///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注105-110ページ///
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 「慈愛遍く慈悲深き神の名において」の次にくる手紙の冒頭には、〔txt. 106〕祈願文を付けずに「神の僕たるアブー・ジャーファル・アブド・アッラー・イマーム・カーイム、信徒の長に」と書き、「かの方(カリフ)の僕〔ms. 141〕某より。信徒の長に平安あれ。私はかの方のために唯一神たるアッラーを称え、その僕たる使徒──神が彼を祝福し、守られんことを──に祝福を与えてくださるよう神に願います」と続ける。昔は冒頭に「アブー・某・某に。貴方に平安あれ。さて…」と書かれていたが、マームーン──彼に神の祝福あれ──の時代になると、「貴方に平安あれ」の後に「私は貴方のために唯一神たるアッラーを称え、その僕にして使徒たるムハンマド──神が彼を祝福し、守られんことを──に祝福を与えてくださるよう神に願います」という語句が付け加えられるようになった。
 以上の冒頭部は2行で書く。その後、「さて、神がわれらの主人にして保護者たる信徒の長の生命を長らえさせ、その威厳と援助と栄誉と幸運と保護を永続させ、彼に対するその恩恵を全うし、彼に対するその善意と好意、また彼のための美しき行いと豊かな恵みを増さんことを。神に称えあれ」とする。
 手紙が勝利の知らせか功績の通知で始まるなら、神はその諸属性によって書かれる1。返事であれば、「さて、われらの主人にして保護者たる信徒の長──神が彼の生命を長らえさせんことを──の手紙は」とし、祈願が終わると、「これこれ〔の日付〕2にその僕の許に届きました。私はその手紙を手にして3理解し、仰るとおりに致しました」と続け、〔手紙を〕書いた目的の事について、状況を説明するのである。
 「さて」という言葉は、クッス・ブン・サーイダ(Quss b. Sa`ida)4がウカーズ(`Ukaz)5での説教で初めて使った。神の使徒──神が彼を祝福せんことを──はその表現が気に入り、それを採用してその説教における彼の言動に倣った。その意味は、「神への言及の後についていえば、状況はかくの如く」である。
 手紙を書き終えて「もし神が望み給うなら」という言葉で結んだら、「神が信徒の長に対するその恩恵を全うし、その恩寵によって彼を喜ばせ、その容赦と活力と安寧と平安を彼にまとわせますように。信徒の長に平安あれ。〔txt. 107〕神の慈悲と祝福あれ。何年何月何日」と書く。
 差出人の名前には触れない。なぜなら、それはカリフからの手紙に書くもので、カリフへの手紙に書くものではないからである。手紙の冒頭には「信徒の長に平安(salam)あれ」と書き、末尾には「信徒の長にかの平安(al-salam)あれ」と書く。前者は初出の非限定名詞であり、後者は前者を指す限定名詞である。それは、最初の平安が信徒の長に返される、と言っている如くである。
 皇太子への手紙は、以下の様な順序である。まず「王子(al-amir)」、次にラカブがあればそのラカブ、次に「ムスリムたちの皇太子たる某」、そしてカリフの息子であれば「信徒の長の息子」とする。
 カリフと、ワズィールまたはカリフの門前に立つ軍司令官との間の直接の(khass)手紙のやり取りは、通知、相談、質問、請願といった用件についての言及から始める。陳情者たちの話を取り上げる場合6も同様である。ただしその最初の7方式は、地方とやり取りする手紙の場合のみである。また、そういった書状を書いたり陳情を取り上げたりする者たちは、ワズィールや軍司令官〔ms. 144〕8や地位のある者たちを通さない場合にも「下僕(al-khadim)」とか「僕(al-`abd)」とか言わずに彼ら(ワズィールたち)の名(asma')や彼らの父親の名に触れるのは咎められることである。なぜならこれが許される地位は彼らのうちの誰にでも相応しいわけではないからである。
 また儀礼が定めるところによれば、カリフへの手紙、カリフからの手紙、ワズィールから行政官(`ummal)への手紙、行政官からワズィールへの手紙は、一つの用件についてのみにすべきであり、用件が多ければ複数の手紙に分けるべきである。

【2000.10.29:矢島洋一】[[このページの先頭へ]]

〔txt. 108〕
第8章 書状におけるカリフの呼称と祈願の定型句

 古い決まりでは、前述の冒頭句の後に「さて、神が信徒の長の生命を長らえさせ、威厳を高めんことを」と続ける。各部分でカリフに言及する毎に、「神が彼の生命を長らえさせんことを」「神が彼の威厳を高めんことを」「神が彼を援助せんことを」「神が彼に栄誉を与えんことを」と祈願の定型句が記されることになっていた。ところがスライマーン・ブン・ワフブ9が「彼の威厳を高めんことを」の代わりに「彼の威厳を永続させんことを」という句を用い、表現の増加に端緒を開いた。この傾向は強まって「主人たること(siyada)」が言及されるされるようになり〔ms. 145〕、さらに「我が主人たる信徒の長」から「我らが主人たる信徒の長」へと変化した。そしてその後、「我らが主人にして保護者たる信徒の長」という表現に定まった。また、書状の最初と最後には、前述の方法で祈願の定型句が記される。さらに各部分でカリフに言及する毎に「神が彼の威厳を永続させんことを」「彼への援助を永続させんことを」「彼への力添えを永続させんことを」と祈願の定型句が記されることになっていた。以上は、ターイー──彼に神の慈悲あれ──の時代までおこなわれた。
 現状について言うと、最近始められた方法は、以前の決まりとは異なってしまっている。カリフに出す書状では、「我らが主人にして保護者たるイマーム、信徒の長」とカリフに言及し、「神が彼の命を長らえさせ、神が彼のために威厳、援助、助力、力添え、高位、能力、権力、拡張を永続させ、彼の言葉を高め、彼の威光を確固たるものとし、彼の権勢を守り、彼の旗を知らしめんことを」という祈願の定型句を記すが、人によってはさらに表現を追加したり誇張した方法をとる。
 私が知るところでは、ヤミーン・アッダウラ・アブー・アルカースィム・マフムード・ブン・サブクタキーン10は〔txt. 109; ms. 146〕、カーディル──彼に神の祝福あれ──に対して宛名の部分で「慈愛あまねく慈悲ふかき神の名において。我らが主人にして保護者、神の僕たるアブー・アルアッバース・アフマド・イマーム・カーディル、信徒の長陛下へ、かの方の僕にして下僕、保護されし者(sani`a)にして庇護民(ghirs)たるマフムード・ブン・サブクタキーンより」と1行で書いていた。また冒頭は以下のごとくであった。

 慈愛あまねく慈悲ふかき神の名において。我らが主人にして保護者、神の僕たるアブー・アルアッバース・アフマド・イマーム・カーディル、信徒の長陛下へ、かの方の僕にして下僕、保護されし者にして庇護民たるマフムード・ブン・サブクタキーン〔より〕11、我らが主人にして保護者たるイマーム・カーディル、信徒の長に平安と神の慈悲と恩寵あれ。僕たる私はかの方のために唯一神たるアッラーを讃え、その僕にして預言者たるムハンマド──神が彼とその高貴な一族を祝福せんことを──を祝福し、我らが主人にして保護者たるイマーム・カーディル、信徒の長へ、最高の祝福と最良の平安を与えて下さるよう神に願います。
 さて、神が我らが主人にして保護者たるイマーム・カーディル、信徒の長の生命を長らえさせ、神が彼のために〔ms. 147〕威厳、援助、能力、賞賛、興隆、拡張、崇高、幸福を永続させ、彼の支配を東西へ広げ、彼の旗を〔掲げる軍隊を〕海陸で助け、彼の立場から権勢を遠ざけず、彼の時代から活力を奪わざらんことを。

 書状の末尾は、「神が望み給うならば」という句の後に「我らが主人にして保護者たる信徒の長イマーム・カーディルに、かの平安と神の慈悲と恩寵あれ」と記され、冒頭の祈願の定型句が繰り返されて終わっている。
 彼の別の複数の書状で、宛名部分の左側に「我らが主人にして保護者たる信徒の長イマーム・カーディルの僕、その方に保護されし者、マフムード・ブン・サブクタキーン」と書いてあるものを私は見た。その書状の冒頭には「慈愛あまねく慈悲ふかき神の名において。我らが主人にして保護者たるイマーム・カーディル、信徒の長に平安あれ。僕たる私はかの方のために唯一神たるアッラーを讃え、使徒ムハンマドとその一族を祝福して下さるよう神に願います」とある。祈願の定型句は、先に引用したものに書き加えたり削除したものである。
 またこの書き方とも異なる彼の書状も見たことがある〔ms. 148〕。つまりこのことは〔txt. 110〕、人々が書状を作成する際に単一の書式を使うわけではないということを示している。むしろこれらの様式のなかで頭に浮かんだものに従って書いているのである。かつてはこのようなことはなかったのだ。然り。マフムードは自分の名前を記す際に、そのラカブにも父のラカブにも言及していないし、「信徒の長のマウラー」とも「信徒の長に近しい者(wali)」とも記していない。このような書き方をした者は、これらの語句を記さないことは相手を高め称揚することだと考えたのであろうが、しかし実はそうではない。それは相手をおとしめさげすむことなのである。この点については、ラカブに関する箇所ですでに述べた。「信徒の長のマウラー」や「信徒の長に近しい者」と記すことは謙遜なのである。

【2000.11.23:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]

1 「アッラー」でなく、「アッラフマーン」などの名を用いること。

2 bi-kadha. 英訳に従う。

3 校訂では bi-qabd であるが、qabada と読む。写本の文字は微妙である。

4 ジャーヒリーヤ時代の有名なアラブの説教師。西暦600年没[校訂106ページ、注3]。

5 ターイフ(Ta'if)とメッカの間にある市場で、前イスラーム時代に詩人たちが競い合うのを聞くために諸部族が集う場所であった[英訳83ページ、注2]。

6 マザーリム法廷への提訴を指す。

7 校訂では al-ula であり、英訳は「上述の(mentioned above)」と訳すが、写本では ALAWFY のようにも見える。この al-ula は無くとも意味が通るので、写本作成時に次の illa fi と重複してしまった可能性もある。

8 英訳では、写本のこの部分が不明確としている。

9 Sulayman b. Wahb.アッバース朝の有力書記官僚。マームーンに書記として仕え、ムフタディーとムータミドのワズィールを務めた。272/885-886年没[校訂108ページ、注2; Vizirat: 727]。

10 Yamin al-Dawla Abu al-Qasim Mahmud b. Sabuktakin (Sebuktigin). ガズナ朝君主。在位388〜421/998〜1030年。

11 写本には欠けているが、前置詞min(〜より)を補うべきであろう[校訂109ページ、注1]。

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