///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注100-105ページ///
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 〔ms. 134〕初期のブワイフ朝のアミールたち──神が彼らに祝福を与えますように──については、私は彼らが運んだものの詳細を知らないが、アリー・ブン・アブド・アルアズィーズ・ブン・ハージブ・アンヌーマーンは私に次のように語った。
 アドゥド・アッダウラは、367/977-78年にターイーが彼に対して賜衣とタージュ・アルミッラというラカブを授与し、会議用の(majalisiya)賜衣とそれに伴う引出物や贈り物や容器類や椅子や半球蓋を贈った後に、宝庫係のフッラシード・ブン・ズィヤール・ブン・マーフィンナ(Khurrashid b. Ziyar b. Mafinna)の手で500頭の荷馬で運ばなければならないようなものをターイーのもとに運んだ。
 それは、銀の輪1の上に封印された色とりどりの錦の袋10袋に入ったアンマン2金貨50,000ディーナール、200の袋に入った1,000,000ディルハム〔txt. 101〕、200ディーナールの価値のある王侯用の錦の布から半ディルハムの価値の地を白く染めた布までの様々な布500〔ms. 135〕、金鍍金をした銀の盆と鍍金していない盆30枚──その中には、竜涎香、ほぐされた麝香、麝香嚢(nawafij)、樟脳、香料(nadd)、練り香、沈香、マグリー香(maghli)、香木片が入っている──、釉薬が塗られた盆3 20枚──そのうちの10枚にはサンフィー香4が入っており、他の10枚には円盤形のスック香5、金彩された彫像6、選び抜かれたブンク香7、香りの強い白檀、〔txt. 102〕シトロンが入っている──、2本のインド製の刀身、2脚のトゥスタル8──2頭は金の馬具をつけ、3頭は金鍍金をした銀の馬具をつけ、5頭は深紅色の馬衣をつけている──、10頭の騾馬──2頭は鞍用で、8頭は2人乗り椅子駕籠用(`ammariya)で、それぞれに道具類を伴った荷鞍をつけている──、布で覆われた10頭の駱駝であった。
 また、サムサーム・アッダウラ、シャラフ・アッダウラ〔ms. 136〕、バハー・アッダウラは、権力を手にし、賜衣が与えられたとき、私はその種類も量も数え上げられないが、大変な量のものを贈った。実にそのときは、財産が豊かで、財庫もいっぱいだったのである。そのような事例の最後として、〔txt. 103〕スルターン・アッダウラ9が、ファールスからムハンマド・ブン・アリー・ブン・ハラフ10を介して、アリー・ブン・ムハンマド・ザイナビーの手で運んだものがある。彼は、バドリー金貨1110,000ディーナール、フマースィー銀貨121,000ディルハム、布と香料でいっぱいの2つの箱、それにイブン・ハージブ・アンヌーマーンへの30,000ディルハムを贈り、ザイナビーにはバドリー金貨1,000ディーナールと布20を与えた。ムハンマド・ブン・アリー・ブン・ハラフは彼を、アフワーズからそれを持ってこさせるために送ったのである。彼はそれを金の馬具をつけた馬に乗せて運んだ。
 カリフ=カーディルが委任とラカブ授与の書類を読み上げるために会を招集しようとしたとき、イブン・ハラフはカリフの宮殿(dar `aziza)にたくさんのすばらしい絨毯やタペストリーを運んだ。その会が終わるとそれらは返却されたが〔ms. 137〕、イブン・ハラフはそれを返し、「私は贈り物としてそれを運んだのであって、お貸ししたものではございません」と言った。

【2000.9.16:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

〔txt. 104〕
第7章 カリフとの書状のやりとりの決まり事
──書き出し・宛名・祈願の定型句・最後にもう一度繰り返す祈願の定型句について──


 カリフとやりとりする書状を書くときの決まりには、以下のことがある。極めて明瞭な筆跡と正しい言葉によっていること。また、行は書状の端から〔始め〕、行の両端を揃えること。そしてそれぞれの行と行の間は広くとること。
 書記は、文字や文字間を繋ぐ線を伸ばしすぎないようにし、短縮したり(irsal)単語と単語を続けて書いて(idgham)しまわないようにせねばならない。また、弁別点や母音点をつけないようにせねばならないが、それはつまり、そのようにするのは受取人を見くびっているということだからである。何故なら〔その場合〕、受取人は、知識が足りないために弁別点と母音点をつけて手紙を送らなければならない者と思われていることになるからだ。
 宛名についていうと、慣例では以下の通りである。右側に、〔ms. 138〕「慈愛遍く慈悲深き神の御名において、神の僕、アブド・アッラー・アブー・ジャーファル、イマーム・カーイム、信徒の長へ」と書く。つまり、祈願の定型句は書かない。父親がラカブをもったカリフであっても、父親のイスムも書かない。というのも、信徒の長としてのラカブがその人物を特定するナサブ(系譜)のかわりになるからである。もう一方の端に、「その僕より」或いは、「その僕にして保護されし者(sani`a)」とし、〔この2つのうち〕差出人が選んだものに、差出人のイスムと父親のイスムを連ね、「某・ブン・某」とする。カリフ様よりいただいたクンヤがあっても、それには触れない。ラカブとクンヤがあっても、ラカブとイスムと父親のイスムに限る。父親にラカブとクンヤがあっても、父親はラカブとイスムで述べる。もしも非アラブ人やマウラーであれば、その後で「信徒の長のマウラー」と述べる。以上全ては、1行に収める。〔カリフ以外の者に対する〕一般的な宛名は、かつては、この書き方とは逆に、差出人の名前を先にし、〔ms. 139〕受取人の名前を後にした。〔txt. 105〕ただし、イマームや自分の父親に出す場合は別だった。〔それは〕預言者──神が彼に平安を与え給わんことを──から伝えられた、「お前たちの誰かが手紙を書くのなら、自分自身〔の名前〕から始めよ。ただし、自分の父親やイマームに出す場合は別である」 13という預言者の言に拠っている。ザイド・ブン・サービト14はムアーウィヤに手紙を書くとき、この決まりと方法に従って、ムアーウィヤの名前から始めた。
 マンスール──神が彼に祝福を与え給わんことを──がアブー・ムスリムに怒った理由の一つは、アブー・ムスリムが彼(マンスール)にこの順序を使わず、彼がイマームであることを認めずに、「アブー・ムスリムからアブー・ジャーファルへ」と書いてよこしたということだった。そして人々は誰彼かまわず相手をたてるようになり(tamassaha)、受取人の名前を先にし、差出人の名前を後にした。その際、受取人への祈願の定型句は書かなかったのだが、ファドル・ブン・サフルは、イブラーヒーム・ブン・アルマフディーに、「アブー・イスハーク──御神が彼の寿命を長からしめ給わんことを──へ、アブー・アルアッバースより」と書くに至った。すると彼(イブラーヒーム)は、彼にその新しい〔書き方〕を見せようと、その手紙を彼(ファドル・ブン・サフル)のおじ、スライマーンのもとに送った。スライマーンの許にそれが届くやいなや、イブラーヒームに書いたのと同じ書き方で、彼(スライマーン)宛の〔別の〕手紙を、その手紙の主(ファドル)もスライマーンに渡したのだった。この後、宛名において祈願の定型句が用いられるようになったが、〔ms. 140〕カリフとやりとりされるものだけは別で、古いやり方のままであった。
 今日では、ラカブのある者は、カリフへの書状の宛名に自分のラカブを書くのをやめて、自分のイスムと父親のイスムにとどめ、それがカリフを讃え〔自分を〕卑下することだと考えているが、そのようなことではない。というのも、ラカブというのは、支配者からの敬意なのであり、それを用いない者は、その示された敬意を無視するも同然なのである。ラカブを用いて書くときに守らねばならないことの一つは、カリフには〔自分の名前を〕ラカブとイスムで、それ以外の者にはラカブとクンヤで書いて送るということである。それにもかかわらず、今日ラカブを書かないことは良いことと思う。何故なら、ラカブはその〔本来の〕範囲を超えて、かつての規準をはずれてしまっているからである 。

【2000.10.07:近藤真美】[[このページの先頭へ]]

1 写本では、asrihat。校訂者は、ashrijatと読む。ここでは校訂に従う。

2 アンマンには4/10世紀に造幣所があった[校訂100ページ、注2]。

3 おそらく中国製の陶器[校訂101ページ、注8]。

4 `ud sanfi. サンフは中国の都市の名[校訂101ページ、注9]。Mu`jam al-buldan, v. 3, p. 429では、インドか中国の地名で、この香料の産地とのことである。

5 sukk. ラーマクから作る香。ラーマクとは、匂いを放つように麝香に混ぜるタール状の黒いもの[校訂101ページ、注10]。

6 香料や竜涎香などで作られた人物や動物の像[校訂101ページ、注11]。

7 bunk. 芳香植物の皮。桑の皮に似ている。インドやイエメンから輸入される[校訂101ページ、注12]。

8 Tustar. フーズィスターンの都市Shushtarのアラビア語形[校訂102ページ、注1]。)錦の椅子──一つは青く、もう一つは金が織り込まれている(mumazzaj)──、10頭のシフリー馬{校訂96ページ、注3を見よ。

9 父バハー・アッダウラの後に即位。シーラーズで415/1024-25年に没[校訂103ページ、注1]。

10 Muhmmad b. `Ali b. Khalaf. ブワイフ朝のワズィールで、407/1016-17年没[校訂103ページ、注2]。

11 おそらく、アミールのバドル・ブン・ハスナワイフの金貨[校訂103ページ、注3]。

12 重さ5キラートの銀貨[校訂103ページ、注4]。

13 同文は、ブハーリーの『サヒーフ』をはじめとするハーディース集の「六書」には見られない。

14 Zayd b. Thabit. イブン・ウマル、アブー・フライラ等も彼からハディースを伝え聞いている。45/665-66年没。42/662-63年、43/663-64年、51/671-72年、52/672年、55/674-75年の説もある。カリフ、アブー・バクルとウスマーンの時代に、コーランを編纂した。[Ibn al-Athir, Usd al-ghaba fi ma`rifat al-sahaba, ed. Muhammad Ibrahim al-Banna, Muhammad Ahmad `Ashur and Muhammad `Abd al-Wahhab Fayid, Bayrut: Dar Ihya' al-Turath al-`Arabi, 1970 (rpt.): 2: 278-279]

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