///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注22-30ページ///
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 そのうち、皇太后(al-Sayyida)1 ──神が彼女のお力になりますように──、王子たち──神が彼らに栄誉を与えますように──、宮中の女性縁者たち(huram 2 )──神が彼女らを守護なさいますように──、ハーディムたちへの手当に関する支出は、
  1ヶ月:6万1930ディーナール。
  12ヶ月:74万3196ディーナール3 。〔txt. 23, ms. 28〕
 そのうち、全ての厩舎の馬4 の世話係の賃金、臨時雇用者(murtaziqa)5 の報酬、治療費、鞍倉庫を管理する者の費用や、その他同様のものは規定の37日ごとに受け取られることになっており、それは、
  1ヶ月:8200ディーナール。
  30日の金額:20万0180ディーナール(?6 )。
  12ヶ月:7万9776ディーナール7
 また、そのうち、1艘のカリフの川舟(shadhat)8 と、カリフの居所にある4艘の川舟の乗組員たちへの、日数が40日である1ヶ月ごとに支払われる費用は、
  30日の金額が、102ディーナール。
  12ヶ月:1280ディーナール。
 〔ms.29〕そのうち、食客たちと彼らと同様の者たちへの、日数が45日である1ヶ月ごとに支払われるものは、
  50万38119 ディーナール。
  30日の金額:12万3570ディーナール10
  〔txt. 24〕12ヶ月:23万2315ディーナール11
 また、それのうち、常に毎年支払われている、猛禽たちの代金、馬の装飾布、ラクダのタール、宮廷のムフタスィブや鼓手12 たちの衣装、サワード産の羊13 の飼料、イマームたちへの報酬、エチオピア産の牛や牝羊14 の代金、〔ms.30〕それの飼料、カランダース(qalandas)15 のための使用人たち(farrash)の報酬、二大祭の宴会の費用、犠牲獣と氷の代金、二大祭で旗を運ぶために警察長官に支払われるもの、〔txt. 25〕野菜(ritab)、大麦(qasil)の代金、手綱引きたち(wahhaq)の鞍の代金、通行止め綱16 のためのロープの代金、乾燥キノコの代金の諸費用は、
  4万2007ディーナール。
 また、それのうち、フジャリーヤ奴隷兵たちや、殉教者(mutashahhidin)17 の子供たち、シャフィー(Shafi`)地区の行列の随員、衣装工房や武器工房、家具工房の職人への、日数が50日である1ヶ月ごとに支払われるものは、
  3万7604ディーナール。〔ms. 31〕
  30日の金額:1万4560ディーナール18
  12ヶ月:27万1520ディーナール。

【1998.12.5:村田靖子】[[このページの先頭へ]]


 〔txt. 25〕そのうちに、褒賞や贈り物について、カリフ──神が彼に力を与え給わんことを──の出費としてあてられるものがあるが、3ヶ月分を1ヶ月に換算すると、それらについては全額2万1000ディーナールである。〔txt. 26〕12ヶ月では、25万2000ディーナールである。
 そのうちに、カリフ──神が彼をお助けにならんことを──のために定められた、アフワーズ(al-Ahwaz)、トゥスタル(Tustar)19、ジャフラム(Jahram)20、ダール・アブジルド(Dar Abjird)21の織物工房(al-turuz)で〔作られる〕掛け物や敷物があるが、〔それは年額〕81万4000ディーナールである22
 〔ms. 32〕そのうちに、臨時出費にあてられるものがあるが、1ヶ月では、1万6530ディーナールである。12ヶ月では、17万8940ディーナールである。
 そのうちに、新築、修復に使われるものがあるが、〔それは年額〕5万1100ディーナールである。
 そのうちに、各地から運ばれた家畜用の大麦があるが、その額は、1万6855ディーナールである。
 別にそれの運搬費用、3万3900ディーナールがある。〔txt. 27〕
 それで〔支出は全部で〕256万960ディーナールである。〔ms. 33〕
 アリー・ブン・イーサーは、集計した支出を〔抑えて〕、前に述べた収入に対して、143万6476ディルハムの剰余が出るようにした。それが、彼の狙った目標であり、彼の目指した目的だった。

 アブドゥッラフマーン・ブン・イーサー(`Abd al-Rahman b. `Isa)23は〔次のように〕話してくれた。

 カリフの召使いの一人が私にこう話してくれました。ワズィール=アリー・ブン・イーサーがあるひどく寒い日、その日は出仕の日ではなかったのですが、カリフ宮(dar al-sultan)に上がり、ムクタディル──神が彼に祝福を与え給わんことを──は〔彼が来たのを〕知って、彼のために中庭の一つで椅子に座りましたが、頭には何も被っていませんでした。ワズィールは話そうとしたことを話し、話し終えると、カリフに言いました。
 「カリフよ、このような寒い朝に外に出ておいでになって、このような広い中庭に座り、頭には何も被っておいででない。人々はそのような時には屋根のある場所に座り、頭を覆う布を用い、火に暖を求めるものです。あなたは熱い飲み物や〔ms. 34〕麝香の沢山入った食べ物をとる贅沢をしているのだと思いますよ。」
 すると、ムクタディル──神が彼に祝福を与え給わんことを──は彼に、
 「とんでもない。私はそんなことはしていない。麝香の入った食べ物を食べたりしない〔txt. 28〕〔麝香は〕何にも私のためには入れられずに、だたフシュクナーナジュに入っている少しの〔麝香〕だけだ。その一つを数日のうちに食べたかもしれないが。」
 と言いました。そこで、アリー・ブン・イーサーは彼に、
 「では、カリフよ、毎月麝香にかかる厨房の全経費については、300ディーナールほどにしましょう。」
 と言って、二人の話は終わりました。そしてムクタディル──神が彼にお恵みをお与えにならんことを──は立ち上がり、アリー・ブン・イーサーは退出した。中庭を歩いているときに、ムクタディル──神が彼にお恵みをお与えにならんことを──は立ち止まって、ワズィールに戻るように命じ、彼が戻ると、彼に、
 「お前は直ぐに立ち去って、厨房の責任者を呼び出して検討を始め、我らの間で麝香のことについて交わされたことに彼と合意して、それを少なくするのであろうな。」
 と言いました。彼が、
 「その通りです、カリフよ。」
 と言うと、笑って、
 「そのようにして欲しくない。恐らくその金は、人々の食べ物や出費に使われているのであろう。それを彼らから取ってしまいたくはない。」
 と言いました。そこで、ワズィールは彼に、
 「仰せの通りに従います。」
 と言いました24

【1998.12.27:近藤真美】[[このページの先頭へ]]

〔ms. 35〕

 ラシード(al-Rashid)25──彼に神の祝福がありますように──の時代の全国(mamalik)の税収については、ライヤーン・ブン・アッサルト(al-Rayyan b. al-Salt)がこう語っている。
 税務庁(diwan al-kharaj)の任にあった書記官アブー・アルワズィール・ブン・ハーニ・マルワズィー(Abu al-Wazir b. Hani' al-Marwazi)26が語るところによると、179/795-796年にヤフヤー・ブン・ハーリド・ブン・バルマク(Yahya b. Khalid b. Barmak)27が彼に諸地方の課税額(waza'if)を明らかにするよう命じた。それの総計は、彼が述べた細目によると、銀貨換算で(bi-al-wariq)28〔txt. 29〕 338,910,000 ディルハム、金貨換算で(bi-al-`ayn)29 5,830,000 ディーナール余り30であった。198/813-814年のアミーンの騒乱の際に帳簿は燃えてしまった。199/814-815年のサワードの徴税区(tasasij)、多くの地方(buldan)、東西の諸地域(kuwar)からの税収は、作り直した帳簿に書かれた〔ms. 36〕、貨幣に換算した収穫と銀貨に換算した金貨の分を含む総計によると、銀貨換算で416,922,000ディルハムであった。

 イスマーイール・ブン・スバイフ(Isma`il b. Subayh)31は語った。
 ある日ラシードが、ご自分が所有するものの総計を私に尋ねられたので、私は申し上げた。
「873,000,000ディルハムでございます。」
「それが1バヌールに達すればよいのだが──1バヌールとは10億のことである──。」
「神は私にそれほどのものを見せたことはございませんし、それほどのものは実際ございません。」
 彼は笑っておっしゃった。
「お前は、人間は望みを果たすと死んでしまうと思っているようだな。」
「私はそのような考えは抱いておりません。それどころか、信徒の長は〔txt. 30〕永遠に財産が増し、永くこの世にあられることを願っております。」
「では、私の父──マンスール──彼に神の祝福がありますように──のことを言っているのである──の財産はどれほどであったのか。」
「あなたの財産は父君より10,000ディルハム多うございます。」

 アリー・ブン・イーサーとアリー …は語った…32〔ms. 37〕

 征服者たる…と支配者たる諸地域の主たちを…ラーディー(al-Radi)33──彼に神の満足がありますように──の時代の監査官たち(nazirun)が、毎日の支出を削減、制限、減額、節約によって3,000ディーナールに見積もって定め、それの1年分の総計として、サワード、ワースィト、バスラ、エジプト、シリアの優良な私領地から〔の税収を〕あてた。それらの地は、それ以上の収穫があったのである。この政令はそのまま、ムティー(al-Muti`)34──彼に神の祝福がありますように──の時代まで続いたが、秩序が瓦解し、エジプトとシリアが征服されて35、その大半に手が及ばなくなって現状のようになってしまった。アリー・ブン・アブドゥルアズィーズ・ブン・ハージブ・アンヌーマーン(`Ali b. `Abd al-`Aziz b. Hajib al-Nu`man)36が語るところによると、ムティー ──彼に神の慈悲がありますように──の税収は300,000ディーナールであり、ターイー(al-Ta'i`)37の税収もそれに近かったという。

【1999.1.30:矢島洋一】[[このページの先頭へ]]

1 彼女は、カリフ・ムクタディルの母で、名前は Shaghab である[校訂22ページ、注3]。

2 sg. hurma.

3 1ヶ月の金額を12ヶ月にしたものは、一致しない。おそらく、1ヶ月の日数が異なるからであろう[校訂22ページ、注4]。だが、1ヶ月の額を3ディーナール増やして6万1933ディーナールとすると計算が合うので、筆写の段階で「3」が抜け落ちた可能性もある。

4 馬の総称。または、馬、ラバ、牛、羊をいう[校訂23ページ、注1]。

5 賃金で働く正規の兵士。国庫から、アターを支給される[校訂23ページ、注2]。

6 写本の文字がはっきりしない[校訂23ページ、注3]。

7 英訳は、9万9796ディーナールとしている[英訳24ページ、本文14行]。

8 小さな川船の一種[校訂23ページ、注4]。

9 この部分は写本でははっきりしない[校訂23ページ、注6]。 英訳では、この前に、「12万5000ディーナール」を入れている[英訳24ページ、本文20行]。

10 英訳では、12万3517ディーナール[英訳24ページ、本文21行]。

11 英訳では、20万0315ディーナール[英訳24ページ、本文22行]。

12 カリフの宮殿で5回の礼拝時に太鼓をたたく者[校訂24ページ、注2]。

13 イラク産の品種の一つ。質のよい羊毛がとれる[校訂24ページ、注3]。

14 牛の種類。牛乳が多く、マスウーディーは、エチオピアの国のところでそれを誉めている[Muruj al-dhahab, 3:26-28][校訂24ページ、注4]。

15 キリスト教徒の祭りの一つ。今日、年始の祭り、または、割礼の祭りとして知られる。ラテン語のCalendae で、qalandasとも綴る。ビールーニーは次のように言っている。「・・・キリスト教徒の子供たちが集まり、大きな声で、カーランダス、カーランダスと言いながら、家々を巡って、そこで食べたり飲んだりする・・・。」[al-Athar al-baqiya, pp.292-294] また、それについて、以下のものが言及している。 Muruj al-dhahab, 3:406-412; Ahsan al-taqasim, pp.182-183; `Ajaib al-makhluqat, p.76 [校訂24ページ、注5]

16 道、川、港などに張る綱。ウシュールを取るために、それで船や通行人を止める[校訂24ページ、注6]。

17 おそらく、もとは mustashhadin であろう[校訂25ページ、注4]。

18 英訳では、2万4560ディーナール[英訳25ページ、本文12行目]。

19 フーズィスターン最大の都市。良い衣服やターバンがここで作られていた[Mu`jam al-Buldan 1: 847-850]。

20 イランの都市の一つ。良いカーペットが作られていた[Mu`jam al-Buldan 2: 167]。

21 Darabjirdとも。イランの村。地下資源が豊富。イスタフリーによれば、近くに塩の山があったとされる。ニーシャープール、イスタフルにも同名の地があった[Mu`jam al-Buldan 2: 517, 560-561]。

22 葉末であるため、はっきりしない[校訂26ページ、注4]。

23 アリー・ブン・イーサーの兄弟。カリフ=ラーディー(al-Radi bi-Allah 在位934〜940年)のワズィール[校訂27ページ、注3]。

24 Tuhfat al-Umara': 352-353参照[校訂28ページ、注2]。

25 在位170/786-193/809年。

26 `Umar b. Mutarrif al-Katib. 162/778年税務庁に任じられる[校訂28ページ、注4]。

27 ハールーン・アッラシードの治世に17年間にわたって無制限の権限と共にワズィールの地位を占めた。ハールーンによるバルマク家断絶の後、ヤフヤーは死ぬまで牢獄に幽閉された。190/805年没。EI, vol. 4, p. 1245; vol. 1, pp. 691-693 参照[ロシア語訳104ページ、注89]。

28 Abu `Abd Allah al-Khwarizmi, Mafatih al-`ulum, Lugduni-Batavorum 1968, p. 11 参照。

29 al-`ayn:銅か銀か金で造られた貨幣[校訂29ページ、注2]。資本財?で (in capital goods)[英訳27ページ]。

30 おそらく書写生の誤りで、「15,830,000 ディーナール余り」と読むべきである。5,830,000という数字では1ディーナールが58ディルハムになってしまい、実状に一致しない[ロシア語訳105ページ、注90]。

31 Isma`il b. Sbayh al-Thaqafi:著名な書記。一連のカリフ、ワズィール、書記に仕え、168/784年マフディーにより税務庁の監査官に任じられる[校訂29ページ、注3]。ワズィール=ヤフヤー・ブン・ハーリド・ブン・バルマクのカーティブで、ハールーン・アッラシードの治世にディーワーン・アルハラージュの長となる[ロシア語訳105ページ、注91]。

32 以下、一葉ないし数葉の欠落があると思われる。

33 在位322/934-329/940年。

34 在位334/946-363/974年。

35 ファーティマ朝による征服を指す。

36 文学者、書記、詩人。ターイーとカーディルの二人のカリフの許で40年間書記を務めた[校訂30ページ、注5]。

37 在位363/974-381/991年。

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