///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注67-70ページ///
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 この慣行はムクタディル──彼に神の祝福がありますように──の治世に変更されるまで続いた。というのは、ムクタディルはアリー・ブン・イーサーに、ファールス地方住民から補完税(takmila)1を免除する旨ムクタディルの名で告知する文書を御前で書くように命じた。〔txt. 68〕そこでアリーは前述の小型のインク壺を靴から取り出し、左手にそれを提げ、右手で巻紙を持った。〔ms. 95〕アリーがやりづらそうにしているのをみたムクタディルは、自分のインク壺を出させ、一人のハーディムがアリーが書き終わるまで側に立ちインク壺を持っているように命じた。アリーはこの栄誉を与えられた最初の宰相であり、その後、彼以降の宰相の慣例となった。
 
 宮廷では水を所望することは礼儀ではなく、水を飲ませることも慣例にない。これは人々全体に当てはまることである。特権階級の人々については栄誉を与える手段のひとつとして大目にみられることもあるだろう。しかし、そのようなことがないに越したことはない。
 我が祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラールが伝えるところによると、
 ある機会にムハッラビー2がムティー──神よ彼に慈悲を与え賜え──の宮廷に参上したところ、彼は拝謁を許され、その知らせが届くまで水を所望しなかった。ところが水が届くのが遅れ、彼は御前に上がり退出し、自分の船(tayyar)のところに降りていってしまった3。一人のハーディムが、見目麗しく身なりの整ったトルコ人グラームをつれて彼に追いついた4。グラームの手には金の盆があり、そこに水晶の杯がのせられ、錦の布巾が掛けられていた〔ms. 96〕。またもう一方の手には水飲み用の布巾があった。そこでムハッラビーはそれを飲み、飲み終えると杯をグラームに渡した。するとハーディムはグラームに〔txt. 69〕「宰相とともに行きなさい。」といった。ムハッラビーが「どうしてだね。」と聞くと、答えるには「閣下、この類のものがいったん宮廷から外に出たら、帰ってくることはない決まりなのです。私がしたことは慣例として決められていることで、私がそれに違うわけにはまいりません。そのグラームはもうあなたのものですし、彼の持っているものもそうです。」そこでムハッラビーはそのすべてとともに船に乗り込んだ。
 この振る舞いほど、この高貴なる家系の父祖の諸々の振る舞いにふさわしいものはない。アブー・ウバイダ(Abu `Ubayda)の名で知られるマーマル・ブン・アルムサンナー(Ma`mar b. al-Muthanna)がいうには、
 ジャーヒリーヤの時代にディラール・ブン・アルアズワル5が巡礼をしたとき、彼はある商人のところでひとつの商品を目にした。彼はたいそうそれを気に入って値段の交渉をし、駱駝30頭でそれを買った。商人は彼に「保証人を立ててくれ」といったので、彼は聖域である礼拝所に入り〔ms. 97〕アッバース・ブン・アブド・アルムッタリブ6──彼に神の祝福がありますように──が人の輪の中にいるのをみた。彼は眉目秀麗であった。ディラールが「あの人は誰ですか。」ときくと、人々は「『讃えある白毛7』の息子アッバース・ブン・アブド・アルムッタリブです。」と答えた。そこで彼はアッバースに近づき「『讃えある白毛』の息子よ。私はディラール・ブン・アルアズワルです。」といい、彼に商人との件を語った。するとアッバースは「彼を私のところに連れてきなさい。」といったので、ディラールは商人をアッバースの元に連れてきた。そこでアッバースは商人に、年齢に相当した駱駝を保証とした。こうしてディラールは商品を手に入れその地を離れた。そして駱駝をつれて戻ってみると、商人はすでにアッバースから駱駝を手に入れていた。そこでディラールはアッバースのもとへ行き、駱駝をつれてきたことを知らせて、アッバースが支払ったものの代償としてそれを受け取らせようとした。するとアッバースは「我々は〔名誉ある〕家の者(ahl bayt)である。我々は一度財産から何かを出したらそれを戻すことなどないのだ。あなたの駱駝はお好きにすればいい。」そこでディラールは駱駝をつれて帰った。
 曰く8

  選良の刻みを耳に付けた純白の駱駝が囲いに帰る /
             眼窩は細く、白色に金をまじえ
  栄光ある先祖を持つ者、気前よき者がそれを与えた /
             彼の贈り物は惜しみなく、賞賛を一身に集める者
  囲いに災害が起きるやいなや /
             アッバースがそのすべてを担う〔ms.98〕
  クライシュの侠。そのなかの尊き家に /    
             火を熾す者。他の者がみな火を熾せぬときに

【2000.2.20:清水和裕】[[このページの先頭へ]]

1 サッファール朝がファールス地方を征服した際、ハラージュの増税として補完税が導入された。298/910,11年にアッバース朝がこの地方を奪還すると、住民はマザーリム法廷に訴えたため、補完税の廃止が決定された[校訂68ページ、注1]。

2 Abu Muhammad al-Muhallabi. バグダードのブワイフ朝君主ムイッズ・アッダウラの宰相[英訳56ページ、注1]。

3 当時バグダードの貴人の主要交通手段は船であり、宮廷への伺候にも船が用いられることが一般的であった。宮廷のほか宰相などの館には直接船を乗り付けるための専用の舟場があることが多かった[清水]。

4 清水の個人的見解としては、このようにグラームと対比される際のハーディムはほぼ宦官である。清水和裕「グラームの諸相」(『西南アジア研究』52、2000年、掲載予定)参照。

5 Dirar b. al-Azwar. ジャーヒリーヤ時代の英雄のひとり。ヤルムークの戦いに参加しシリアを征服。ヤマーマの戦いで奮戦し死亡。没年11/632,33年[校訂69ページ、注2]。

6 `Abbas b. `Abd al-Muttalib. アッバース家の名の由来となった父祖。預言者ムハンマドの父の異母兄弟。

7 「讃えある白毛(Shayba al-Hamd)」とはアブド・アルムッタリブのことである。これは、彼が生まれたとき髪の中に一本の白毛があったことに由来する[校訂69ページ、注4]。

8 詩の訳は主として[英訳57ページ、注2,3,4]に従いfakharもfajarを採用した。また「火を熾す者(wari al-zinad)」は気前よさを示す慣用句。

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