///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注56-61ページ///
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「なるほど。あっぱれ(li-llahi abu-ka)。では、『善行』について詠んでみよ。」
「ある者が申しますには、

   善行の力は、あればいつでも戦利品 /
      神に感謝の念を抱かない者でも抱く者でも担わされている
   そしてそれに感謝の念を抱く者には、報償あり /
      感謝の念を抱かない者の為すことも、神のもとにある

と。」1
 〔ms. 81〕するとカリフはインク壺と巻紙を持ってこさせ、何かわかりませんが何かを書き、それから私に、こう仰いました。
「turab(インクを乾かす砂)で af`il の形(命令形)はどう言うのか。」
「atrib(インクを乾かす砂をかけよ)でございます。」
「では、tin(封泥)では。」
「tin(封泥をほどこせ)でございます。」
「では、〔それをほどこされた〕書簡は何というか。」
「mutrab matin(インクを乾かす砂をまかれ、封泥をほどこされたもの)でございます。」2〔txt. 57〕
「この形ほうが、最初のもの(命令形)よりもよいな。」
 そしてカリフは、ファドル・ブン・サフル3にその書付をもって会うように、と私にお命じになりました4。それで、私はそれを彼に渡したのです。ファドル・ブン・サフルはそれを読むと、
「信徒の長が5万ディルハムをあなたにお与えになった原因は何ですか。」
と言うので、私は彼に〔いきさつを〕話しました。すると、彼はこう言うのです。
「ああ、神に讃えあれ! あなたは信徒の長にアラビア語の間違いを指摘したのですか。」
「いいえ。しかし、フシャイムはよく間違いをしたとはお教えしましたが。」と私は言いました。すると、彼は自分から3万ディルハムを受け取るように私に命じ、私は8〔万ディルハム〕をもって自分の屋敷へとその場を辞したのです5

 また、ハサン・ブン・サフル6の嗜みの良さと気性の穏やかさ〔を示す話の〕一つに、以下のことがある。自分の書記の一人が、ハサン・ブン・サフルの作成した文書の写しを示して、彼の言葉のあるものを変えて欲しいといってきたとしても、その書記にこう言う。「本当に、君は素晴らしく、うまくやっているし、余すところなく目的とするところを扱っていて、意味を詳しく述べている7。しかし、〔ms. 82〕この言葉をしかじかで置き換えるのに、あなたはどう思うかね。この箇所をこれこれで〔置き換えるのには、どう思うかね〕。」と。すると書記は「アミール8がそれをされるのですね。」と言う。そこで彼はこう言う。「いや、そうではなく、あなたが自分の手でそれを変えるのです。これが、主人が仕える者のためにしてやることであるなら、仕える者の方は、主人に何ができると考えますか。」と。

 カリフがクンヤで呼ぶ栄誉を与えて、その地位を認めた者以外を、〔txt. 58〕カリフの前でクンヤで呼ぶことは、すべきでない。また、名前がカリフの名前と同じであるなら、カリフの〔と同じ〕名前で呼ぶのも同様である。〔これには、〕次のような話が伝わっている。
 ある日、スライマーン・ブン・アブドルマリク9が、人々に〔褒賞を〕与えようと席についた。すると、身体大きく見目良く風貌卑しからぬアブス族(Banu `Abs)10の若者が進み出た。スライマーンが、
「名前は何という。」
と言うと、彼は、
「スライマーン・ブン・アブドルマリクです。」
と言った。すると、自分の名前と同じ名前とわかると、カリフ・スライマーンは彼〔に褒賞を与えるの〕を避けてしまった。そこでその若者は、スライマーンに言った。
「あなたのお名前と同じ名前が不幸なものとはなりませんように。私に〔も褒賞を〕授けて下さい。私はあなたの手にある剣です。〔ms. 83〕もし私で打とうというなら切りますし、何かお命じになれば従います。また、〕私は〕あなたの矢筒にある矢です。あなたが放てばまっすぐに的をめがけて行きますし、あなたが目指すところなら脇目もふらず突き進みます。」
 するとスライマーンは彼に言った。
「もしお前が敵と出会ったなら、お前の言や如何に。」
「<私には神がおられれば充分。彼以外に神はなし。彼にこそお頼り申し上げる。>11と言ってやります。」
「自分の敵にあって、それだけで満足するのか12。」
「あなたは、私が何を言うかと問われたので、〔そのように〕お伝えしたのです。もしどうするかとお尋ねなら、あなたに〔このように〕申し上げます。もしそうなら、剣が曲がるほどに剣で打ちます。槍がこわれるほどに突き刺します。たとえ自分が痛くとも敵も痛いのだと知り、また敵が望めぬものを私は神にお望みします。」
 またスライマーンは彼に言った。
「コーランは読んだか。」
「はい。幼い頃に読みました。長じてからはコーランを範とし、コーランを私の指針とし、それに従って物事によく通じた者たらんと努めて参りました13。」
「では、お前は、お前を富ませてくれる財産か、満足できるこの世の物をもっているか。」
「私は暮らしに困ることなく、両親のもとにおります。」
「両親にはどのように仕えておるか〔ms. 84〕。」〔txt. 59〕
「敬愛し、両親に翼を低く垂れております14。そして、神が両親によい状態をもたらし、最後の審判の日に喜んで迎え成功をお与えくださるようにと、お願いしております。」

【1999.10.31:近藤真美】[[このページの先頭へ]]

 もし、スルタンの婦人の名前にあたる物や、公に言うことが許されないこと、または、凶兆が生じることを言う必要が起こったなら、それは仮の名前にする。また、このことにおいて、心と耳にふさわしくないものは避けるべきである。
 例えば、アブドゥルマリク・ブン・サーリフ(`Abd al-Malik b. Salih)が、ラシードにバラを贈ったときの行動のように。そのとき、彼は次のように書き送った。「信徒の長の御前に、私の居所となっている15カリフの邸の庭園から、棒切れ(qudban)の盆に入れて、バラをお贈りしました。」それがラシードに対して読み上げられると、同席者の1人が言った。「棒切れとは何とひどい言葉だ!」すると、ラシードは言った。「単に、彼は、我が母の名であるハイズラーン(竹)16を、それで言い換えただけだ。彼は、その言い換えをうまく行い、この表現で、その礼儀を表したのだ。」そうして、そのことは、けなされた後で褒められ、酷評された後で賞賛されたのであった。
 また、ファドル・ブン・アッラビー17(al-Fadl b. al-Rabi`)の言葉の例もある。ラシード──神が彼に祝福を与えますように──が、彼にヒラーフ(エジプトヤナギkhilaf=対立)という名の木について尋ねたときのことであるが、彼は言った。「これは何か?」すると彼は言った。「ウィファークwifaq(=調和)です、〔txt. 60〕信者の長よ。」18
 また、アルアッバース・ブン・アブドゥルムッタリブ(al-`Abbas b. `Abd al-Muttarib)の言葉の例もある。彼はつぎのように尋ねられた。「いったい、あなたと神の使徒とでは、どちらが大きいか?」すると、彼は答えた。「神の使徒の方が偉大ですが、私の方が年上です。」──神が彼らを祝福しますように──。
 また、サイード・ブン・ムッラ(Sa`id b. Murra)の言葉の例もある。彼が、ムアーウィヤの御前に参上すると、彼は言った。「おまえは、サイードか(幸運か)?」彼は言った。「私は、イブン・ムッラです。信徒の長こそが、幸運なる者です。」
 また、これと反対の例では、アルハサン・ブン・ムハンマド・スィルヒー19(al-Hasan b. Muhammad al-Silhi)が語った話がある。彼は語った:
 ラーディー──神が彼に慈悲を与えますように──が、アブドゥッラフマーン・ブン・イーサー(`Abd al-Rahman b. `Isa)をワズィール職から罷免したとき、彼と、彼の兄のアリー・ブン・イーサー(`Ali b. `Isa)を苦しめようとし、アリーから100万ディルハム、アブドゥッラフマーンから3000ディーナール20を没収した。それは〔ms. 86〕奇妙なことであった。アリーは、カリフの宮殿で身柄を拘束され、ラーディーの心中に、自分への殺意があるのではないかと恐れた。そこで、彼は私に手紙を書き−そのとき私はムハンマド・ブン・ラーイク(Muhammad b. Ra'iq)の書記をしていたのだが−私の主人からということで、彼に定められたものが支払われるまで、彼をワズィールの邸に移すようにと、ラーディーに進言してくれるように私に頼んだ。そこで、私はラーディーのもとに行き、彼に言った。〔txt. 61〕「信徒の長よ、アリー・ブン・イーサーはあなたの僕であり、あなたの父祖の僕です。彼のその職務での功績と、王国の繁栄における彼の貢献、それに、彼のことや言動がどのようであるかをご存じでしょう。」彼は言った。「それはその通りだが、私は、諸々の罪ゆえに彼に対して立腹しているのだ。」そして彼は、アブドゥッラフマーンの罪を数えたて始めた。そこで私は言った。「陛下、兄弟が至らなかったことで生じた、いかなる罰が、彼に下されるのでしょうか。」彼は言った。「神に讃えあれ。アブドゥッラフマーンが、アリーの意見なしで、政務を執れたと思うのか。アリーの同意なしに何も行ったりやめたりするなという私の彼に対する命令や、アリーの命令なしで21、彼が何か進めたり、止めたりすると思うのか。〔ms. 87〕」私は、彼に謝り、全ての罪について、いいわけをしはじめた。彼は言った。「それをやめよ。彼は、私に、『おい、おまえ(waka)』22としか言わないのだ。カリフが、このような言葉を受けてよいのか。」私は言った。「信徒の長よ、これは彼の気質なのです。それはよく知られていますし、彼に特有なもので、彼がムクタディルに仕えていたときにも、非難されたものでした。ですが、彼は、ムクタディルがそのまま成長し、それに慣れ親しんでしまったので、それをなくすことができなかったのです。」彼は言った。「それが彼の性質だとしよう。だが、それならおまえが賞賛している美徳や知性でそれを変えるとか、彼が私に会う機会や話しかける機会が少ないのだから、そのときに特別に気をつけるとかすることがどうしてできないのだ。侮蔑や思慮のなさからでなくては、こんなことをしないであろう。」そこで、私は彼の前の床に何度も接吻をして、言った。「神よ。神よ。陛下が、そのようにお思いになるのももっともですが、それは単に不運から来たのです23。信徒の長には、許しが求められるものです。」そして、私は言い続けたので、とうとう彼は、アリーをワズィールの邸に移すように命じ、それで、アリーは移された。〔ms.88〕アリーが、証文で認めた額の支払い手続きが完了し、彼は住居に帰された。

【1999.11.21:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

1 若干の相違はあるが、`Abd al-Rahman al-Irbili, Khulasat al-Dhahab al-Masbuk fi Siyar al-Muluk (Bayrut, 1885); al-Bayhaqi, al-Mahasin wa-al-Masawi' (Ed. by Shawali. Leipzig, 1902); al-Zajjaji, Majalis al-`Ulama' (Ed. by `Abd al-Salam Muhammad Harun. al-Kuwayt, 1962) を参照[校訂 56ページ、注3]

2 al-Hariri, Durrat al-Ghawwas fi Awham al-Khawass (.Istanbul, 1299 AH.); Ibn al-Anbari, Nuzhat al-Alibba fi Tabaqat al-Udaba' (al-Qahira, 1294 AH.); Yaqut al-Hamawi, Mu`jam al-Udaba' (Ed. by Margoliouth, al-Qahira, 1923-1930); Ibn Khallikan, Wafayat al-A`yan (Bulaq, 1275 AH.); `Abd al-Rahman al-Irbili, Khulasat al-Dhahab al-Mabsuk (Bayrut, 1885) にも同様の記述があるが[校訂56ページ、注5]、それによれば、ここは「mutrab と matin」と訳出できる可能性もある。

3 al-Fadl b. Sahl. カリフ=マームーンによってワズィールに任られた。「剣のこと」、「ペンのこと」両事を司ったため、「両長の地位を持つ者」と呼ばれた。202/817,18年に殺された[校訂 57ページ、注1]。父親は、サフル・ブン・ザーダーンファルーフ(Sahl b. Zadanfaruh)といい、クーファ近郊の村出身のゾロアスター教徒だった[英訳 48ページ、注1]。

4 若干の違いはあるが、訳注2の史料、及び al-Bayhaqi, al-Mahasin wa-al-Masawi'a (Leipzig, 1902) を参照[校訂 56ページ、注5]。

5 同様の話が、Ibn `Abd Rabbi-hi, al-`Iqd al-Farid (Ed. by Ahmad Amin et al. al-Qahira, 1940-1950) にあるが、そこでは金額などの相違と、上記のナドルとファドル・ブン・サフルにあたるのがシャービー(al-Sha`bi)とハッジャージュ(al-Hajjaj)になっている[校訂 57ページ、注2]。

6 al-Hasan b. Sahl. ファドル・ブン・サフルの兄弟で、彼の後に、マームーンによってワズィールに任じられた。マームーンのもとで寵を得て、「二つながら満足を得た者」と呼ばれた。マームーンは、ハサンの娘ワラーン(WRan)と結婚した。236/850,51年没[校訂 57ページ、注4]。

7 「意味を詳しく述べている」と訳出した部分は、書写した者が欄外に補った部分[校訂 57ページ、注6]。

8 ここで何故「アミール」と言っているのかは不明。これまでの逸話と同様、他の出典からの抜粋の可能性が高い。

9 Sulayman b. `Abd al-Malik. ウマイヤ朝第7代カリフ。在位715-717年。

10 中央アラビアの部族で、6世紀に栄えたガタファーン(Ghatafan)族の一つ。アンタラ・ブン・シャッダード(`Antara b. Shaddad. 525-615年頃)の詩で有名[英訳 49ページ注1]。

11 コーラン 9: 129[校訂 58ページ、注4]。

12 校訂者によれば、写本には mutakaffiyan とあるとのことであるが、第V形分詞では適当な意味がないので、校訂者注[58ページ、注5]に従い mukutafiyan と読んだ。

13 「それに従って物事によく通じた者たらんと努めて参りました」と訳出した部分は、英訳注[49ページ、注3]によれば、写本では不明瞭な部分であり、校訂者は、wa-`amaltu `alay-hi khabiran 読んでいる。訳出はこれに依った。校訂者はこの部分に、`amaltu `alay-hi の部分は本写本では `amaltu `alay-hi だったのだろうと注をつけている[校訂 58ページ、注6]。

14 コーラン 17: 24[英訳 49ページ、注4]にほぼ同一の箇所あり。
<そして、優しいあわれみの心で、柔順の翼をそっと二人の頭上に降ろしてやるよう>(井筒俊彦訳)。

15 テキストでは、askunaと接続法で読むように指示されているが、ここではaskunu(未完了形)で読んだ。

16 ハイズラーンは、アターの娘で、マフディーの妻であり、ハーディーとラシードの母である。173年に、バグダードで没[校訂59ページ、注5]。マンスール、ハーディー、ラシードのハージブ。ラシードがバルマク家を退けたとき、その後のワズィールに任じた。アミーンが後を継いでも、ワズィール職に留まった。カリフやその父祖たちのことについてよく知っていた。208年に没[校訂59ページ、注7]。

17 al-Fakhri に次のようにある:マンスールはある日、庭でヒラーフの木を見た。彼はそれが何であるのか知らなかったので、言った。「ラビーよ、これは何の木か?」・・・。[校訂60ページ、注1]

18 ウマイヤ朝の創始者。彼とアリー・ブン・アビー・ターリブとの争いが、正統カリフ制の終わりを招いた。彼は首都をメディナからダマスクスに移した。ヒラールが、ウマイヤ朝のカリフに言及するとき、神に祈願しないのは興味深い。アッバース朝の擁護者として、彼はウマイヤ朝に大して敬意を払わなかった。しかし、カリフ制への敬意のため、彼は彼らに対する軽蔑的表現を使わなかった。[訳注50ページ、注3]

19 イブン・アルフラートのワズィール時代の書記の1人[校訂60ページ、注4]。

20 歴史家たちは、アブドゥッラフマーンが、物事を処理する能力が低く、ワズィール職をやめるまで、お金に困っていたことについては一致している。異なっているのは、彼と兄弟のアリーが没収された金額についてである。ある者はこう言っている:アリーは10万ディーナール、アブドゥッラフマーンは、7万ディーナール没収された。他の者は、それにこう付け加えている:アリー・ブン・イーサーは、7万ディーナール没収された。が、9万とも言われる。また、彼の兄弟は3万没収された。その後、2人は家に帰された。また、次のように言う者もいる:両者はそれぞれ、7万ディーナール没収された。[校訂60ページ、注5]

21 ここで、iyyahu以下の部分が、amrihiとamriの両方に続くのか、amriのみに続くのか、はっきりしない。

22 アブー・アルハサン・ブン・アルフラートの口癖は、『神が彼に祝福を与えますように baraka allah `alayka』であり、アブー・アルハサン・アリー・ブン・イーサーの口癖は、『おお、おまえ wa laka/ waka』であった。人々はこう言った:二人の違いは、会ってみるまでは分からないが、口調で区別できる。[校訂61ページ、注2]

23 アリーが故意にそのような言葉遣いをしたのではないということ。

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