///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注36-41ページ///
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 イブラーヒーム・ブン・アルマフディー(Ibrahim b. al-Mahdi) 1が語るには、〔カリフ〕マームーン(al-Ma'mun)――神よかれに祝福を与え給え――がジブリール(Jibril〔b. Bukhtishu`〕)2に、水について、それがどれぐらいのあいだ変質しないかを聞かれました。そこでジブリールは、水がこれ以上はないほど清らかな場合には、決して変質しないことをお教えしました。私はジブリールの言ったことが正しいと思ったので、「信徒の長よ、私は二十数年前からカイサラ水(ma' al-qaysara)3を何瓶か持っておりますが、〔ms. 48〕それが変質したようには思いません」と申しました。するとマームーンは「そなたが言ったことはなんと驚くべきことなのだろう」といい、私の母の元に使者を送って、その瓶を所望いたしました。というのは、マームーンは、〔それで〕私を嘘つき呼ばわりすることができると考えなさったからです。使いの者がマームーンに瓶を持ってくると、その蓋にはカイサラからその水が汲み取られた年の日付が書いてありました。〔txt. 37〕屈辱と怒りに押し黙って目を伏せ、マームーンは私にわざとらしさと偽善に満ちた賜衣(khil`a)を賜りました。
 こうして約二ヶ月が経った頃、マームーンは私に伺候を命じました。〔私が訪ねると〕彼の前でその実が大きく種が小さい熟し切っていないナツメヤシ(al-busr)の話がでました。そこで私は「我が家の果樹園にはマーキリー種のナツメヤシの樹(nakhl Ma`qili)4があって、私がその熟し切っていない実の果肉の重さをはかってみたところ5、10ディルハムの重さがあり、その種には2ダーニク(daniqayn)の重さよりも軽い〔重さがあった〕のです」と申しました。するとマームーンは「神を畏れ給え、叔父君よ。信徒の長の叔父が嘘つき呼ばわりされることで、〔私の〕面目をつぶすようなことはなさらないでください」と私にいい、ついで、〔私の〕果樹園から熟し切っていないナツメヤシを10粒取り寄せるための人を遣りました。最初の実がマームーンの手に乗ると、彼はその重さをはかりましたが、それはまさしく9ディルハムあり、〔ms. 49〕その種には1ダーニクよりも軽い重さがありました。マームーンはこれにとまどい、驚きをあらわにされました。
 もし、くだんの瓶か見つからず、未熟なナツメヤシの重さ〔をはかった結果〕が実際にそうなったようにならなかったならば、イブラーヒームは自分の行った発言によって、嘘つきとなったであろう、もしくは〔そうではなくとも〕、実際のようにマームーンの怒りを買ったのである。
 また人の道として、人は自分の御上を中傷したり、御上のおられるところで中傷をしたりすることを慎まねばならない。すなわち、彼が語ったことが御上の耳に入ったばあい、たとえ彼をすぐに打ちのめすに至るような怒りを表さなかったとしても、〔御上はそのことを〕胸にしまっておくであろう。一方では、彼が御上の許で語った言葉によって、〔御上は〕彼を、自分の面前で悪を行った者という姿でみてしまう。それは、彼の本性を支配する悪意か、彼の胸中に深くしまい込まれた妬みによって〔彼がカリフの前で行う悪行なのである〕。
 マームーン――神よかれに祝福を与え給え――は〔有力な指揮官である〕フマイド・トゥースィー(Humayd al-Tusi)に語った。「友人はつらくあたれば敵となり、敵は親しくなれば友人となる。私は、おまえが自分の兄弟たちの欠点をあげつらっているのを知っている。彼らをおまえの敵の内に加えてはならない。賢い者は欠点はあるにせよ少なく、〔その欠点に関しても〕自分でよく分かっているものである。〔ms. 50〕私は、中傷にも疑惑にも慣れてはいない。」
〔txt. 38〕
 ムフリフ・アスワド(Muflih al-Aswad)が伝えるところによれば、スライマーン・ブン・アルハサン(Sulayman b. al-Hasan)は、ムクタディル――神よかれに祝福を与え給え――の宰相に任じられた際に、アリー・ブン・ムハンマド・ブン・アルフラート(`Ali b. Muhammad b. al-Furat)について語り、謗ることがあまりにも多かった。私にもムクタディル・ビッラーが、スライマーンから聞く内容に不快感をもっていることが明らかであった。そしてある日、またもやスライマーンがイブン・アルフラートと彼にまつわる出来事を繰り返し始めた。するとムクタディル・ビッラーが言うには、
 
   あぁ、彼らに対する中傷をやめなさい。お前たちの父に父親はないなどという6
   さもなくば彼らが占めていた場所を占めなさい。
 
 〔ムフリフが言うには〕私がスライマーンをよく見てみると、彼の顔色は真っ青になり、今にも地面が彼の足下で割れ落ちるかのごとくであった。そしてその後は二度とその話を繰り返さなかった。
 さて、私はこの箇所に、悪行とそれれにふける者への返報、狡賢さとそれを行う者へのその報いの物語を挿入する。思うに、この話は、その作り(fann)の点で価値があり驚くべきであり、善行を勧める〔効用がある〕。〔ms. 51〕たとえ、それがある時点〔の文脈〕に固定したものだとしても7

【1999.4.18:清水和裕】[[このページの先頭へ]]

 Maymun b. Harun b. Makhlad b. Aban al-Katib 8が次のように語って言った。私の祖父の Makhlad と Faraj b. Ziyad al-Rukhkhaji 9の間には、〔txt. 39〕徴税区やアフワーズ 10およびバグダード近辺の徴税業務(a`mal)や行政(wilaya)を巡って、敵意があるというのは、有名なことであった。ファラジュは、悪人で、裏切り者で、偽善者で、狡猾であった。それについての両者の間のそういった状態は、ラシード、アミーン、マームーンー神が彼らに慈悲を与えますようにーの時代に続いていたのであった。アミーンの乱のおりに、ディーワーン(帳簿)が燃えてしまった。それにはファラジュが払うべき莫大な金額があることが含まれていたのだが、彼は様々な手管や策略を使って、彼にかかっている横領をごまかしていたのであった。ところで、ある日、両者がマームーンの御前に居合わせることになった。すると、彼らは口論と非難の応酬を始めた。私の祖父は、その当時、一般の私領地の管理を管轄しており、〔ms. 52〕ファラジュは、カリフの私領地の管轄であった。そのとき、マームーンは、〔口論に〕口を挟んで、私の祖父に次のように言った。「ファラジュの決算書の全てはおまえのところにあり、彼がディーワーンに書かれていた決済をごまかしたことを、余は知っておる。おまえが知っていることの全て、彼に属するものについての一ヶ月の予算表を、余のもとに持ってくることのみが余を満足させることである。」すると彼は言った。「私はそれについて、覚えていることしかわかりませんので、家にある目録を調べ、信徒の長に説明いたします。」彼は言った。「よし、おまえが集められる限りのもの、彼の支払いの義務が確かめられるもの全てを集めよ。」そこで、祖父は、彼の決算書の全てがおいてある、自分の邸に帰った。彼は、ユーヌス・ブン・ズィヤードYunus b. Ziyad と ヤフヤー・ブン・ラーシドYahya b. Rashid という名の自分の書記を2人連れてきて、人を自分から遠ざけ、〔txt. 40〕彼ら2人とともに籠もって、彼が支出したものを引き、得たものを加えた。そして、彼らは、面前で筆記をする者が必要となったので、〔ms. 53〕ヤフヤー・ブン・ラーシドの年若い息子を手伝いに呼び、彼らは最初の日も次の日も彼を帰さなかった。彼らは二日二晩そのことを続けた。そして、彼らはファラジュが負うべき巨大な金額を導き出した。それから祖父のマフラドは、ファラジュに言い分があると認められるものを全て無効にし始め、その結果、明らかで、確実なものは、3千2百万ディルハム(32,000,000)となった。そして、ヤフヤーの息子は、三日目に家に帰った。ところで、彼らの家には、一緒に住んでいる、ファラジュ派のおじがいた。彼は言った。「坊や、どうしたというんだね。どうして、二晩も帰ってこなかったのかね。」それから、彼は若者から少しずつ聞き出し、情報を引き出し続け、ファラジュからの贈り物や厚遇を約束したりし続けたので、ついに若者はそのことについて全てを告白してしまい、捨てるものは捨て、差し引くものは差し引いた後にでてきたファラジュが負うべき金額について、彼に教えた。そこでこの男はファラジュのもとに急いで行き、〔ms. 54〕甥(姉妹の息子)が語ったことを彼に伝えた。彼は、それに動揺し、自分の幸運が去ってしまうと考えた。そこで、その夜、彼は私の祖父の家の門に、馬にも乗らず徒歩で行った。彼には1人のグラームがしたがっていたが、ろうそくも持たず、暗闇の中にいた。彼は門が閉まっているのを見て、タリーフTarifと呼ばれる我々の召使いの1人に低い声で「某よ、門のところにいるのだが」と呼びかけた。その召使いは、その声を聞き、彼を認めた。彼は言った。「 Abu al-Fadlですか。」彼は言った。「そうだ。内密におまえと話したいのだ。声を上げるな。」そこで彼は出ていって、言った。「何でしょうか、旦那様。それにこの様子は何ですか。」すると彼は言った。「今、おまえの主人のところに私が行けるように取り計らってほしいのだ。」彼は言った。「旦那様は、もう上(屋上)に上がってしまって、ご婦人たちと一緒です。そういうときには、私には、お目にかかることもお話しすることもできないのです。」彼は言った。「そこを何とかよろしく取り次いでくれ。」そこで彼は、彼にディーナール金貨の入った袋を与えて言った。「ここに400ディーナールある。これを受け取って、何とかしてくれ。」その金に対する欲がその召使いを動かし、彼は階段を上った。タリーフは語った。旦那様のところに近づくと、私は咳払いをしました。すると旦那様は警戒して、私に、「普段来ないような時間になぜ来たのか。許しもないのに、なぜそんなことをしたのか。」と言いました。私は、「あなたによい知らせをお話ししようと思いまして。」と言いました。すると彼は階段の上に来て「何だ」と言いました。私は、「〔txt. 41〕ファラジュが門の前にいます。ろうそくも持たないグラームを1人つれています。」と言いました。彼はしばらく頭をたれていましたが、私の方に頭を上げると、「彼はおまえに〔金を〕与え、誘惑したので、おまえはこのようなことをあえてしたのだな。本当のことを言いなさい。」と言いました。それで私は、「はい」と言って、彼にその袋を見せました。彼は、「それを彼に返して、〔その代わりに〕おまえの手の中にあるのと同額のものを受け取りなさい。それから、彼を家に入れなさい。」と言いました。

【1999.5.22:村田靖子】[[このページの先頭へ]]

1 ハールーン・アッラシード(Harun al-Rashid 766(763)-809)の弟(162/779-224/839)。マームーンの即位後、202/817年バグダードでクーデターを起こしカリフ位をねらうも失敗、その後は文化人としての生活を送った。

2 ジュンディシャプール出身の医学で著名なキリスト教徒家族の一員。

3 カイサーリーヤ al-qaysariya からきた言葉である。カイサーリーヤとは、ものを売っている場所であり、多くの場合、その中央に貯水池がある[校訂36ページ、注2〔一部のみ訳出〕]。[英訳33ページ、注1]では、これをシリアの都市カイサリーヤに由来するとしている。

4 バスラを流れる河のひとつマーキル河(nahr Ma`qil)に由来する[校訂37ページ、注2〔一部のみ訳出〕]。

5 校訂者は、qishratan min busratin を 「おそらくbusratan min busri-hi 〔の誤り〕であろう」と指摘しているが[校訂37ページ、注3]、あえて原文に従った訳を試みた。その際、一般には「皮」の意味で用いられる qishra をここでは「果肉」を指すとと考えた。

6 「父親はない」とは、父親が不詳であり血統が不明であるということであり、アラブ的な不名誉の意識を表現した言葉である。

7 写本では不鮮明である[英訳35ページ、注1]。

8 アッバース朝の書記の1人。バグダードで、297年没[本文37ページ、注7]。

9 ニスバは、Rukhkhaj から。カーブル地域のクーラと都市。彼は、マームーンからムタワッキルまでの時代、主要な書記であった[本文37ページ、注8]。

10 バスラとイランの間にある地域。肥沃さと高品質のサトウキビと暑い気候で知られる。ヤークートによれば、そこの人々は、けちで愚かで下品であるとされる。(Yaqut, Mu`jam al-Buldan, Beirut 1968, v.1 pp.284-86)[英訳35ページ、注3]。al-Jahshiyari によると、ラシードはファラジュをアフワーズに任命した。すると彼はそこで蓄財したので、非難が起こり、臣民が不満を訴えた。彼は、その国の財産からたいそうな額を着服したことで告発された。そこで、ラシードは、192年にマフラドによって、彼を退けた。その後、彼を許し、彼の徴税区に戻した (Al-wuzara' wa-l-kuttab, pp.271-272) [本文39ページ、注1]。

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