///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注71-77ページ///
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〔txt. 71〕

第3章 ハージブ(侍従)職の規則と儀礼



 ハージブは、中年で成熟した、物事に慣れ経験を積んでいる者か、人生に揉まれ鍛えられた、心の落ち着いた年配者でなければならない。ハージブには、何を行い何を行わないか正しく判断できる、知性と思慮深さが必要である。また、容姿端麗で、入れたり出したりするものについての方針を持つ。使用人たち(hawashi)のおのおのに、その能力を超えて仕事をさせすぎないように、また、できないことをさせないように、彼らをうまく配置しなければならない。そして、彼らが行動を慎重にし、仕事を注意深くし、手抜かりなく勤めを続け、馴れ馴れしくすることなく礼儀正しさを維持するよう導きながら彼らを監督しなければならない。
 〔ms. 99〕私の祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラールが、私に次のように語った。

 ジャーファル・ブン・ワルカー・シャイバーニー1が私に次のように語った。
 ムータディド――神が彼に慈悲を与えられますように――時代に、私は、〔txt. 72〕同僚の、アミールや将軍の子弟たちとともに、当番制での勤務で宮廷に滞在するように決められていた。そして、私たちはよく、ある部屋に集まって、勤務が終わり行列が去った後で休憩し、靴を脱ぎターバンを頭から取って、チェスやすごろくで遊んでいたものであった。すると、宮廷内の密偵(ashab al-akhbar)の1人がそれを見て、私たちの知らないうちにムータディドにそのことを書き送った。すぐに、カリフのハーディムたち(khawass al-khadam)のうちの1人の若いハーディムがやってきたが、その手には私たちのことを報告した書類(fasl)があり、それの裏側にはムータディド――神が彼に慈悲を与えられますように――の筆跡による裁定(tawqi`)が書かれていた。それにはこうあった。
「彼らは鞭打つべきであり、彼らには赦しはない。」2
 そして、ハーディムはそれをハージブのハフィーフ・サマルカンディー3に渡したのだが、神のおかげで私はそのとき自分の当番の日ではなかった。彼はその書類〔ms. 100〕と裁定を知ると、いらだち、立ち上がって当番に当たっていた者たちを呼びにやった。そして、彼らのおのおのを、何度も鞭打ったのである。それで、これ以後皆、勤務を十分に行い、不作法を避けるようになった。

 また、イブン・ディフカーナ・ナディーム(Ibn Dihqana al-Nadim)は、次のように語った。

 ムータスィム──神が彼に慈悲を与えられますように──は、薬を飲んだ。飲み終えると、金の盆の上にのった水晶のコップ(ritl)4に入った、水代わりのジュッラーブ(jullab)を持ってこさせた。〔txt.73〕彼の前にそれが置かれた。そこに、イスハーク・ブン・イブラーヒーム・ムスアビーが入ってき、ワスィーフがやってきた。彼は、法官たちの参加が必要とされる問題のために、彼らの入室の許しを求めた。ムータスィムは彼らの入室を許した。するとイスハークは
「彼らに〔まだ〕許してはいけません。」
と言い、ハーディムのマーリド(Marid)に
「カリフの御前からこの飲み物を下げよ。」
と言った。彼はそれを下げた。そして、イーターフ5
「さあ彼らに許しを与えよ。」
と言った。その人々は入室し、その後退室した。イスハークはイーターフに
「カリフの飲み物を戻せ。」
と言ったので、彼はそれを戻した。
 ムウタスィムはその行為を不快に思った。〔ms. 101〕そこで彼に言った。
「どうして私の意に反することをするのか。それは単なる水代わりのジュッラーブではないか。」
すると彼は言った。
「私はあなたの意に反したわけではありません、カリフよ。そうではなく、あなたは刑罰を決定し、咎められるべき行いを正すイマームなのです。こういった法官たちの証言で首が打たれ、彼らの助言によって物事が決められます。もし、彼らがあなたの前にある飲み物を見たら、誰もあえてそれについて尋ねたり確かめたりはしないでしょうが、ある者は『ジュッラーブだ』と言い、またある者は『ワインだ』と言うことでしょう。すると、敵対する者は疑惑を支持し、味方する者はそれを退けるでしょう。また、このようにも言われています。『疑いを招くものを退け、招かないものを採れ』と。」
 するとムータスィムは言った。
「おまえは正しいことをしたのだ、アブー・アルハサンよ。よくやった。」

【2000.3.4:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

 ムハンマド・ブン・ウマル・ブン・ヤフヤー・アラウィー(Muhammad b. `Umar b. Yahya al-`Alawi)6、シャラフ・アッダウラ(Sharaf al-Dawla)7の時代、ムティー──彼に神のお恵みがあらんことを──の宮廷に参内していた。ハーディムのニフリール(Nihrir al-khadim)8、当時のワズィール=ムハンマド・ブン・アルハサン・ブン・サーリハーン(Muhammad b. al-Hasan b. Salihan)9文書庁長官(sahib diwan al-rasa'il)イブン・アルハイヤート(Ibn al-Khayyat)〔txt. 74〕、情報・駅逓庁長官(sahib diwan al-khabar wa-al-barid)ハサン・ブン・ムハンマド・ブン・ナスル(al-Hasan b. Muhammad b. Nasr)が一緒におり、彼らは皆〔ms. 102〕黒い衣装をつけていたが、ただムハンマド・ブン・ウマルのみが別で、彼は白い衣装をつけていた。すると、ハージブのムーニス・ファドリー(Mu'nis al-Fadli al-hajib)が彼らのいるところに入ってきて、ムハンマド・ブン・ウマルに、
「シャリーフ様、この御衣装は宮廷の御衣装ではありませんし、あなたの参内〔の仕様〕は参内するつもりの方〔の仕様〕ではありません。」
と言った。するとムハンマド・ブン・ウマルは彼に言った。
「あなたは白を嫌っているようだが。」
「そうです。」
「これは私の衣装であり、我が父祖の衣装なのだ。」
「これはそういう問題ではないでしょう。あなたの御先祖方の誰一人として、黒以外の衣装をつけてこの宮廷にお入りになったのは存じません。あなたの父上、ウマル・ブン・ヤフヤー様10は、〔txt. 75〕ムティー様11──彼に神のお恵みがあらんことを──の御代に、巡礼や彼に同行する者のことを決めるのに私どもと一緒におりましたが、真っ黒の衣装をつけておいででした。
「真っ黒とはどういう意味か。」
「黒く染めたものです。私はよく覚えておりますが、その方は汗をかいていらっしゃいました。黒い色が額を流れ、手に持ったタオルで拭っておいででした。」
ムハンマド・ブン・ウマルは彼に言った。
「何が言いたいのだ、ハージブ。」
「このような服装12はお改めになり、〔ms. 103〕慣行通りにお振る舞いになることです。」
「さもなければ退出しろと!」
「お選びになるのはあなた様です。」
ムハンマド・ブン・ウマルは立ち上がると、自分のザブザブ船に乗り、屋敷へと退出してしまった。皆起こったことに静まりかえってしまい、私は驚いた。
 アリー・ブン・アブド・アルアズィーズ・ブン・ハージブ・アンヌーマーンが私にこう話してくれた。

 赤いサンダルや靴、赤いラーラカ靴13でカリフ宮に入ることも非難されることにはいる。何故なら、赤いものはカリフの身につけるものであり、その上、従うことに背く者の身につけるものだからである。
 カーディー=イブン・アビー・アッシャワーリブ(Ibn Abi al-Shawarib)は素晴らしいカーディーの一人で、血筋はウマイヤ家に遡る者の一人であるが、彼がムティー──彼に神のお恵みがあらんことを──の宮廷に、赤い靴を履いて参内したことがあった。クンヤをアブー・アルハサンというハージブ=イブン・アビー・アムル・シャラービー(Abu al-Hasan Ibn Abi `Amr al-Sharabi al-hajib)14と彼の間には敵意があったのだが、アブー・アルハサンは彼を見ると、彼に言った。
「カーディー様、反抗と反目の意をもってあなたの父祖のカリフ様のところに来られたのですか。グラームよ、〔ms. 104〕彼の靴を脱がせ、それを頭にのせよ。」〔txt. 76〕
 アブー・アルハサンは度の過ぎた非難されるべき言行で彼を扱った。ムティーはそれを知っても、非難はしなかった。イブン・アビー・アッシャワーリブは自分の屋敷へと下がり、そこで身を隠し、恥ずかしさと悲しみでそこからでることはなかった。彼が亡くなった15のは、この話にある出来事の後のことである。

 祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラール曰く、クンヤをアブー・アリーという、ハサン・ブン・ムハンマド・アンバーリー(Abu `Ali al-Hasan b. Muhammad al-Anbari)が話してくれたところは次の通りである。

 私(アンバーリー)は、書記のディルワイフ(Dilwayh al-katib)16のもとで書記をしていました(kuntu akhuttu)。彼は、カーヒルの治世にムータミンというラカブをもらったヌジュフ17の兄弟、サラーマ18の書記を務めており、サラーマは当時カーヒルのハージブでした。私はカリフ宮からチグリス川に続くカリフ門(bab al-khassa)の部屋(dihliz)に座り、主人の求めに応じて使えていたのでした。私はそこの椅子にもたれて座っていたのです。その時私が足を組んでいると、〔ms. 105〕私の前には、私をとても好いていてくれる副ハージブ(khulafa' al-hujjab)の一人で私の友人がいたのですが、彼が私のところにとんできて、手にした鞭で私の足をひどく打ったので、私はぎくりとしました。すると彼はこう言うのです。
「アブー・アリー、今だから大目に見てあげられるのですよ。実際、もし話を密告するおそれのある者がここにいたら、あなたを大目にみることは私にはできません。」
そこで私は、
「何で私が非難されると? 何で私を大目にみると?」
と言いました。すると彼はこう言ったのです。
「カリフ宮であなたがしていたようなこんな座り方をして足を組んでいるのをみたら、誰であれ、その場所から足を引っ張っていき、その者を宮殿の聖域から追い出すように私たちは命じられているのです。」〔txt. 77〕
 〔そのように言って、〕彼は、そのような場所で私がそういったことを繰り返しすることや、頭を露わにしたり、不作法に振る舞ったり、冗談を言ったり、下品なことをすることを禁じたのです。私は、彼が私にしてくれたこと、導いてくれたことに感謝しました〔ms. 106〕。

【2000.3.26:近藤真美】[[このページの先頭へ]]

1 Ja`far b. Warqa' al-Shaybani. 影響力のある家柄の出身で、ムクタディルに仕えた。多くの職に就いた。詩人で書記。352/963-64年没[校訂71ページ、注7]。

2 ここの部分は意味がはっきりしないため、英訳を参照した[59ページ]。

3 Khafif al-Samarqandi. ムータディドとムクタフィー時代の有名なハージブ[校訂72ページ、注4]。

4 1ラトルのワインが入る容器[校訂72ページ、注6]。

5 Itakh. ムータスィム、ワースィク、ムタワッキルに仕える。235/849-50年没[校訂73ページ、注2]。

6 al-Sharif Abu al-Hasan al-`Alawi al-Kufi. 390/999年、バグダードで死去[校訂73ページ、注3]。

7 Abu al-Fawaris Shirawayh b. `Adud al-Dawla al-Buwayhi. ブワイフ朝大アミールとして、987年から989年までバグダードを支配した。989年没[校訂73ページ、注4]。

8 379/989-90年殺害[校訂73ページ、注5]。

9 シャラフ・アッダウラ、バハー・アッダウラのワズィール。416/1025-26年バグダードで死去[校訂73ページ、注6]。

10 al-Sharif Abu `Ali `Umar b. Yahya al-`Alawi. カーバの黒石をメッカに戻すことによって、カリフ=ムティーとカルマト派の仲介をしたことで有名[校訂74ページ、注4]。

11 この逸話の冒頭部分(txt. 73, l. 14)で、ムハンマド・ブン・ウマルはムティーの宮廷に参内していたとあることから、彼の父親ウマルが参内していたのは、ムティーではなくターイーの宮廷であろう[校訂75ページ、注1]。

12 校訂テキストには lubsa(「もつれ」)とあるが、libsa(「服装」)と同様の意味で用いられていると考えられる。

13 lalaka. ペルシア語に由来する。Additions aux dictionairs arabes, ed. E. Fagnan によれば、鋲のついた短靴。

14 名前はムハンマド。彼については、Muhammad b. `Abd al-Malik al-Hamadhani, Takmilat Tarikh al-Tabari, ed. A. Y. Kan`an, Bayrut: al-Matba`a al-Kathulikiya, 1961: 213 に記述が見える[校訂75ページ、注5]。

15 347/958-59年[校訂76ページ、注1]。

16 Abu Muhammad Dilwayh. ムクタディル、カーヒルの時代のハージブ=ナスル・カシューリー(Nasr al-Qashuri)の書記だった[校訂76ページ、注3]。

17 al-Mu'tamin Nujh al-Tuluni. ムクタディル時代のイスファハーンのアミール。後、クーファ、バスラのアミールにも任じられた[校訂76ページ、注5]。

18 Salama al-Tuluni al-Hajib. カーヒル、ラーディー、ムッタキーらのハージブを、332/943-44年まで務めた[校訂76ページ、注4]。

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