///アラビア語写本史料研究会『カリフ宮廷の儀礼』日本語訳注訳注18-22ページ///
[[前のページ(訳注14-18ページ)へ]]

 繁栄していた頃のバグダードについて言うと、ムータディド(al-Mu`tadid bi-allah)──彼に神の祝福がありますように──の治世について述べている1冊の本が手に入った。その時期は、バグダードのかなりの部分を消失させ破壊し、ひどい傷跡を残したアミーン(al-Amin)──彼に神の慈悲がありますように──の騒乱よりも後に当たる。その本は、Kitab Fada'il Baghdad al-`Iraq という表題で、ヤズダジルド・ブン・ミフバンダール・ファーリスィー(Yazdajird b. Mihbandar al-Farisi)がカリフ=ムーダディド──彼に神の祝福がありますように──のために著したものである1 。著者はその中で次のように述べている。

 人々はイラクのバグダードについて誇張しているが〔ms. 20〕、そのことを示す証拠が挙げられているわけでも事実が提示されているわけでもない。ただ「〔バグダードは〕他の都市と比較にならない都市であり〔txt. 19〕過去にもそれに類するものが無かった都市である。」などと述べられているだけである。このような類の話で最も小さいものは、バグダードには200,000軒からその倍の浴場があるというものである。マスジドや仕立屋(al-tirazat)についても、同様の数からその倍までの開きがある2 。もし証明の要求や証拠の提示を執拗に求められても、〔以上のような数を挙げている者達は〕事実に基づいた言葉や信用できる証拠を示さないであろう。
 我々は、最も偏りのない方法と最も納得しやすい事柄に即して記述を始めることにする。聞き手を誇張の過ちから守るために、浴場の数について言われているようなことや、住居やマスジドや仕立屋について信じられているようなことは述べない。さて、我々は貴賎を問わず多くの人々が〔ms. 21〕浴場の数について発言していることを知っている。それによると、その数は200,000軒か、またはそれ以下である。また他の者は「いやその数は130,000軒である。」と言ったり、120〔,000〕3 軒と言っている。シャーフ・ブン・ミーカール(al-Shah b. Mikal)4 とターヒル・ブン・ムハンマド・ターヒリー(Tahir b. Muhammad al-Tahiri)がこのように述べている。また彼らの前後の時代には、100〔,000〕5 軒前後の数も挙げられている。
 我々は以上の相違を、我々が平均的な基準であり容認可能な判断であると考える範囲と定めたうえで、注意深く浴場の数を60,000軒にした。その理由を示すと以下のようになる。まず、浴場の数について言われている数字と、上層の人々(al-khassa)の多くが確信を持って主張している数の平均、すなわち120,000軒を採る。そして、評価を誤ったりそれを受け入れるのに胸が痛むことのないように、その120,000の半分に抑えたのである。
 次いで各浴場が必要とする〔ms. 22〕不可欠な6 職員の見積を考察したところ、1軒の浴場に6名が必要であることが判った。その6名とは、金庫番、管理人、風呂焚き人、清掃人、理髪師、瀉血師である。この数の倍の人員が1軒の浴場に関わることもあるが、我々はこの考察においては慎重な方法に則った。浴場の数を60,000軒と見積ると、そこにおける職員、理髪師、瀉血師の数は360,000人となる。
 次いでこのような概算方法で〔txt. 20〕、カリフ=マンスール──彼に神の祝福がありますように──の都市における浴場の数に対して存在した住居〔の数〕を参考にしながら各々の浴場に200軒の住居を割り当てた。それは1軒の浴場につき400軒の住居というものであるが、慎重を期してその半分を採った。この割り当て方に基づくと住居の数は〔ms. 23〕12,000,000軒となる。
 次に以下のことを確認した。すなわち、1軒の住居に20名が住むこともある一方で別の家には2〜3人あるいはその前後の人数しか居ないこともある。偏りが無く疑いが無いような平均的な数を割り当てなくてはならなかった。そこで、その20から半分を減じ、3を倍にして、残った数と増やした数を合わせると16となった。そしてその半分の数を採り、老若男女合わせて8名となった。こうして、これらの住居が含む人数は全部で96,000,000人ということになる。

【1998.10.24:谷口淳一】[[このページの先頭へ]]


 そこでこの著作の著者は以上の計算に基づいて、この人口数が必要とするいろいろな食料や必需品や衣類を類推した。彼が述べることのひとつとして言うには、「アブドッラー・ターヒリー(`Abd Allah a-Tahiri)が伝えるには、イスハーク・イブラーヒーム・ムスアビー(Ishaq b. Ibrahim al-Mus`abi)は以下のように語った。彼に知らされたところによれば、バグダードの片岸で毎日売られる〔ms. 24〕煮空豆の総額は6万ディーナールである。つまり、両岸では全部で12万ディーナールになる。」これ以外にも彼が引用し、説明したことがあり、それに関して深く考察し、要旨を述べている。
 さて、バグダード関するこれらの内容を、我々の意図する目的からはずれてまで述べてきたのは、我々が王宮に関して語ったことが誇張であると思われるといけないからである。私の祖父イブラーヒーム・ブン・ヒラール(Ibrahim b. Hilal)が語ることには、ムイッズ・アッダウラ(Mu`izz al-Dawla)の時代に浴場の数が数えられ、それは1万7000軒であった。そこで彼らは、ムクタディル・ビッラー――彼に平安あれ――の時代には2万7000軒が存在していたのに比して、浴場がこの数にまで至って〔減って〕しまったことに驚嘆した。さらに、アドゥド・アッダウラ(`Add al-Dawla)の時代に数えられて、その数は5000軒と若干であった。またバハー・アッダウラ (Baha' al-Dawla)の時代382年には、1500浴場〔ms. 25〕と少し、そして現在では、その数は150数浴場となっている。
 私はこのこと〔風呂の数〕についての異なった話や昔からいわれていたことに以前から驚嘆していた。そして、私は証拠をみつけた。というのは、バーブ〔txt.21〕・アルマラーティブ地区 (Bab al-Maratib)には、〔以前は〕30軒の邸宅に人が住んでおり、そこの住人がいなくなった後は空き家となっているのだが、15軒の浴場があったと推定される。もし、この数少ない邸宅と近しい側近の数にこれをあてはめると7 、ムータディド・ビッラー (al-Mu`tadd bi-Allah) ――神よかれに祝福を与え給え――の時代にはエリート、すなわち宰相、書記、付き人 (al-hawashi)、話し相手 (al-ashab) 、王子、指揮官 (al-quwwad)、ムハンマドの血縁 (al-ashraf)、裁判官、証明人、地主 (al-tunna')、商人、さらには男気のあって裕福な生活をしている人々、こういった人々の数は、我々が慎重にそれを限定しても、5万人より少ないことはない。そして、彼ら一人一人の邸宅には少なくともひとつの浴場があるはずであり〔ms. 26〕、それどころか彼らのうち多くの邸宅には、複数の浴場があるのである。この言葉が確かであるとすれば、この主張はこの言葉によって帰結し、最大にとる説が最少にとる説よりも正しくなければならず、三つの橋が架かる河、チグリス川が横切る土地 (balad)の人口が前述の数にまでなることも不可能でないことがわかるのである。

 アリー・ブン・イーサー (`Ali b. `Isa) は306年8 の国家税収9 に関して作成した予算表10 について語り、世の中が物資に事欠き、資金が不足していることを嘆いた。そして、両聖地、イェメン、バルカ (Barqa)、シャフラズール、サーマガーン (al-Samagan)、キルマーン、ホラーサーンを〔課税対象地から〕除外した。結果的な総額は、〔txt.22〕1482万9840ディーナールであった。
 伝えられている歳出及びカリフ個人支出は、彼の言によるかぎり〔以下の通りである〕。〔ms.27〕
 このうち、カリフ専用厨房および公的厨房のトルコ人への経費、宮廷外での経費、動物、鳥、猛獣への餌代、日ごと月ごとの地方における滞在費と旅費についての原則に関して定まっていること。
 1ヶ月:4万4070ディーナール
 12ヶ月:52万8840ディーナール

【1998.11.21:清水和裕】[[このページの先頭へ]]



1 この書の引用部分については、本書の校訂者アッワードが本書に先行して1962年に出版している。[校訂18ページ、注3] またこの書はハマダーニーの以下の書物にも引用されているが異同が多い。[Ibn al-Faqih al-Hamadhani. Ed. Salih Ahmad al-`Ali. Baghdad Madinat al-Salam. Baghdad, 1977.] なお F. Rosenthal は、著者の名を Yazdjard b. Mahbunda:d al-Kisrawi としている。[F. Rosenthal. A History of Muslim Historiography. Leiden, 1968: p. 153, n. 4]

2 以上の部分は難解である。仮の訳を提示しておく。

3 校訂者による補い。

4 この人物は9世紀後半に活躍したアッバース朝の軍人である。[Ibn al-Faqih. Baghdad Madinat al-Salam: p. 164, n. 12]

5 校訂者による補い。

6 校訂者が quwwam(職員達)と読ませている語を qiwam(立つこと)と読み、全体として la qiwamu la-hu illa bi-him「彼ら無しでは浴場が成り立たない」と解釈する。

7 以下、この段落におけるヒラール・サービーの論旨は不明瞭であり、理解が困難であった。

8 これはアリー・ブン・イーサーが宰相に任じられていた時期に作成した、最も素晴らしい予算表である。[校訂21ページ、注5]

9 al-irtifa:` とは国家の官庁のうちのある庁において徴収される資金の額であり、また、官庁における資金の総額である。[校訂21ページ、注4]

10 al-`amal とは我々の時代では al-mi:za:ni:ya と呼ばれているものである。[校訂21ページ、注3]

[[このページの先頭へ]]
[[次のページ(訳注22-30ページ)へ]]