///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注93-100ページ///
[[前のページ(訳注87-92ページ)へ]]
 

〔txt. 93〕

第5章 任命・委任・名誉・宴会の賜衣

 軍司令官たち(ashab al-juyush)や派遣軍指揮官たち(wulat al-hurub)へ与えられる賜衣は、慣例として以下のごとく定まっている。それは、無地の黒いターバン、下部に裏打ちを施した襟付き無地の黒い衣〔ms. 128〕、襟なし無地の黒い衣、赤いスーサ製毛絹交織(khazz susi)の衣、金をあしらった絹織物(washy)の衣、絹交織か無地のルッハジュ織の衣1、ダビーク製の外套、銀の飾りがついた赤い鞘に入った剣である。この剣は、柄頭(qabi`a)が斧形になっていて、鞘に銀の留め輪が付いており、吊り下げベルトにも同様の輪が付いている2。さらに、アブー・アルアッバース風の靴と槍3が下賜される。
 乗り物はアラブ鞍を置き四角い鐙をつけた馬で〔txt. 94〕、必要に応じてその他の馬具(markab)を付ける。征服を成し遂げたり軍功を挙げた者には、首飾りと2つの腕輪、剣、ベルトが加えられる。これは、お膝下(al-hadra)のアミールたちへ決まって与えられるものとなった。アドゥド・アッダウラが到来しイラクを支配すると、以上のような賜衣が与えられ、2つの腕輪と首飾りは宝石で飾られた。そして宝石が編み込まれた髪の下げ尾で留められた王冠がその頭に置かれた。このような扱いは、ムータディドの治世にアフシーン4に、ムクタフィーの治世にはバドル・ムータディディー5に、ムクタディルの治世にはムーニス6に〔ms. 129〕、カーヒルの治世にはイブン・ヤルバク7に、ラーディーの治世にはバジュカム8に、そしてムスタクフィーの治世にはトゥーズーン9に対しておこなわれた──正しきカリフ達に神の恵みあれ──。
 アドゥド・アッダウラには、軍司令官に与えられることになっている白旗に加えて、かつては皇太子だけに限られていた金をあしらった旗が与えられた。2つの旗の一方が〔txt. 95〕東方領を、他方が西方領を表しているという説もある。彼は金の馬具を付けた馬に乗り、その前を同じような馬が先導した。アドゥド・アッダウラに加えて、タージ・アルミッラというラカブも与えられた。彼は2つのラカブを持った最初のアミールであった。その委任状(`ahd)は、衆人環視の中、ターイーの御前にて読み上げられた。以前は、カリフの御前で委任状が当該人物に手渡され、カリフがその人物に「これは私から汝への委任状である。これをおこなえ。」と言っていたのである。
 旗について言うと、それは白絹製で、一方の端にインクで「唯一アッラー以外に神なし。彼には並び立つ者はなく、似たものはない。全ての創造主であり、柔和で全てを知り給う方である。」と書かれていた〔ms. 130〕。真ん中の結びつける部分は白いままで、もう一方の端に「ムハンマドは神の使徒である。<神は、導きと真理の教えをもって使徒を遣わし、たとえ多神教徒たちが忌み嫌おうとも、凡ての宗教の上にそれを表される>[コーラン 9: 33 (日本ムスリム協会訳: 228)]。カーイム・ビ・アムル・アッラー・アミール・アルムーミニーン。」と記されていた。
 鉄製の旗竿には、一方には「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において。神の僕であるアブド・アッラー・アブー10・ジャーファル・イマーム・カーイム・ビ・アムル・アッラー・アミール・アルムーミニーンに神の助けあれ。<彼らのことは神にお任せしておけ。彼は全聴にして全知であられる>[コーラン 2: 137 (日本ムスリム協会訳: 25)]。」と記されている。もう一方には、<神は、彼に協力する者を助けられる。本当に神は、強大で偉力ならびなき方であられる。〔彼に協力する者とは〕もし我の取り計らいで地上に〔支配権を〕確立すると礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、〔人びとに〕正義を命じ、邪悪を禁ずる者である。本当に凡ての事の結末は、神に属する>[コーラン 22: 40-41 (日本ムスリム協会訳: 411)]と記されている。〔txt. 96〕
 ワズィールの賜衣は、上述の衣服と同様のもので貴金属の装飾(siyagha)が施されていないものである。乗り物は、金の装飾を施した馬具を付けたシフリー馬11である。
 宴会(munadama)で与えられる賜衣は、金をあしらった絹織物(washy)のターバン、薄手の衣(ghilala)、裏地の付いた衣、ダビーク製の前開きガウン(durra`a)であった。賜衣を与えられる人物とともに、贈り物12と香水が運ばれてきたものである。〔ms. 131〕

【2000.8.3:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]
 アリー・ブン・アブド・アルアジーズ・ブン・ハージブ・アンヌーマーン(`Ali b. `Abd al-`Aziz b. Hajib al-Nu`man)が私に伝えたことによると、ターイー──彼に神の祝福がありますように──がアドゥド・アッダウラに賜衣を与え、「タージ・アルミッラ」のラカブを与えたとき、3日目に以下の品を運んだ。

 金をあしらった絹織物の会議用(majalisiya)カランスワ帽〔txt.97〕。
 クーファ製の金銀宝石をずっしりとあしらった絹織物のガウン13
 ダビーク製の織布(mindil)に包まれた錦の薄手の衣(ghilala)。
 重さ800ミスカールの金製盆。
 重さ200ミスカールの金製盥。
 リンゴジュースが誰かがひとくち飲んだように満量に足りないだけ入った水晶のホルダーズィー瓶14。その口には封印を施された飾り房(sharraba)で縛られた絹の布きれがつけられていた。
 中程が鎖でつながれた水晶の水呑みと水差し。
 重さ500ミスカールの盆もう一枚。そこには金を編み銀を裏打ちしてつくったスミレ用花瓶(banafsajiyat)5個。これは金の編み細工と銀の裏打ちの間に香料(nadd)が詰まっている。そして香料の固まり(shammamat)5個が焚かれていた。
 3枚目の金製盆、重さ500ミスカール。そこには竹に収められた水晶製品5個。頭蓋杯15、コップ〔txt.98〕、2分の1杯、3分の1杯16〔ms.132〕、麝香置き(nafij)がおかれていた。
 金で織り上げた貴人向け(hamuli)の錦の椅子。それは皮のクッション(masawir)と揃いになっていて、ムティー──彼に神の祝福がありますように──の名が記されており、詰め物がしていなかった。
 泡汁17用の大杯(sabadha)18
 そこにはバラ水が満たされた水晶の水呑が20個はいっている。それらの上には、彩色された絹布とムータディド風の大きなチーク材製の半球蓋(tarima)が被せられていた。

 これらの品がアドゥド・アッダウラに届くと、彼は大喜びしつつも「私は椅子に詰め物をして市場の中を運ばれ、その光栄さとそれによっていかに私が敬意を表されているかを見せびらかす方がよかった」と言った。
 ターイーはムハンマド・ブン・バキーヤ19をカリフ宮廷に呼び出し食事に同席させたことがあった。ターイーは錦の腰巻き(izar)、ダビーク製前開きガウン(durra`a)、ダビーク製ズボンと絹の腰ひもを賜い、イブン・バキーヤが辞するときには香料入りの銀盆を持ち帰らせた。
 以前は、委任(wilayat)の際の賜衣には3段階があった。上は、その価値300ディーナール〔txt.99〕。中は100ディーナール。下は30ディーナール。今ではそれに加えられる貴金属細工によってこれ以上になっている〔ms.133〕。御上の贈り物を騾馬で運ぶ習慣はなく、鞍にかける飾り布(junagh)や後背や臀部を覆うもの(kunbush)を用いる習慣もなく、臀部をむき出しにした駄獣を用いていた。また賜衣を与えられたものの使用人(hawa^_si)にも賜衣を与えられる習慣もなかった〔txt.100〕。
 

第6章 任命ならびに、クンヤやラカブによって名誉を与えた際にカリフが贈られるもの

 以前はこのようなことはなく、宮廷の使用人に対して振る舞いがあったのみであった。状況が変わって物資が不足し財産が困窮すると、任命された者やラカブを与えられた者は〔カリフや宮廷を〕壮麗にし、さらに飾り立てるように、可能な限りの金や衣類や香料や器物を贈り財庫に貢献するしきたりとなった。また同時に書記や使用人にもこの様式に従ったものが与えられる。

【2000.9.3:清水和裕】[[このページの先頭へ]]
1 写本ではrukhkhajiのrが記されていないが、校訂者の解釈に従っておく[校訂93ページ、注4]。

2 以上、剣の各部分の翻訳に際しては、校訂93ページ注6, 7, 8を参照した。

3 該当箇所を wa khuff Abu al-`Abbasi wa zan-hu と読む[ms. 128, l. 4]。この部分は意味が取りにくく、英訳では"They are also given two quivers for arrows and a standard."と訳されているが、この解釈が導き出された理由は述べられていない[英訳75ページ、注3]。ここで言うアブー・アルアッバースとは、後にカリフ=ムータディドとなった人物のことか。ムータディドは自ら軍隊を指揮したことで知られるカリフである[H. Kennedy, ``al-Mu`tadid bi'llah.'' EI2, v. 7: 759-760]。

4 Afshin. 写本では「ムータディドの治世」となっているが、おそらく「ムータスィムの治世」の誤りであろう。最も有名なアフシーンは、ムータスィムの下で活躍した有力武将(226/841年没)である[校訂94ページ、注4; W. Barthold and H. A. R. Gibb, ``Afshin.'' EI2, v. 1: 241]。

5 Badr al-Mu`tadidi. ムータディドの下で軍隊の司令官を務め大きな力を持ったグラーム軍人。289/902年、ムクタフィーの即位後に失脚し暗殺された[清水和裕「グラームの諸相」『西南アジア研究』52 (2000): 52-54; Ch. Pellat, ``Badr al-Mu`tadidi.'' EI2, supplement: 117-118]。

6 Mu'nis. ムクタディルの治世を中心に10世紀初めに大きな勢力を誇った宦官軍人で、事実上の大アミールと言ってよいほどの存在であった。321/933年、カリフ=カーヒルによって謀殺された[H. Bowen, ``Mu'nis al-Muzaffar.'' EI2, v. 7: 575]。

7 `Ali b. Yalbaq. ムーニス麾下の軍人。321/933年、ムーニスとともに殺害された[Vizirat: 475-477]。

8 Bajkam. 旧ズィヤール朝の軍隊を率いて大アミール=イブン・ラーイクに帰順したが、326/938年にイブン・ラーイクを追い落として自ら大アミールとなった。329/941年没[柴山滋「ブワイフ朝以前の大アミールの軍隊構成について」『イスラム世界』49(1997): 22-25; M. Canard, ``Badjkam.'' EI2, v. 1: 866-867]。

9 Tuzun. バジュカム麾下の軍人として頭角を現し、331/943年に大アミールとなる。333/945年没[柴山滋、前掲論文: 23, 26-28]。

10 校訂ではIbnとなっているが、カリフ=カーイムの父の名はジャーファルではなく、彼自身のクンヤがアブー・ジャーファルである。アッバース朝のカリフには、アブド・アッラー・ブン・ジャーファルという名を持つ者はいない[NID: 6-7]。写本の該当箇所はIbnと読めるが、Abiとも読める[ms. 130, l. 5]。

11 shihri. 脚の速い貴重な馬[校訂96ページ、注3]

12 tahaya. 多くの場合、花や香りのよい植物の輪であった[校訂96ページ、注8]。

13 farajiya. 全ての衣類の上に着るか両肩にかける衣。長い袖と襟飾り(tawq)があり、ときに前面が上から下まで開いていてボタンが付いている[校訂96ページ、注10]。

14 khurdadhi. 首が細く胴が筒状に寸胴になった水晶製の瓶。もしくは酒や油を注ぐ、注ぎ口と取っ手のついたふくべ。ホルダーズィーヤ(khurdadhiya)ともいう[校訂97ページ、注3]。

15 qihf. 頭蓋骨型の小杯。飲酒に用いる[校訂97ページ、注7]。

16 2分の1杯(nisfiya)は2分の1ラトル、3分の1杯(thulthiya)は3分の1ラトルの容量の杯[校訂98ページ、注1、注2]。

17 fuqqa`. 飲み物。表面から泡が立つのでこの名がある[校訂98ページ、注6]。

18 校訂者は文脈から、この部分に脱落があることを想定している[校訂98ページ、注7]。

19 Muhammad b. Baqiya. ムイッズ・アッダウラの息子イッズ・アッダウラ・バフティヤールの宰相。367/978年没。
[[このページの先頭へ]]
[[次のページ(訳注100-105ページ)へ]]