///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注82-86ページ///
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 アドゥド・アッダウラが三連天蓋門の入り口(bab al-sidilla)に至ると、ターイーはハーリスの方を向いて「近くに寄らせよ」と言われた。アドゥド・アッダウラは段(`ataba)に上って三連天蓋の真ん中で2度地面に接吻をした。ターイーは言われた、「近くに参れ」。〔txt. 83〕そこでアドゥド・アッダウラは近くにより、身を奉じてターイーの手や足に接吻した。ターイーは彼に右手をおいた(thana)。彼の玉座の前には、右に並んで、王子達(al-'umara')の着座の礼式に則ったアルメニア布で覆われた四角い椅子があり、ターイーは「座りなさい」と言った。アドゥド・アッダウラはその素振りだけ見せて、座ろうとはしなかったので、ついにはターイーが「私はおまえがそこに座るよう誓ったぞ」と言った。そこでアドゥド・アッダウラは椅子に接吻をして座った。ターイーが言うには「我らは、なんとおまえとの会見を熱望し、おまえとの協約を切望していたことか」。するとアドゥド・アッダウラは「私の弁明はご主人様の前には明らかでございましょう」。〔ms. 114〕「おまえの意図は信ずるに足り、おまえの信条は頼るに足りよう」。アドゥド・アッダウラは黙礼した。ターイーは「私はおまえに、神──讃えあれ至高なれ──が私に任じられたマシュリクの地やマグリブの地の臣民の事ごとや、それらに関するあらゆる政事を我が腹心(khassati)と我が従僕(asbabi)と我が宮廷にまつわることを除いて、委ねることとした。神の恩寵を求めつつこれを行え」と言った。アドゥド・アッダウラは「我らが主人である信徒の長への服従と奉仕ゆえに、神が私にこの役目をお定めになりました」と言い「私は、ともに参上しているムタッハルとアブド・アルアズィーズ・ブン・ユースフ、それに主立った部将たちに、私へのご敬意の証である信徒の長の言葉をお聞かせ願いたく思います」と言った。彼らは段の下で1列になって、位階を持つ者たち(ashab al-maratib)の二つの列(simat)の間に立っており、そこで彼らが近づけられた。ターイーは「フサイン・ブン・ムーサー1、ムハンマド・ブン・ウマル2、イブン・マールーフ3、イブン・ウンム・シャイバーン4、ザイナビー5を連れて参れ」といい、彼らが御前に近づけられ、アドゥド・アッダウラの後ろを取り囲むようにさせられた。〔txt. 84〕ターイーはアドゥド・アッダウラへの委任と決定の言葉を繰り返し〔ms. 115〕、次にハーディムのタリーフの方をむいて言った「タリーフよ、彼に賜衣と冠を装わせよ」。アドゥド・アッダウラは立ち上がると、三連天蓋の隣の幕帳(riwaq)のなかに連れていかれた。アブド・アルアズィーズ・ブン・ユースフとハーズィンのフッラシード・ブン・ズィヤール・ブン・マーフィンナフ(Khurrashid b. Ziyar b. Mafinnah al-Khaazin)そして衣装係4人が同行し、賜衣が着せられ、冠が戴かれた。そして素晴らしく豪華な宝石を編み込まれた髪の下げ尾の片方が垂らされた。身につけた賜衣と宝石の重さでよろけながら戻ったアドゥド・アッダウラは、地に接吻をしようとしたができなかった。ターイーは「十分じゃ、十分じゃ」といい、椅子に座るように命じたので、座った。次にターイーはムーニス・ファドリー(Mu'nis al-Fadli)に彼の旗を持ってくるように言いつけた。それは既にムーニスの手にわたっていた。ムーニスは2本の旗を持ってきたが、その1本はマシュリク、もう片方はマグリブに対するものであった。ターイーは神──讃えあれ至高なれ──に加護を求め、〔ms.116〕彼の預言者への祝福を求め、2本の旗を結びあわせてからムーニスに戻した。次にターイーは「神の書を詠ましめよ」といい、アブド・アルアジーズ・ブン・ユースフが詠んだ。それが終わるとターイーはアドゥド・アッダウラに「神が私たちとおまえとムスリム達をお守りになりますように。我は神がおまえに命じたこと命じ、禁じたことを禁じる。我はそれ以外の罪からは神に対して自由である。神の御名の下に立ち上がり、我に近く寄れ」と言った。アドゥド・アッダウラはターイーに近づき、垂れ下がった髪の下げ尾を手に取った。ターイーはそれを、そのために冠にしつらえられた部分に結びつけた。これはアドゥド・アッダウラの求めに応じて行われたのであった。次にターイーは隣の二つのクッションの間にあった、黒鞘銀飾の剣を手にした。そして、賜衣とともに佩せた剣に加え、この剣を与えた。

【2000.5.21:清水和裕】[[このページの先頭へ]]

 アドゥド・アッダウラは退出しようとして、ターイーにこう取り次がせた。「自分の今来た道を戻るのは不吉ですので、この扉を開けるよう指示していただきたい」。そして、彼は三連天蓋から庭園に開く扉(al-bab al-dawari)の方に合図した。〔ms. 117〕その庭園にはチグリス川の方に開く門があった。そこでターイーはそれを許可した。
 イブン・ハージブ・ヌーマーンは〔話を続けて〕言った。
 まもなく、〔txt. 85〕300人の人夫たちが集められているのが見え、彼(アドゥド・アッダウラ)の通る踏み板6が馬のために整えられた。ターイーはそれを見ていたのだが、彼のみが騎行し、全軍が川原(raqqa)のいばらと藪の間を行進していき、カリフ門(bab al-khassa)から出ていった。それから、将校たちや兵士たちがそこから騎乗し、町の中に入っていった。
 
 また、下馬と騎乗に関する宮殿や門の格については、それに基づいた境界があり、門番がそれをよく知っていて、人々をそこで止まらせたり通したりしている。副ハージブ(khulafa' al-hujjab)や門番たちは、兵士たちが武器を帯びたまま宮殿に入らないようにさせなければならない。その規則で許されている宮殿の召使いやグラーム、それが許された者や望まれた者以外は。また、大ハージブと軍司令官以外は誰もカリフの宮殿では椅子に座ってはいけない。

 〔txt. 86〕また、行列でカリフと同行するのには、〔ms. 118〕規則がある。
 私の祖父のイブラーヒーム・ブン・ヒラールはこれについて次のように語った。

 私は祖父のスィナーン・ブン・サービトがこう言うのを聞いた。
 私の父のサービトは、カリフに仕えるための規則を最もよく知っている人物の一人であった。私は、彼がムータディド──神が彼に祝福を与えますように──と旅行したときに見たのだが、彼が父を同行するように呼び、話をするよう命じたとき、父は少し先行するように同行していたのである。はじめ私は、父が不注意でそうしているのだと思っていたが、それが度重なったので、私は父がそれを意図して行っているのだとわかった。そこで私は父にその訳を尋ねた。すると父はこう言った。「息子よ、カリフが行列で同行させる者の守らねばならない規則とは、彼の乗る動物が、同行したときに現れるような欠陥のない選ばれたものでなければならないということだ。よだれが多かったり、頭が落ち着かなかったり、いななき暴れ続けたり、強情で頑固であったりするものは、〔ms. 119〕そのようなものに乗ってカリフと同行するのには適さない。そのため、主人(ru'asa')と同行する供の者は、性質のおとなしい雌ラバを選ぶのだ。そして、カリフや高位の者と同行するときの規則では、供の者は風下を進まねばならない。カリフや主人に風上にいてもらい、蹄が起こす砂埃や、糞の臭いで不快にさせないようにするためだ。また、カリフや主人が太陽を背にするように太陽に面した側にいなければならない。カリフと同行するときには、おまえが私がするのを見たように少し先行する(yakhruju `alay-hi)ようにしなければならない。カリフに自分の方を向かせるようなことはせず、自分が彼に向き合うようにするために。そして、話が終わって離れようとするときには、先行して行列の前の方にいくようにする。カリフが自分を必要としたときには前の方から呼びよせられるように。カリフが自分を待つために止まるようなことをさせてはならないのだ。

【2000.6.4:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

1 Husayn b. Musa. イラク歴史学会の重鎮ムスタファー・ジャッワードによれば、このフサイン・ブン・ムーサーは、シャリーフ・ラーディーとシャリーフ・ムルタダーの父Abu Ahmad al-`Alawi al-Musawiである。イブン・アルアスィールの『完史』によれば、ムティーはAH.354年に彼をターリブ家のナキーブおよび巡礼指揮官に任命した。AH.400年もしくは403年にバグダードで死去した[校訂83ページ、注1]。

2 Muhammad b. `Umar. 彼は前出Muhammad b. `Umar al-`Alawi al-Sharifである[校訂83ページ、注2]。

3 Ibn Ma`ruf. 彼は大カーディーAbu al-Husayn Muhammad b. qadi al-quda Abi Muhammad `Ubayd Allah b. Ahmad b. Ma`rufである[校訂83ページ、注3]。

4 Ibn Umm Shayban. 彼はMuhammad b. Salih b. `Ai b. Yahya b. `Abd Allah al-Hashimiであり、バグダードのカーディーであった。AH.369年死去[校訂83ページ、注4]。

5 al-Zaynabi. 彼はAbu Tammam al-Husayn (al-Hasan) b. `Abd al-Wahhab b. Sulayman b. Muhammad al-Shar_fである。大カーディーであり、バグダードでナキーブ職を担った。AH.372年死去[校訂83ページ、注5]。

6 写本ではmisqafと読めるが、校訂者はmisqalとした上で次のように説明している。まず、この語は元々siqafと綴って「板」を意味していたのかも知れない。しかしal-Muntazamの該当箇所[7: 100]では、misqalとなっている。これはisqala、今日のイラクで言うaskala、つまり梯子のことであろう[校訂85ページ、注1]。

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