al-Madina)に到着すると、マスジド12の中庭に自分達の雌ラクダをひざまずかせ、中へ入っていった。そこにアムル・ブン・アルアース13がいたので、〔txt. 129〕2人は彼に、
「信徒の長へのお目通りを我々にお許しいただきたい」と言った。すると彼は、
「それは的確な呼称だ」と言って立ち上がった。そしてウマルの許へ入っていき、
「汝に平安あれ、信徒の長よ」と呼びかけた。するとウマルは、
「イブン・アルアースよ、その言い方はどういうことなのか。説明したまえ」と尋ねた。そこでアムル・ブン・アルアースは、
「はい。ラビードとアディーが到着し、マスジドに入ってきて『信徒の長へのお目通りを我々にお許しいただきたい』と言ったのです。〔ms. 182〕そこで私は2人に「それは的確な呼称だ」と言いました。あなたは長であり、我々は信徒だからです」と答えたのである。
 アブー・ムーサー・アシュアリー14がこの呼び方で説教壇からウマルのための祈願を行った。そしてその地位に就いた者すべてに対して同様のことが続けられた。ただしウマイヤ家の者は、1人もラカブを持たなかった。彼らの時代が終わり、権力(al-haqq)がふさわしい者達に戻ってアッバース家の権勢(al-dawla al-`abbasiya)が興隆すると、神はその支柱をお固めになった。イブラーヒーム・ブン・ムハンマド15──彼に神の慈悲があらんことを──に忠誠の誓いが行われ、彼はイマームと呼ばれた。〔アッバース朝の〕正道を行くカリフたち(al-khulafa' al-rashidun)──彼らに神の祝福があらんことを──は、アブー・アルアッバース・アブド・アッラー・ブン・ムハンマド・ブン・アリー・ブン・アブド・アッラー・ブン・アルアッバース(Abu al-`Abbas `Abd Allah b. Muhammad b. `Ali b. `Abd Allah b. al-`Abbas)以後ラカブを持った。彼のラカブについては論争があり、「しっかり立つ者(al-Qa'im)」「正しく導かれた者(al-Muhtadi)」「満足された者(al-Murutada)」とも言われたが、おおむね「大いに注ぐ者(al-Saffah)」というラカブが用いられるようになった。流したウマイヤ家の血の多さゆえに、彼はこのラカブで言及されたのである。
 ラカブは増加し、王朝のワズィール達にも与えられるようになった。〔ms. 183〕アブー・サラマ・ハフス・ブン・ギヤース・ブン・スライマーン・ハッラール16は「ムハンマド家のワズィール(Wazir Al Muhammad)」というラカブを与えられ、書状でそれを用いた。彼についてスライマーン・ブン・ムハージル・バジュリー17が次のように言っている。

 ワズィールすなわちムハンマド家のワズィールが破滅した / 彼汝を嫌う人物がワズィールとなった

 マフディー──彼に神の祝福があらんことを──は、ワズィールであるヤークーブ・ブン・ダーウード・ブン・タフマーン18に〔txt. 130〕「神の下での兄弟(al-Akh fi Allah)」というラカブを与え、サルム・ハースィル19が彼について以下のように言うほどになった。

 カリフ位が逸れることなく正当に導かれ / 至ったイマームに告げよ 
 神を畏れる道に則った助けとは、何とよいものであろうか 汝はその助けを受けた
  / 神の下での汝の兄弟たるヤークーブ・ブン・ダーウードの

 マームーン──彼に神の祝福があらんことを──は、アブー・アルアッバース・ファドル・ブン・サフルにクンヤを与え、「両長の兼任者(Dhu al-Ri'asatayn)」というラカブを与えた。彼の兄弟アブー・ムハンマド・ハサン・ブン・サフル〔ms. 184〕を後任のワズィールに任じた際には、彼にクンヤを与え「両権能の保持者(Dhu al-Kifayatayn)」というラカブを与えた。サーイド・ブン・マフラド20は、ムータミドの治世に「両ワズィール職の兼任者(Dhu al-Wizaratayn)」という、ムータミドとムワッファクのワズィールであることを示すラカブを与えられていた。イスマーイール・ブン・ブルブルは、「神の宗教に大いに感謝し、それを防御する者(al-Shukur al-Munasir li-Din Allah」というラカブを与えられ、書状でそれを用いた。ムクタフィーは、アブー・アルフサイン・カースィム・ブン・ウバイド・アッラーにクンヤを与え、「王朝の支援者(Wali al-Dawla)」というラカブを与えた。彼は「王朝の」というラカブを与えられた最初の人物である。ムクタディルは、アブー・アルハサン・イブン・アルフラートとアブー・アリー・ブン・ムクラ21にクンヤを与えた。またアブー・アリー・フサイン・ブン・アルカースィム・ブン・ウバイド・アッラー22にもクンヤを与え、「王朝の支え(`Amid al-Dawla)」というラカブを与えた。

【2001.7.28:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]

1 パピルス紙については、Ayman Fu'ad Sayyid, al-Kitab al-`arabi al-makhtut wa `ilm al-makhtutat, al-Qahira: al-Dar al-Misriya al-Lubnaniya, 1997: v. 1: 16-18に簡単にまとめられている。

2 シャイターニー紙(al-shaytani)とあるが、この紙の種類については、アラビア語テキストの校訂者`Awwadは正しくは、「スルターニー」か「スライマーニー」であろうとし、英語への翻訳者Salemは「スライマーニー」の誤りであろうとしている[校訂テキスト126頁、注4;英訳103頁、注1]。「スライマーニー」の間違いではないかとするのは、イブン・アンナディームの記述によると思われる[Ibn al-Nadim, al-Fihrist, Bayrut, nd.: 32]。

3 校訂テキスト66頁、注2参照。

4 写本179頁左の欄外に、以下の書き込みがある。`Awwadの注にもある通り、筆跡は本文とは別人のものと思われる。
 「この書の著者の教養の何と浅いことか。「神が嘉し給わんことを」と言うべき者に「神が慈悲を与え給わんことを」と言い、「神が慈悲を与え給わんことを」と言うべき者に「神が嘉し給わんことを」と言っているのだから。あるいは、ブワイフ家の者のように、それもこれもない〔場合もある〕。というのも、彼らは背信者であり、「神が彼らを非難して下さるように」としか言われないのだから。」

5 Hamza b. `Abd al-Muttalib b. Hashim b. `Abd al-Manaf b. Qusayy. 預言者ムハンマドの父方の叔父。ウフドの戦いで戦死[Ibn Sa`d, al-Tabaqat al-kubra (Ed. Ihsan `Abbas, Bayrut: Dar Sadir, n. d., 8 vols. + index.), 3: 8-19; EI2, 3: 152-154]。

6 `Amr b. `Abd `Amr b. Nadla. 両手を一緒に動かしていたので、本文のラカブで呼ばれたとされる。バドルの戦いで、アブー・ウサーマ・ジュシャミー(Abu Usama al-Jushami)に殺された[Ibn Sa`d, al-Tabaqat al-kubra, 3: 167-168; `Izz al-Din Ibn al-Athir, Usd al-ghaba fi ma`rifat al-sahaba (Ed. Muhammad Ibrahim al-Banna, Muhammad Ahmad `Ashur and Mahmud `Abd al-Wahhab Fayid, Bayrut: Dar Ihya' al-Turath al-`Arabi, nd., 7 vols.), 4; 250]。
 彼のイスムについては、Ibn Sa`d では `Umayr、`Izz al-Din Ibn al-Athir では `Amr. ここでは、写本と校訂テキストにしたがって、「アムル」とした。

7 Abu al-Haytham Malik b. al-Tayyahan al-Ansari. 彼の名前、系譜については、複数の説がある[Ibn Sa`d, al-Tabaqat al-kubra, 3: 447-448; `Izz al-Din Ibn al-Athir, Usd al-Ghaba, 6: 323-324]。

8 Khuzayma b. Thabit al-Ansari. スィッフィーンの戦いで戦死。ラカブの由来を含む詳細については、al-Tabaqat al-kubra, 4: 378-381 参照。

9 Ja`far b. Abi Talib. 預言者ムハンマドの従兄弟で、第4代カリフ=アリーの兄弟。ムータ(Mu'ta)の戦いで戦死。死後付けられたラカブが本文中のもの。ラカブの由来を含む詳細については、Ibn Sa`d, al-Tabaqat al-Kubra 4: 34-41 及び EI2 2: 372 参照。

10 Abu `Aqil Labid b. Rabi`a. ジャーヒリーヤ時代からイスラーム最初期にかけて活躍した詩人で預言者の教友。40/660年頃没[``Labid b. Rabi`a.'' EI2]。

11 `Adi b. Hatim b. `Abd Allah al-Ta'i. 9または10/630または631年にイスラームに改宗した教友。高名な詩人でもあった父からターイー族の指導者の地位を継承した。68/687-88年没[```Adi b. Hatim.'' EI2]。

12 原文にはal-Masjidとだけあるが、いわゆる「預言者のモスク(al-Masjid al-Nabi)」のことと思われる。

13 `Amr b. al-`As. イスラーム勃興期に活躍した軍人。ヤルムークの戦いに参戦した後、19/640年以降エジプト征服を推し進めた。40/661年以降没[```Amr b. al-`As.'' EI2]。

14 Abu Musa al-Ash`ari. 7/628年のハイバル攻撃に参加した。10/631-32年に出身地イエメンへ派遣されたが、ウマルがバスラの総督に任命して以降は主にイラクで活躍した。美声の持ち主としても有名であった。40/660年以降に没[``al-Ash`ari, Abu Musa.'' EI2]。

15 Ibrahim b. Muhammad b. `Ali b. `Abd Allah b. al-`Abbas. 82〜132/701-02〜749年。父の没後、アッバース家革命運動を継承した[``Ibrahim b. Muhammad.'' EI2]。

16 Abu Salama Hafs b. Ghiyath b. Sulayman al-Khallal. アッバース朝革命の功労者の1人で、サッファーフによってワズィールに任じられたが、最期はカリフに疑われて暗殺された(132/750年)[``Abu Salama.'' EI2]。本文に引用されている詩は、アブー・サラマの暗殺に関連して詠まれたものである[Tabari/Q, v. 7: 450]。

17 Sulayman b. Muhajir al-Bajli. 不詳。

18 Abu `Abd Allah Ya`qub b. Dawud b. Tahman. マンスールの治世にアリー派の反乱に参加して捕らえられるが、マフディーによって赦され、163/779-80年にはワズィールに任じられる。しかし親アリー派の態度をとり続けたため再び投獄された。ラシードによって釈放された後メッカへ赴き、186/802年頃没した[``Abu `Abd Allah Ya`kub.'' EI2]。

19 Salm b. `Amr al-Khasir. バスラ出身の詩人。マフディーとハーディーの2カリフやバルマク家のために頌詩を詠んだ。186/802年没[``Salm al-Khasir.'' EI2]。

20 Sa`id b. Makhlad. キリスト教徒から改宗した書記官僚。265/878年から272/885年までムワッファクに仕える。本文で言及されているラカブは、269/882年に与えられた。276/889年没[``Ibn Makhlad.'' EI2]。

21 Abu `Ali Muhammad b. `Ali, Ibn Muqla. 316〜18/928〜30年と320〜21/932〜33年、322〜24/934〜36年の3度に渡ってワズィールを務めたが、イブン・ラーイク(Ibn Ra'iq)の大アミール就任に伴って失脚し、328/940年に獄中で没した。能書家としてもよく知られている[``Ibn Mukla.'' EI2]。

22 Abu `Ali al-Husayn b. al-Qasim b. `Ubayd Allah. 有力書記官僚を輩出したワフブ(Wahb)家に属す。319〜320/931〜932年にワズィールを務める[Vizirat: 463]。

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