///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注122-125ページ///
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〔txt. 122〕
第11章 信徒の長のマウラーであることの表明

 その関係を示すのは、非アラブやマウラーたちのみである。純粋なアラブはそのようなことはしない。私は覚えているが、かつてラーフィー・ブン・ムハンマド・ブン・マカン1が自分の手紙の中で「信徒の長のおじの息子ラーフィー・ブン・ムハンマドより」と書いたことがあった。信徒の長カーディル──彼に神の祝福があらんことを──はその行為を嫌い、彼にそれを止めるように命じた。そして、彼と長い議論が繰り返された。私はその一部に参加し、それに時間を費やした。彼は「私はムダル出身のアラブではないのか。〔ms. 172〕だから私は信徒の長のおじの息子である」と言った。すると「ムダルの者が皆、この関係を示せるわけではない。これは許されないものであり、あなたにも許されていない」と言い返された。そして彼は何回か繰り返した後でそれを止めた。
 また、ムハンマド・ブン・アブド・アルワーヒド・ブン・ムクタディル(Muhammad b. `Abd al-Wahid b. al-Muqtadir bi-Allah)──神が彼を嘉せんことを──は、自分の書類(riqa`)の中で「信徒の長のおじムハンマド・ブン・アブド・アルワーヒド」と書いたものだった。私はそれが初期の時代にも行われていたことを知らない。バハー・アッダウラの時代には信徒の長のマウラーであると表明する者たちが多く、彼は「信徒の長の親友(safiy)」として区別されていた。そして、その行いは広まり、それを主張することが多くなった。書記、アーミル、側近たち(hawashi)のうちのラカブを与えられた者たちが、信徒の長のマウラーであるという関係を示すようになったのであった。彼らはそれによって立場が向上し、ラカブに加えて何らかの地位が得られると信じた。トルコ人たちはというと、そのようなことはしなかった。なぜなら、彼らはカリフ以外の者のマウラーだったからである。〔ms. 173〕ただし彼(カリフ)の奴隷(riqq)で、彼のマウラーである者がいればそうしてもよい。
 また、かつてムイッズ・アッダウラのハージブであったサブクタキーン(Sabuktakin)は、イッズ・アッダウラに反逆しナスル・アッダウラのラカブを与えられると、彼(イッズ・アッダウラ)のマウラーであることから離れてカリフのマウラーになり、自分の名誉を高めるために「信徒の長のマウラー、ナスル・アッダウラ・アブー・ナスル(Nasr al-Dawla Abu Nasr)より」と書いた。
 また、アブー・マンスール・アルフタキーンAbu Mansur Alftakinは、彼と同じ立場に立ったとき、彼と同じ道をとって、「信徒の長のマウラー、アブー・マンスールより」と書いた。〔txt. 123〕なぜなら、彼はラカブが与えられていなかったからである。そこで、クンヤに甘んじたのである。また、バジュカムとトゥーズーンも以前それと同様のことを行った。この2人はマルダーウィージュ・ブン・ズィヤールMardawij b. Ziyar2のマウラーであったのだが。このことの起源は、アッバース朝──神がその御代を守らんことを──の早い時代にイスラームに入った人々や、トルコ人やその他の人種・民族の、カリフの奴隷たち(mamalik)やその子孫たちが、自分の名誉を高めるためにマウラーであることを示したことにある3
 〔ms. 174〕かつて、ムタワッキル──彼に神の慈悲があらんことを──がウバイド・アッラーフ・ブン・ヤフヤー・ブン・ハーカーン(`Ubayd Allah b. Yahya b. Khaqan)に、彼を自分のマウラーとして、彼の状態がはっきりと示された手紙を書いた。彼はマウラーの子孫の1人であったが、それによって彼を高めるためにそうしたのである。

【2001.6.9:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

〔txt. 124〕
第12章 書状の末尾に述べられる語句:「何某の息子何某記す」

 アリー・ブン・アブー・ターリブ──彼に平安あれ──は、預言者──神よ彼を嘉したまえ──に代わって書いた書状にこのように書いた。ムアーウィヤとザイド・ブン・サービトも同様に書いた。その時代には、このようにすることの目的は地位を得ることではなく、むしろその書状に書き手を記すことが意図された。なぜなら、預言者──神よ彼を嘉したまえ──は、自らの手では書くことができない文盲だったからである。そして、これ以降カリフ達の書記も〔ms. 175〕、このような表現をこの慣習に従って書いた。
 私はアブド・アルマリク・ブン・マルワーンの書状の末尾に「信徒の長のマウラー、サーリム4記す」と書かれているのを見たが、彼はカリフの書記でマウラーであった。また私は、マームーン──彼に神の祝福あれ──直筆の1通の書状を見たことがあるが、その末尾には「信徒の長が手ずから記す」とあった。やがてこのやり方(hal)は権威と名誉ある地位を示すものと見なされ、ワズィール達が自分たちだけにその形式を適用するようになり、発行される書状を自ら担当するにせよ、彼らの書記達に担当させるにせよ、ワズィール達自身の名を記した5
 このような状態はイッズ・アッダウラが治世の終わりにアブー・ターヒル・ブン・バキーヤを捕らえ、ワズィール職が空席になるまで続いた。そこで我が祖父イブラーヒームは、「イブラーヒーム・ブン・ヒラールが、文書庁を担当している権限によって記す」と書いた。アドゥド・アッダウラが台頭したとき、アブド・アルアズィーズ・ブン・ユースフはその方法を用い、彼の後〔ms. 176〕、ムハンマド・ブン・アルハサン・ブン・サーリハーンが解任されるまで、その形式は文書庁を担当している者たちの許で続いていた。バハー・アッダウラがファールスを得ると、中央文書庁(al-mukatabat al-sultani_ya)が偉大なるカリフ宮廷から移された。そしてイブン・ハージブ〔txt. 125〕・アンヌウマーンは、「アリー・ブン・アブド・アルアズィーズ記す」と書いた6。この状態は慣例になり、その後も続けられた。これらはカリフからの書状についてである。
 大アミール達7の書状に関しては、かつてのアブド・アルアズィーズ・ブン・ユースフを除き、私は書状でそれを行った者を1度も見たことがない。彼は、アドゥド・アッダウラに代わって書いたワーリーやカーディー達の任命書(`uhud)の中でそれを書いた。なぜならそれは彼の権限下に移っていたからである。そこには「これは信徒の長のマウラー、アドゥド・アッダウラにしてタージュ・アルミッラ、アブー・シュジャー・ブン・ルクン・アッダウラ・アブー・アリーが何某を任じたものである」とある。すなわちここで、すべての権限が彼の采配に任され、彼の任命行為に含まれていると説明されているのである。
 我が祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラールが、サムサーム・アッダウラ〔ms. 177〕の時代に文書庁を監督したとき、彼は「カリフによるもの以外、カーディー職の任命や委任は真正ではない」と言ったが、アドゥド・アッダウラの慣習を変えるのを嫌った。そして彼は、「これは信徒の長のマウラー、アドゥド・アッダウラにしてタージュ・アルミッラ、アブー・シュジャー・ブン・ルクン・アッダウラ・アブー・アリーの息子サムサーム・アッダウラにしてシャムス・アルミッラ、アブー・カーリージャールが、信徒の長ターイー・リッラー──神よ彼の命を長らえさせ給え──の命により、何某を任じたものである」と書いた。
 その後、カーディー、長官職に任命された者(al-muqalladin)、ラカブを与えられた者たちの諸事についての監督は、諸地方の長達から偉大なるカリフ宮廷に移された。任命書は最初の形式に戻され、信徒の長カーディル──彼に神の祝福あれ──に代わって書かれるようになった。

【2001.6.30:二宮文子】[[このページの先頭へ]]

1 Ra_fi` b. Muhammad b. Maqan, Shihab al-Dawla Abu Dar`。AH406年没[校訂122頁、注1]。

2 ズィヤール朝の君主。323年没。

3 この部分は構文解釈が困難である。さしあたり、intisabの前のwaを取り除いて解釈しておく。写本の該当部分を校訂本が示すように読めるかどうかは微妙なところである。

4 サイイド・ブン・アブド・アルマリクのマウラー。

5 txt. 121のイブラーヒームが書いた書状の末尾の署名を参照

6 彼はカリフの書記であったため、公文書には役職名を記せなかったと考えられる。この人物については、txt. 30を参照。

7 原語はal-umara'だが、本文中の内容からこう判断した。

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