///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注44-49ページ///
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 シャーシーヤ帽の検査を差し控えてくださったのは、〔txt. 45〕私が恥をかかないようにとのご配慮の上であること、承知しておりました。 しかし御前でシャーシーヤ帽を裂くという無礼をあえて私がいたしましたのも、このうそつきで忠誠心のない盗人が私に帰した一件が、濡れ衣であることをこの場で示すためです。この盗人は、秘密裏にあなたの財産を取り、自分のものとし、自分の借金となったものを隠してしまいました。神に誓って、信徒の長よ、またあなたの高貴な生命に誓って〔申します〕、先日私との間にこのような事があり、このシャーシーヤ帽の件に関してこの男がわたしに仕掛けたのは、こういった事柄でした。』
 マフラドは、マームーンに話をしました。そしてファラジュの弄した策をその手で実行した、 帽子職人でファラジュの近従(ghulam)であるナスルの名を挙げました。〔ms. 66〕これを聞いてマームーンはファラジュに激怒し、ファラジュの大胆な行為に驚きました。マームーンは、ナスルを出頭させるよう命令しました。ナスルが出頭すると、事情1を問いただしました。ナスルは、はっきりしゃべらなかったので、押さえこまれて50回鞭打たれた後、〔罪を〕告白し、その件をファラジュのせいにしました。そこでマームーンは、ファラジュの顔に唾を吐き、ファラジュを罵りました。マームーンは、ファラジュをマフラドに引き渡すように命令しました。ファラジュに勘定を請求するため、ファラジュがマームーンに払わねばならい金額を要求するためです。ファラジュは、辱められ惨めに去り、マフラドは栄誉を身に纏い2名誉を与えられて去りました。ファラジュはマフラドに渡され、自分のなしたことに対してマフラドから叱責された後、監禁されました。
 『私は君に言わなかったかね、君のやり口はずっと醜いままだろうし、君の性根も腐ったままであろうと?ではあるが、私への3神の恩顧を継続させる君への善行を、私は再び始めるつもりだ。』

 マフラドは、ファラジュに引き続き親切でありました。マフラドはアムル・ブン・マスアダに、ファラジュが自分と大変密接な関係にあることを話して、結局〔ファラジュの支払い額を〕300万ディルハムにさせました。アムルは、両人の〔人格の〕極端な違い〔ms. 67〕に驚きました。マームーンも驚き、マームーンの臣下も両人に驚かされました。」
 統治者(sultan)の臣下は、誹謗、中傷をさけねばならない。 みにくい咎められるべき行いだからである。また「あなたに中傷した者は、あなたを誹謗したのである。あなたに中傷した者は、あなたを誹謗したのである。(あなたへの誹謗、中傷を、あなたへ伝えた者は、あなたを誹謗、中傷したのと同じ事である。)」という、〔人々の〕魂の内に刻み込まれていて、思案の拠り所となっている言い習わしもある。 

 ムハンマド・ブン・ハーリドの書記であるムハンマド・ブン・アリーは、ムハンマド・ブン・ハーリドに〔次のような〕書簡を送った。 人々がムハンマド・ブン・アリーのところに嘆願にやって来て、アルメニアの統治者による法(rusum){あるいは「アルメニアにおける統治者の法」と訳すべきか。}が、忘却され消去されてしまった、と言った。ムハンマド・ブン・アリーは、自分がムハンマド・ブン・ハーリドのその〔過去の〕法に関する見解を知るまで、その法の実行を差し控えた。ムハンマド・ブン・ハーリドは、その書簡の裏に〔次のように〕記した。 
「私はこの非難さるべき文書4を読んだ。誹謗者の市場は、我々のところではおかげさまで停滞しているし、誹謗者の弁舌も、最近はにぶっている。私のこの文書を貴公が読まれたら、人々を貴公の法(qanun)に服さしめ、貴公のディーワーンの決定に従わせよ。消滅した法(rusum)の実行や〔ms. 68〕忘却された遺物の再生のために貴公は任地に赴いたのではない。私と貴公をジャリールの一節から遠ざけたまえ。
汝が、世人の館に留まれば、
汝は、侮辱されて旅立ち、不名誉を残して去ることになろう。
 しかし貴公は、自身の任務を、我々への好意が得られ、我々への非難が生じないように実践せよ。〔貴公の仕事は〕有限な期間、限りある日々〔の間になされるもの〕であるが、美名ないし長い非難が〔後々まで残るからで
ある〕。
 さて統治者が何かを欲しても、彼の思惟がその何かを拒絶することもあれば、統治者が何かを嫌っても、彼の理性がその何かを決定することもある。だが、議論の呈出や討議の遂行に訴えたり、〔統治者の〕意向への反対したり反論を行使したりすることは、作法に反している。これらは、激昂や頑迷を生み出すからである。穏やかな指摘、言葉の物柔らかな表示、類似する話の提起、近接する主題の措定、にたよるべきである。」

【1999.8.1, 8.7:沼田敦】[[このページの先頭へ]]

 〔txt. 47〕アブド・アルマリク・ブン・サーリフ5は、彼の息子の家庭教師(mu'addib)であるアブド・アッラフマーン・ブン・ワフブに、次のように言った。

 おお、アブド・アッラフマーンよ。私に無礼なやり方で手助けをするな。また、人前で私に逆らうな。そして私が君に言葉を求める限りにおいて、語ってくれ。〔ms. 69〕話を聞くことの美徳は、話すことの美徳よりも良いものであると知りおけ。そして君の目でもって、理解したことを私に知らせるのだ。また、私が疎遠だった教師の君を、近しい座の仲間 (jalis) にしてやったことを知っておけ。自らより出る欠点を知らない者は、自らに入る美点というものも知らないだろう。スルタンには精神力や力強さを見せないようにせよ。また、スルタンを渾沌や隘路に踏み行くこと、船を難破させるところへ導かないようにせよ。そんなことをすれば、彼は君を、ある場合には出入りの作法も気にせぬ向こう見ずな男だと思うだろう。そしてスルタンは自分自身とその統治において、君を信じなくなる。また、別の場合には、彼とともに正誤の〔判断をする〕場に居るな。君が正しければ、スルタンはその答えは自らの考えによるものだと信ずるし、君が誤れば、彼はその過ちを君に帰し、罪を君に転じる。むしろ、よりふさわしいことは、急に断じたり遅疑したり、物事を避けたり巻き込まれたりすることの間の中庸を心し、〔ms. 70〕より正しく、無難な結果により近い考えを提言せよ。決定や規定の義務から、また否可決の責任から自由になり、穏やかな決定によって、幸運のあるところやその忠告による恩恵にふさわしい結果に到るために。

 ムクタフィー──神の御慈悲が彼の上にあらんことを──は、彼の大臣を勤める、アッバース・ブン・アルハサン6に、巡礼のために兵を送るよう命じた7。すると兵たちは行き、そしてクーファに着いた。彼はそこでザカルワイヒ8を捕らえるよう言った。するとアッバースはこう言った。「私のところへの巡礼の帰還が、神が巡礼のことを満足させ給われた。」9〔txt. 48〕そしてアッバースは、文人や武官の面々とともに自宅に居た。そして彼らに向かってこう言った。「信徒の長は、私にしかじかのことをお言い付けになった。そして私は、巡礼のときまでは、神が彼のことから解放させ給うことを確信して、ザカルワイヒを追うことは捨て置くよう指示した。皆はどう思うか。」すると各々は、彼の考えが正しいと言った。しかし、アリー・ブン・ムハンマド・ブン・アルフラートは、何も語らずに沈黙していた。アッバースは彼に言った。「おまえはどうだ、アブー・アルハサンよ。」すると彼は次のように言った。「信徒の長にさからってはなりません。〔ms. 71〕もし彼の考えが正しければ、それは好都合であったのであり、もし間違っていれば、それは彼の考えによるものであって、あなたの考えによるものではないのです。」そしてアッバースは、カリフの命に従った。巡礼における事件については、史実の通りである10

 勇気を奮うことや軍人の性格をもつことよりも醜いことは、文人にとって、まずなかろう。ウバイド・アッラーフ・ブン・スライマーン11について、以下のことが語られている。彼はムータディド──神の祈りが彼のうえにあらんことを──の御前に立っていた。するとその時、調教師の元から一頭の雄ライオンが逃げ出した。一同は御前から逃げ出し、ウバイド・アッラーフも怖がって走り、ベッドの下にもぐり込んだ。しかし、ムータディドは、その場を動かなかった12。その雄ライオンが捕らえられたとき、ウバイド・アッラーフはカリフの御前に戻ってきた。すると、ムータディドは彼にこう言った。「おまえの精神のなんと弱いことか、ウバイド・アッラーフよ。ライオンはおまえのところまでやって来れはしなかったし、行くようにもされていない。それなのに、そんなことをするのか。」彼は「私の心は、おお、信徒の長よ、書記の心で、〔ms. 72〕私の魂は従者のそれです。決して将校(sahib)のものではありません」と言った。そして出て行ったとき、彼の友人たちがそのことについて、彼に言葉をかけると、彼は次のように言った。「私は自分の行ったことについて正しかったのだ。君たちが思っていることは間違っている。神かけて、私はライオンなど恐れてはいなかった。何故なら、私はそれが私のところまでやって来ないことを知っていたからだ。しかし、カリフが、私の非力さ13ややる気のなさを御覧になると、私をお信じになり、〔txt. 49〕私を危険だと恐れられないだろうと思ったのだ。もし彼がこれと逆のことを御覧になれば、そのときは、警戒されるような恐れをお持ちになっただろう」14

【1999.8.28:森高久美子】[[このページの先頭へ]]

1 あるいは、「その形(十字架)について」と解釈すべきか。

2 あるいは字句通り「名誉の衣を与えられて」か。

3 あるいは「私を通じての」と解すべきか。

4 あるいは「非難文書」と訳すべきか。

5 `Abd al-malik b. Salih. アッバース一門の名士のひとり。ハールーン・アッラシードによりメディナに任じられ、また夏期遠征の指揮を任される。のち、アミーンによりシャームとジャズィーラに任じられる。196/812年没[校訂47ページ、注1] 。

6 `Abbas b. al-Hasan al-Jurjani. ムクタフィーの大臣で、ついでムクタディルに仕えた。彼はずる賢く、その行いは誉められたものではなかった。296/908,09年に殺された[校訂47ページ、注4] 。

7 Wuzara'/A: 70ページより引用の逸話[校訂47ページ、注3]。

8 Zakarwayh b. Maharwayh al-Qarmati. ムウタディドの没後、反乱をおこした。294/906,07年に殺害される[校訂47ページ、注5]。 
 カルマト派は、シーア派系の一派で、イラクの農民であった改宗者ハムダーン・カルマトにその名はちなんでいる。この一派は、西暦874年頃におこり、秘密の教義を非常に重んじるものであった。その中心は、しばらくはクーファにあった。ある種の初期的共産主義を実践し、すべての者が平等であることを説いた。信徒たちは、この派に加わった農民達の利益を集めるためのギルドを設立した。また、敵の血を流すことは合法であるとして、武力行使もおこなった。西暦950年頃に、カルマト派の勢力が下傾するころ、その教義はエジプトのファーティマ朝、レバノンのドルーズ派、シリアのイスマーイール派によって受け継がれていった[英訳43ページ、注1]。
 Wuzara'/Fの当該逸話の注には、「Muntazam 第6巻38、43ページにあるように、ヤフヤー・ブン・ザカルワイヒ・カルマティーのことだと思われる。289年カリフ職についたムクタフィーの時代に生きた。290年にダマスカス門でエジプト人に殺害された」とあり、前述の本書『カリフ宮廷の儀礼』の校訂者注と相違がある[p. 80, n. 2]。上記 Muntazam 第6巻43ページには、290年に没した人として「ヤフヤー・ブン・ザカルワイヒ・カルマティー。〔本書〕既述の事件により、この年、エジプト人が彼を殺害した」と挙げられている。同巻37-38ページには、「シャイフの名を冠せられたヤフヤー・ブン・ザカルワイヒ」が、ダマスカス門のところでエジプト人に殺害された逸話が述べられている。また、アリーブ・ブン・サードのSilat Ta'rikh al-Tabariには、294年の記述として、「ザカルワイヒ・ブン・マハルワイヒ・カルマティー」の逸話がある[Dhuyul/1: 22-24]。

9 この言葉は正しくない。Wuzara' にある正しいものは、以下のとおり。「アッバースはこう言った。『巡礼が戻るまで、おそらく神が彼の件から守り給う』」[校訂48ページ、注1] 。

10 ザカルワイヒやカルマト派の者の手によって、巡礼にふりかかったこれらの事件の詳細は、Silat Ta'rikh al-Tabariの14-17ページに述べられている[校訂48ページ、注2]。
 アリーブ・ブン・サードのSilat Ta'rikh al-Tabariに、294年ムハッラム月、ザカルワイヒ・ブン・マハルワイヒ・カルマティーとカルマト派の同士たちが、バグダードからメッカへゆく三つの巡礼団を襲撃し、望むままに金品を略奪し女性たちを捕虜にし、ラビー・アルアッワル月にスルタンの手勢によってザカルワイヒが殺害された事件の詳細が述べられている[Dhuyul/1: 22-24]。

11 Abu al-Qasim `Ubayd allah b. Sulayman b. Wahb b. Sa`id. 偉大な大臣たち、書記のシャイフたちのなかのひとり。ムウタディドの宰相をつとめ、イスラム暦288年に没した[校訂48ページ、注3]。

12 これと同じ物語が、カリフ=アミーンにもある。マスウーディーが Muruj al-dhahab でそれを述べている[校訂48ページ、注4]。

13 校訂本には minnati(親切、恵み)と母音符号がつけれらているが、munnati (力、強さ)と読むほうが意味的には通りがよい。おそらく後の himmati と韻を整えるために、そのような読み方をしたと思われる。

14 イブン・アルジャウズィーが、ムータミドとライオンの物語を述べている。このヒラール・サービーの物語に類似している。Muntazam 第5巻129ページを参照のこと[校訂49ページ、注1]。
 上述の箇所には、フファイフ・サマルカンディーの話が述べられている。彼がムータミドと一緒に狩に行った折、護衛兵のいないときにライオンが現れた。おびえるフファイフをムータミドは自分の馬に乗せ、自らは馬から降り抜刀してライオンに向かい、打ち倒した。

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