///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注111-114ページ///
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〔txt. 111〕
第9章 カリフからの書状の決まり事

 カリフの御前から発せられたものに関する習慣は次の通りである。その宛名は、「慈愛遍く慈悲深き神の御名において、神の僕、アブド・アッラー・アブー・ジャアファル・イマーム〔ms. 149〕・カーイム・ビ・アムル・アッラー、信徒の長より、某・ブン・某へ」とし、彼のイスムと、彼の父のイスムを書く。もし、クンヤを持つなら、「アブー・某へ」と彼のイスムも父のイスムもなしで書かれる。また、ラカブとクンヤを持つなら、「○○・アッダウラ・アブー・某へ」とされる。もし、非アラブやマウラーであれば、「信徒の長のマウラーへ」とされる。もし、受取人の父親がラカブを持つなら、それは次のように記され、「○○・アッダウラ・アブー・某・ブン・○○・アッダウラ、信徒の長のマウラーへ」となる。そのすべては、1行に書かれる。
 冒頭では、「慈愛遍く慈悲深き神の御名において、神の僕、アブド・アッラー・アブー・ジャアファル・イマーム・カーイム・ビ・アムル・アッラー、信徒の長より、○○・アッダウラ・アブー・某、信徒の長のマウラーへ。汝に平安あれ。信徒の長は、汝のために唯一神たるアッラーを讃え、彼の僕であり使徒であるムハンマド──神が彼に祝福と平安を与えんことを──に祝福を与えるようにと神に求める。さて、神が、汝を保護し守り給い、信徒の長が汝に満足するようになさいますように。〔ms. 150〕これこれの内容の汝の書状は信徒の長に届き、彼はその内容をとらえ、理解した」とし、その返答のなかで、言及を求められたことが述べられる。もし返事の書状であるなら、この通りである。もし新たに出すのであれば、その目的に従って書かれる。
 また、カリフが自身を示すのには、「信徒の長」が使われる。したがって、「信徒の長は言った」「信徒の長は考えた」「信徒の長は命じた」と書かれる。ちょうど、王やアミールでは「我々が行った」「我々が為した」「我々が考えた」「我々が命じた」とされるように。カリフもまた、私的な書状や書き入れ(tawqi`)1ではこれを使うこともある。地方に宛てた書状では、カリフが自身を示すのには「信徒の長」以外は使われない。
 書状の内容を述べ終わったら、〔txt. 112〕その最後に、「それが信徒の長の意志であり命令であることを知れ。そして、それに従って動き、行い、為せ」と書かれる。カリフの側から「それに従って動け」とか「汝はそれを行う」、「汝の意見通りそれに従って行ってよろしい2 」などと言うことは許されない。
 そして、書状が「神が望むなら」で終わったら、〔ms. 151〕「汝に平安と神の慈悲がありますように」と書かれ、「恩寵あれ」は落とされる。カリフに対する平安の祈願と、彼らからの平安の祈願とで違いをつけるためである。それから、「神の慈悲がありますように」の後に、〔書記が〕クンヤもラカブも持たないなら、「国事を担当するその時のワズィール配下の某・ブン・某記す」と書く。もしクンヤを持つなら、「アブー・某記す」とする。クンヤとラカブを持つなら、「○○・アッダウラ・アブー・某記す」とする。
 また、決まり事の一つとして、書状の宛名の上の左側に、書状が送られる用件をさして「これこれのことついて」と書かれる。もし書状がクンヤやラカブを与えることについてであるなら、クンヤもラカブも書状の冒頭には書かれず、「信徒の長があなたにクンヤを与えた」または「ラカブを与えた」と述べた後には書かれ、以後は宛名にも書かれる。

【2000.12.17:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

〔txt. 113; ms. 152〕
第10章 カリフから書状の受取人への祈願の定型句──当初行われていた決まり事と最終的に行われるようになった決まり事──

 カリフからアミールへの祈願の定型句のうち最上位のものは以下の通りである。「神が、汝を保護し守り給い、信徒の長が汝と〔神の〕汝への恩寵に満足するようになさいますように」。これによって皇太子やブワイフ家のアミール──神が彼らに満足なさいますように──への祈願を行っていた。さらに各部分では「神が汝に満足せんことを」「信徒の長が汝に満足するのを嘉みし給わんことを」「神が汝を見守らんことを」「神が汝を看守らんことを」とする。またこれより下位の、ホラーサーン総督や地方支配者の場合には「神が、汝を保護し守り給い、汝に満足せんことを」であり、各部分では「神が汝を見守らんことを」の句で祈願を行い、「神が汝を看守らんことを」「神が汝を観守らんことを」とする。
 さてルクン・アッダウラが死去したとき、アドゥド・アッダウラとイッズ・アッダウラの間に反目が生じた。ターイーから書簡が発せられ、〔ms. 153〕その書簡の作成を我が祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラールが担当した。その書簡でターイーはイッズ・アッダウラをより強大と認定し、ルクン・アッダウラの後の筆頭(al-taqaddum)とした3。そして、その書中で彼に対して「神が汝の生命を長らえさせ、汝の威厳と汝への援助を永続させ、信徒の長が汝と〔神の〕汝への恩寵に満足するようになさいますように」との祈願句を用い、各部分で言及するたびに「神が彼を援助せんことを」とした。
 これについてアドゥド・アッダウラに届けられたものの写しは以下の通りであった。

 慈愛あまねく慈悲深き神の御名において、アブド・アッラー・アブド・アルカリーム・イマーム・ターイー・リッラー、信徒の長より、アドゥド・アッダウラ・アブー・シュジャー・ブン・ルクン・アッダウラ・アブー・アリー、信徒の長のマウラーへ。〔txt. 114〕汝に平安あれ。信徒の長は汝のために唯一神たるアッラーを讃え、彼の僕であり使徒であるムハンマド──神が彼に祝福と平安を与えられますように──に祝福を与えられるようにと神に求める。
 さて、神が、汝を保護し守り給い、信徒の長が汝と〔神の〕汝への恩寵に満足するようになさいますように。〔ms. 154〕信徒の長がその再生をよしとし給う公正の慣行や、それを維持しそれに従おうとする神の倫理(adab)の内には、よきことをする者に対して、そのよきことゆえに報い、その同輩に比してその者により篤く遇することがある。またその者の行いの正しさ、目的の適切さゆえにその者によく報いることがある。それは、その者が先におこなったことに対する精算であり、その者が確実にし当然受けるべき対価としてである。そのことをしかるべく取りはからい、王朝の盟友と教宣の助け手の間にいき渡らせる。それは彼らのよき行為の知られているものや、彼らの能力の程度のわかっているものに応じてである。信徒の長は、彼らのうち最善の者たちにそれ相応の膨大な報酬を与えることを厭わず、彼らのうちの最低の者たちにやらねばならないごく僅かなものを少なすぎると思うこともない。彼らが頂点を目指すことを視野に入れるようにさせ、極限に達するように叱咤し、彼らの手がその達成に立ち向かうところまで伸びるようにし、彼らの足が〔ms. 155〕<善いことすれば、善い報い戴けるのが当然のこと>[コーラン55章60節]と神がおっしゃるところに踏み込むようにする。このようにして、公正なサラフたる信徒の長たちの行いは継続してきた。彼らは、信徒の長が、彼らの植えた植物、彼らの築いた建物、彼らのうちたてた偉業、彼らが礎を築いた高貴な行いにおいて、その導きに従い、その例に倣い、その事績に習うムスリムのイマーム達である。信徒の長はこのことで神に助けを乞い、彼を目的に至らしめ、然るべきところへ到達させる導き、誤った意見や間違った選択から守る堅実さ、正しき目的と正鵠を射た志に導く助けを求める。神による以外に信徒の長に成功はない。かみにこそ、身をゆだね、悔悟する。

【2000.1.8:清水和裕】[[このページの先頭へ]]

1 莵原卓「ファーティマ朝のディーワーン」『西南アジア研究』42, 1995年; 「ファーティマ朝前半期の書記規範」『西南アジア研究』52, 2000年参照。

2 この部分は文意がはっきりしない。

3 ブワイフ朝においては、ファールス地方、イラク地方、ジバール地方を親族のアミールが統治していたが、それぞれのアミールのうち最も年長もしくは有力な者が、家長としてブワイフ家全体を指導していた。ブワイフ朝を建設しファールス地方を支配したイマード・アッダウラ(338/949年没)の後は、その弟でジバールを支配したルクン・アッダウラ(366/977年没)が家長であったが、その死後ルクン・アッダウラの息子アドゥド・アッダウラとムイッズ・アッダウラの息子イッズ・アッダウラが家長の地位を争った。ここではターイーがイッズ・アッダウラ支持の立場を表明している。なおバグダード入城で著名なムイッズ・アッダウラはルクン・アッダウラの末弟であり、カリフに大アミールに任命されたにもかかわらず、生涯、ブワイフ家全体を指導する立場にはなかったことは注目に値する。

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