///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注62-67ページ///
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 〔txt. 62〕同様のこととして、ラジャズ詠みアブー・アンナジュム(Abu al-Najm al-Rajiz)1がヒシャーム・ブン・アブドルマリク(Hisham b. `Abd al-Malik)2に自分のカスィーダを朗誦したことがある。その冒頭は、こうであった。

 神に称えあれ 惜しみなく与えるお方 / 与え 吝嗇らず 吝嗇呼ばわりもされない3

 その最後は、「太陽はやぶにらみの目の如くになった」という言葉で終わった。すると彼(ヒシャーム)は自分のことを暗示していると考え、彼の首を突き刺すよう命じた4
 ズー・アッルンマ(Dhu al-Rumma)5の言葉も同様である。彼は彼6に向かってこう朗誦した。

 あなたの目7から涙が流れるのは如何 / 破れた腎臓から8流れ出す如く

 すると彼は、「〔私の〕でなく、お前の目だろう」と言った。
 また、ムタナッビー(al-Mutanabbi)9は、以下のように始まるアドゥドッダウラを賛美するハー韻のカスィーダ(qasidatu-hu al-ha'iyya)を彼に対して朗誦した。〔txt. 63〕

 私の「ワーハー」(喜び)の言葉の代りに「アウヒ」(うめき) / 思い出を身代わりにして10去った女には

 〔ms. 89〕すると彼は、「ウッワフ」とうめいて、「燃やしてしまえ」と言った。また、彼に別れを告げるカーフ韻の(kafiyya)カスィーダにおいては、こう言っている。

 わが道よ お前が望むものになれ11 / 苦しみにでも救いにでも滅びにでも

 アドゥドッダウラは「彼には今にもその道中において何かが降りかかるだろう」と言った。すると彼はその道中で死んだ12
 また、こうも言われている。ミフラジャーン(Mihrajan)の日に、ある詩人13がダーイー・アラウィー(al-da`i al-`Alawi)14の許に行き、こう彼に向かって朗誦した。

 一つの吉報と言うな 二つの吉報〔と言え〕 / ダーイーの額とミフラジャーンの日15

 〔txt. 64〕
 すると彼(アラウィー)は、「彼の礼儀を正してやるのが最も行き届いた褒美だ」と言って彼(詩人)を平伏させ、50回杖で打った。
 また、イスマーイール・ブン・アッバード(Isma`il b. `Abbad)16が、ハマザーン(Hamadhan)でアドゥドッダウラの御前に行った時、彼に向かってバー韻の(ba'iyya)カスィーダを朗誦した。そのカスィーダは以下のように始まるので、「『しかし』の詩(lakiniyya)」と呼ばれた。

 私は愛の詩をつくる 「しかし」高貴への / 私は詠む 「しかし」栄誉を
 私には欲望がある 「しかし」高位への  / 私には渇きがある 「しかし」飲むのは名誉

 彼はこのカスィーダの中で、アブー・タグリブ・ブン・ハムダーン(Abu Taghlib b. Hamdan)に言及している。〔ms. 90〕

 あなたはタグリブの息子たちの弱みを握った / そしてタグリブは昼夜が繰り返す限り打ち負かされる

 するとアドゥドッダウラは、「打ち負かされる」と彼に面と向かって言ったことを凶兆と受け止め、言った。「神が助けてくださいますように。」
 これらは、些細であっても心に影響を与え、嫌悪感や喜びを感じさせる事である。思慮深い者は、それらの事に配慮し、気をつけるものだ。イブン・アッルーミー(Ibn al-Rumi17)がいみじくも言っているではないか。イブラーヒーム・ザッジャージュ(Ibrahim al-Zajjaj)18が「あなたは吉兆や凶兆を気にかけることが多いようだが、そのことについてどう考えているのですか」と尋ねた時、彼はこう答えたのである。「吉兆は時の言葉。凶兆は運命の徴。」

【2000.1.22:矢島洋一】[[このページの先頭へ]]

 カリフ(al-sultan)との親密さや彼と気の置けない仲であることで、カリフを蔑ろにしたり彼に対して傲慢な態度をとらないように気をつけよ。畏敬の念を持って注意を働かせながらカリフと接せよ。〔自分に対する〕敬愛(hurma)が確実であり長年にわたる間柄であっても、なおいっそう彼を偉大で気高い者として扱え。〔txt. 65; ms. 91〕たとえおまえがある能力を持っているとしても、それを自慢するな。また、おまえの希望と欲求が求めるままに要求することは控えよ。というのも、あまりにも親密になることは敬愛(hurma)を損なう原因であり、次々に要求を増していくことは嫌悪を招くことになるからである。次のように語られている。
 
 マームーン──彼に神の祝福がありますように──は、ムアッラー・ブン・アイユーブ19に、ある徴税任務(`amal)を提示して彼をそれに任命しようとした。しかしムアッラーは辞退した。するとマームーンは彼に「私にとって、不忠な者は忠実な者より扱いやすい。なぜなら付け上がったりなれなれしく振る舞ったりしないからだ。」と言った。

 マンスール──彼に神の祝福がありますように──は、アブー・ムスリムについて「彼は付け上がってうんざりさせ、追い立てて疲れさせた。」と語った。マンスールはフトバの中で彼に言及して次のように言った。「彼の権利を守ることは、我々が彼に義務を課すことを妨げなかった。20

 ウバイド・アッラーフ・ブン・アブド・アッラーフ・ブン・ターヒル21が以下のように語った。

 私はウバイド・アッラーフ・ブン・スライマーン22の許にいた。彼は私に一枚の手紙(ruq`a)を投げて言った。
 「こんなあからさまな言い方〔ms. 92〕と酷い侮辱を見たことがあるか。」
 見るとそれはハムド・ブン・ムハンマド・カーティブ23の手紙で、そこには次のような詩句が含まれていた。

 我々の間には敬愛(hurma)と確かな親密さ(`ahd)があり / 互いの権利は互いの義務
 今の機会を捉えよ。判らないから、 / 我々のなかで力ある者が、いつ力を失うのかということなど

 私は、「ワズィール──神が彼をお助けになりますように──とは、望みの集まるところであり、善行を施すことが期待されるものなのです。」と言った。するとウバイド・アッラーフは「とは言っても、気安さ(dalla)はしばしば行き過ぎてしまい〔txt. 66〕、美しい性格を変えてしまうものだ。」と言った。私は「親密さの持ち主の気安さには怒る必要はありませんし、〔それを理由に〕関係を断つほどのものでもありません。有徳者達の性質のなかには、期待を寄せる下僕達(khadam)に善行を施すことが含まれているのです。」と言った。

 カリフがワズィールに命令した際に御前で何か書きつけようとする場合、かつては以下のような慣わしがあった。ワズィールや書記は、鎖付きの小さなインク壺〔ms. 93〕・用紙(darj)・封緘紐(asahi)と封泥が入った封泥箱(matyana)を履物(khuff)の中に入れていた。書こうとするときには、左手にインク壺をさげ、右手で用紙を持った。書き終えると手紙を整え、封緘紐を結び(asha)、その上に封泥を置いて封緘し、送ったのである。次のように言われている。

 ワースィク──彼に神の慈悲がありますように──は、自分に権力が巡ってきて可能になった時には、ムハンマド・ブン・アブド・アルマリク・ザイヤート24を亡き者にせんと誓った。それは〔txt. 67〕ムハンマド・ブン・アブド・アルマリクがワースィクを酷く扱ったからである。これは有名な話である25
 カリフ位に就くと、ワースィクはある書類を書こうとした。そこでムハンマド・ブン・アブド・アルマリク以外の書記達に、その草稿を作成することを命じた。しかしその全員がカリフの意に添わないものを書いた。ムハンマド・ブン・アブド・アルマリクが〔カリフの許へ〕入ってきた。彼はそのとき、ワースィクが自分を嫌い、害を与えようと決意していることを百も承知であった。ワースィクは「ムハンマドよ、しかじかという用件の書類を書け。」と彼に言った。すると彼は履物からインク壺と用紙を取り出して〔ms. 94〕、その用件を満たすものを書いてワースィクに示した。それはカリフの意に添うものであった。ワースィクは「これでこそ、おまえは王が必要とする者だ。」と彼に言って、耳元に人差し指を置いた。そして彼に関して胸の内にあることを彼に向かって吐き出して次のように言った。「おまえを生き長らえさせ守ることは、おまえに対する怨念に従うことよりも大切だ。私は、おまえに関して思いこんでいたことに基づいて、かくかくしかじかという宣誓をしてしまった。私のために、この宣誓から逃れて救われる方策を求めてくれ。誓いを破る罪を贖うために必要なものを私の財産から〔喜捨に〕取ってくれ(itliq)。」そしてワースィクはイブン・ザイヤートをワズィール職に就けたのである26

【2000.2.5:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]

1 Abu al-Najm al-`Ijli [GAS II: 371-372].

2 ウマイヤ朝第10代カリフ。在位724-743年。

3 cf. Jaakko Hameen-Anttila (ed.), Diwan of Abu'n-Najm: Materials for the Study of Rajaz Poetry I, Studia Orientalia 72, Helsinki 1993, Arabic p. 60.

4 この逸話は、al-Aghani, Dar al-kutub, 10, p. 155 に見える。

5 Abu al-Harith Ghaylan b. `Uqba(117/735年没?)[GAS II: 394-397]。

6 ヒシャームを指すように受け取れるが、正しくはアブドルマリク・ブン・マルワーン(`Abd al-Malik b. Marwan)[校訂62ページ、注6]。アブドルマリクはウマイヤ朝第5代カリフ(在位685-705年)。他の典拠からの引用のためこうなったのだろう。

7 テキストでは `aynay-ka であるが、正しくは `ayni-ka[校訂62ページ、注7]。

8 min kula mafriyya. 英訳「破れた皮袋から from ruptured skin-bags」、ロシア語訳「〔穴のあいた〕皮袋から iz〔dyriavogo〕byrdiuka」、ペルシア語訳「大きな皮袋の口から az dahana-yi mashki buzurg」。

9 Abu al-Tayyib Ahmad b. al-Husayn al-Ju`fi(354/965年没)[GAS II: 484-497, IX: 290-294]。

10 テキストでは al-hadith であるが、Diwan al-Mutanabbi に従い al-badil と読む[Diwan al-Mutanabbi, ed. `A. al-`Usayli, Bayrut, 1997, p. 415]。

11 テキストでは wa-imma であるが、Diwan al-Mutanabbi および al-Tha`alibi, Yatima al-dahr に従い wa-ayyan と読む[校訂63ページ、注5]。ただし Diwan al-Mutanabbi の上掲刊本 p. 441 には wa-anni とある。

12 ムタナッビーは、シーラーズのアドゥドッダウラの許を去ってバグダードに向かう途中、ダイル・アルアークール(Dayr al-`Aqul)の近くで盗賊に襲われて死んだという[R. Blachere-[Ch. Pellat], ``al-Mutanabbi,'' EI2, p. 771]。

13 Yatima al-dahr では Ibn Maqatil[校訂63ページ、注9]。

14 al-Hasan b. Qasim al-`Alawi(316/928,29年没)。

15 テキストでは wajh であるが、Yatima al-dahr に従い yawm と読む[校訂63ページ、注11]。

16 Abu al-Qasim Isma`il b. `Abbad b. al-`Abbas al-Talaqani(385/995年没)[GAS II: 636-637, VIII 206-208]。

17 Abu al-Hasan `Ali b. al-`Abbas b. Jurayj(283/896年没)[GAS II: 585-588]。

18 Abu Ishaq Ibrahim b. al-Sari b. Sahl al-Zajjaj(311/923年没)[GAS VIII: 99-101]。

19 al-Mu`alla b. Ayyub. タバリーが255年4月/869年3,4月に没したと記録している人物か。同年勃発したザンジュの乱の中で、この人物が経営していたとみられる村が反乱勢力に襲われている[Tabari/Leiden 3: 1706, 1773; Tabari/al-Qahira 9: 387, 428-429]。

20 これは、アブー・ムスリムを殺害した際にマンスールがマダーインでおこなったフトバの一部である。引用部分はタバリー等が伝えるテキストとは字句が一部異なるが、内容はほぼ同じである[校訂65ページ、注3]。

21 `Ubayd allah b. `Abd allah b. Tahir. ターヒル家の一人で、バグダード及びイラクのシュルタ長官を253/867年から278/891年の間に3回務めた。文芸の保護者として知られ、自身にも音楽に関する著作がある[``Tahirids.'' EI2; NID: 168-169]。本書 txt. 20/ms. 23 に情報源として名が見える `Ubayd allah al-Tahiri も同一人物と思われる。

22 ムータディドのワズィールを務めた人物。288/901年没[校訂48ページ、注3; Vizirat: 326 ff.]。

23 Abu `Abd allah Hamd b. Muhammad al-Qunna'i al-Katib. ハサン・ブン・マフラドの甥で、アリー・ブン・イーサーの最初のワズィール在職期(301-308/913-917)に diwan al-Maghrib の長官を務めた[校訂65ページ、注4; Vizirat: 399-400]。

24 Muhammad b. `Abd al-malik al-Zayyat. ムータスィムとワースィクのワズィールを務めたが、ムタワッキルが即位すると捕らえられた。233/847年没。[``Ibn al-Zayyat, Muhammad ...'' EI2; 校訂66ページ、注8]

25 Cf. Nishwar al-muhadara. Baghdad, 1971-73. 8: 17-19.

26 この逸話のより詳しい伝承が、Ibn Tiqtaqa の史書に見える[校訂67ページ、注3; al-Kitab al-fakhri. Bayrut: Dar Sadir, 1966: 234]

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