///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注77-82ページ///
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 祖父は私に語った。
 ある日、アブー・アルハイサム(Abu al-Haytham)というクンヤをもつ者がアドゥド・アッダウラの宮廷に出仕した。彼はターバンを脱いで自分の前に置いた。一人の密偵が彼を見て、彼がしたことを書きとめた。執事(ustadh dar)1が出てきて、彼を縛って罵り、そのターバンを取って、それが切れ切れになるまでそれで彼の頭を打った。そして彼に監視を付け、拘束した。彼について以下のようにアドゥド・アッダウラに伺いが立てられた。
「この者は頭の熱い人間で、頭にターバンを着けておくことができないのです。だからこのようなことをしたのであり、つとめの作法を知らなかったからではありません。」
 若干の審議の後、〔アドゥド・アッダウラは〕彼を釈放するよう命じた。

 侍従は、君主(al-sultan)が嫌っている者に近づいたり、君主の不興を買っている者に好意を持ったり、そのような者に以前通りの好意や敬意を寄せるべきではない。侍従ナスル・クシューリーが〔ms. 107〕、以前ワズィールに任じられていたハーミド・ブン・アルアッバース2に以下のような仕打ちをしたのはそのためである3。〔txt. 78〕
 ハーミドは、3度目のワズィール位に就いていたアリー・ブン・ムハンマド・ブン・アルフラートを恐れ、密かにワースィトからバグダードに向かい、修道士(ruhban)に変装して君主の館(Dar al-Sultan)に入った。そしてナスル・クシューリーに面会を求めた。彼がナスルの許に導かれ、ナスルが彼を見ても、彼の方に立って来ず、これまで彼に対してしてきたような振舞いをしなかった。それどころかこう言った。
「あなたは自分がどこに来たと思っているのですか。」
「私はあなたの書面によって来たのだ。」
「この場所に来るようあなたに書き送ったのは〔確かに〕私です。」
 そしてナスルは、以下のように言ってハーミドに対する自分の無礼を詫びた。
「カリフがあなたを嫌っていることを知った以上、私はこれ以上のことをすることはできないのです。」

 パレードの日(yawm al-mawkib)、大侍従(hajib al-hujjab)は一般の者が着る(muwallad)黒いローブ(qaba')、黒いターバン、剣、ベルトという正装で参加する。大侍従の前には、侍従たちと副(khulafa')侍従たちが並ぶ。〔ms. 108〕彼は帳の向こう側の部屋(dihliz)に座す。ワズィール、軍司令官(amir al-jaysh)ら、パレードに参加する慣例の者たちが参加する。人々(al-nas)が揃うと、彼はカリフにそのことを知らせる。カリフが一般の参加を許可する場合、ハレム付きの伝令ハーディム(al-khadim al-harami al-rasa'ili)が出てきて大侍従を呼ぶ。大侍従は1人で入り、中庭(sahn)で止まって地面に接吻する。そして彼は、人々をしかるべき場所につかせるよう命じられる。そして退出し、その時皇太子がいればその皇太子を呼び、カリフに子供がいればその子供たちを呼ぶ。それからワズィールが〔txt. 79〕侍従たちに先導されて入り、玉座に近づく。近づくと、侍従たちは下がり、ワズィールは地面に接吻してからカリフに近づく。カリフが自らの手を彼へと伸ばす栄誉を与えると、彼はその手を取って接吻し、下がって玉座の右側5ズィラー離れた所に控える。ワズィールの次は軍司令官が入り、地面に〔ms. 109〕接吻して玉座の左側に控える。次は諸官庁の長たち(ashab al-dawawin)と書記たちである。そして武官たち(quwwad)がしかるべき順番で副侍従たちに先導されてきて呼ばれる。彼らは儀礼に従って左右に控える。そしてハーシム家の人々、ダンニーヤ帽(danniyat)4をかぶる者、礼拝をつかさどる〔者〕に声がかけられる。彼らは絨毯の端に進み、1人ずつ立ち止まって礼をする。それからカーディーたちが呼ばれる。その先頭は大カーディーあるいは御前のカーディー5である。それから一般の許しが出て、兵士たちが入り、平安の間(sahn al-salam)に引かれた2本のロープの間に2列に並ぶ。ロープを2本引くのは、混雑、窮屈、混乱、殺到を防ぎ、カリフが離れた所からロープの間に入った者を見てそれが誰であるか分かるようにするためであり、またその方がより威厳があるからである。

【2000.4.8:矢島洋一】[[このページの先頭へ]]

 〔txt. 80〕
 〔パレードに並ぶ〕人々(al-nas)は、静粛を保ち、声や物音をさせてはならないことになっている6

 アリー・ブン・アブド・アルアズィーズ・ブン・ハージブ・アンヌーマーンが次のように私に語った。〔ms. 110〕

 アドゥド・アッダウラは、ターイーが彼にヒルアとタージュ・アルミッラ(Taj al-Milla)というラカブを与え、統治権を彼に委任することを確定する際に使節を送って次のように言った。それは367/977-78年のことである。
「以下のことを私は求める。私がより多く敬意を表される立場にあることが判るような特別の扱いとなるように、私の平安宮7参内は騎乗にておこなう。また、私がカリフの前に進み出るまで誰も彼を見ないように、カリフの面前に帳を設ける。」
 アドゥド・アッダウラは、こうすることによって、自分が地面に接吻するところを人々に見られないことを意図したのである。カリフはアドゥド・アッダウラが求めたこと約束した。彼が入ってくる入口の〔カリフから見て〕手前にレンガと土で区切りが造られ、騎乗して入ってきてもそこは越えられないようにされた。
 〔謁見は〕以下のような手順でおこなわれた。ターイー──彼に神の恵みあれ──が平安宮の三連天蓋(al-sidilla)の奥にある玉座の上の、黒絹に金の刺繍が施された椅子に座った。その周りには、カリフのハーディム達(khadam-hu al-khawass)のうちおよそ100名が素晴らしい衣装、色とりどりのローブ、ベルト、装飾鞘に入った剣を身に着け、手には棍棒(dababis)と斧(tabarzinat)を持って控えた。玉座の両側には〔ms. 111〕ムティーに仕えていたスラブ人ハーディムの長老達が並び、その中には、ハーリス(Khalis)、タリーフ、バドル(Badr)、アヒーフ(Ahif)、サーブール(Sabur)〔txt. 81〕、リヤード(Riyad)、マワーヒブ(Mawahib)、サラフ(Salaf)や彼らより地位の低い者達が含まれていた。彼らは手に蠅叩きを持つ。
 ターイーの前にはウスマーン──彼に神の恵みあれ──のコーラン(mushaf `Uthman)が置かれ、肩には〔預言者の〕マント(al-burda)が掛けられる。彼は手に〔預言者の〕杖(al-qadib)を持ち、神の使徒──神よ彼に祝福を与え給え──の剣を帯び、黒い衣装を身に纏って頭にルサーファ風ターバン(rusafiya)を被る。
 中央部の柱には錦織の帳が掛けられた。これは、アドゥド・アッダウラが、自分よりも前に兵士が誰一人としてターイーを見ないよう彼を遮るために設けさせたものである。平安の間(sahn al-salam)には専用の柱にロープが張られた。ダイラム人とトルコ人が、誰一人として鉄など〔でできた武器〕を身に着けないで先に入った。ダイラム人は左側に、トルコ人は右側に、シャリーフやカーディー、位階を持つ者達(ashab al-maratib)はその位階に応じて広間の中の両側の柱の下に立った。カリフのハージブ達、すなわちムーニス・ファドリー、ワスィーフ〔ms. 112〕、アフマド・ブン・ナスル・アッバースィー(Ahmad b. Nasr al-`Abbasi)、および副ハージブ28名は全員、一般の者が着る黒いローブを纏い〔txt. 82〕、剣と吊り下げ式のベルト(al-manatiq al-mushammara)を身に着け、アドゥド・アッダウラのハージブ達とともに両側のロープの前に立った。
 しかる後に、ターイーは〔拝謁〕許可をアドゥド・アッダウラへ与えるように求められ、許可を与えた。彼が広間(sahn)に入ってきたことに気づくと、帳を上げるよう命じた。帳が上げられ、彼の視線がアドゥド・アッダウラに注がれた。すると彼を出迎えて先導してきたムーニスとワスィーフが彼に向かって
「信徒の長があなたを御覧になりました。地面に接吻なさい。」
と言った。アドゥド・アッダウラは接吻し、2人のハージブは彼の腕を持った。この行為を何度か繰り返し、アドゥド・アッダウラはカリフの近くに至った。彼の両側にはムタッハル・ブン・アブド・アッラー8、アブド・アルアズィーズ・ブン・ユースフ9がつき、後にはジブリール・ブン・ムハンマド(Jibril b. Muhammad)、ムーサー(Musa)、ダランター(?)・シーリー10 、ハサン・ブン・イブラーヒーム(al-Hasan b. Ibrahim)、アスファール・ブン・クルダワイフ11、ズィヤール・ブン・シャフラーカワイフ、ムハンマド・ブン・アルアッバース(Muhammad b. al-`Abbas)、ワキード・ブン・スライマーン(Wakid b. Sulayman)が続いた。
 次のように伝えられている。

 ズィヤール・ブン・シャフラーカワイフは、アドゥド・アッダウラが地面に接吻することを大変なことだと考え(akbara)12
「この方が神なのか。」
と言った。アドゥド・アッダウラはそれを耳にすると〔ms. 113〕、アブド・アルアズィーズ・ブン・ユースフに
「この人物は地上における神の代理であるということをあいつに教えておけ。」
と言った。

 アドゥド・アッダウラは隊列の間を通って三連天蓋の入口に至った。両側のロープの後にいる者達は一人として身じろぎもしなかった。ハーディムのムルジャーン(Murjan al-khadim)が、ジュラーヒク弓13を持って広間に立っていた。カラスが飛んだり鳴いた場合に射って追い払うためである。

【2000.4.23:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]

1 校訂者は dar をペルシア語「〜を持つ者」とするが[校訂77ページ、注1]、ペルシア語訳者はいくつかのペルシア語史料に見える ustad-i saray を根拠にその説を否定し、 dar をペルシア語名詞 saray(家、宮殿)に対応するアラビア語と考える[ペルシア語訳154ページ、注27]。

2 Abu Muhammad Hamid b. al-`Abbas. 306/918年にイブン・アルフラートの後任としてワズィールに就任したが、311/923年に前者にとってかわられた。同年没[``Hamid b. al-`Abbas...'' EI2, 3: 133]。

3 Tajarib al-umam, 1: 96-98; Tuhfat al-umara': 43-44参照

4 カーディーがかぶる帽子の一種。甕(dann)の形に由来する[校訂79ページ、注1]。

5 man yali qada' al-qudat aw qada' al-hadra. 校訂者は al-hadra をバグダードの意とするが、英訳者はハレムの意である可能性をも示す[校訂79ページ、注3; 英訳64ページ、注3]。

6 `Awwadはこの文を章題として校訂しているが、写本では改行もされておらず前後の文に続けて書かれている。前後の内容も一続きなので、この文は章題ではないと判断した。Salemも章題ではないとしている[英訳64ページ、注5]。

7 dar al-salam. `AwwadもSalemもこの語が指し示すものはsahn al-salamと同じであると考えている[校訂80ページ、注2,3;英訳65ページ]。しかし本訳では、前者は後者を含む建築物であると解釈して訳し分けることにする。

8 al-Mutahhar b. `Abd Allah. アドゥド・アッダウラのワズィール。369/979年に戦死[Heribert Busse, Chalif und Grosskonig, Beirut: Orient-Institut der Deutschen Morgenlandischen Gesellschaft, 1969: 239]。

9 Abu al-Qasim `Abd al-`Aziz b. Yusuf al-Hakkar. アドゥド・アッダウラにkatib al-insha'として仕え、後にその息子バハー・アッダウラのワズィールとなる。388/998年没[Muntazam 7: 203; `` `Abd al-`Aziz b. Yusuf.'', EI2 supplement; Busse 1969: 240]。

10 この人名の前半は写本では点が欠けており正確な読みは不明である。とりあえず校訂と英訳に従ってDaranta Shiri と読んでおく[校訂82ページ、注4; 英訳66ページ]。

11 Asfar b. Kurdawayh.アドゥド・アッダウラに軍司令官(ispahsalar)として仕えたダイラム軍人[Busse 1969: 65, 330]。

12 Salemはこの語をankaraと読んでdisapprovedと訳している[英訳66ページ、注1]。しかし写本の該当個所は校訂通りakbaraと読む方が妥当である。

13 qaws julahiq.ジュラーヒクとは土などで作られた弾丸のことである[校訂82ページ、注6]。

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