第1章 素晴らしき宮殿
〔txt. 7〕
では、素晴らしき宮殿1 の事情を述べることから始めよう。
それは、非常に広大な宮殿で、今宮殿が建っているこの残っている驚くべきものの何倍もの〔敷地〕に建っていた。その証拠に、その宮殿は動物園とスライヤー宮(al-Thurayya)2 に連なっていたが、現在の両地の距離は遠く離れている。しかしながら、両地が宮殿から分かたれて、〔ms. 9〕宮殿から両地〔の間〕の空間が広がってしまっているのは、ムクタディル(al-Muqtadir bi-Allah)3 ──神が彼に祝福を与え給わんことを──の退位と復位、カーヒル(al-Qahir bi-Allah)4 の監禁と通称アブー・アルアイジャー・ブン・ハムダーン(Abu al-Hayja' b. Hamdan)5 殺害の騒乱の折り、そしてその後の様々な者の手による一連の大混乱の折りの家屋、住居、建物、建築物の火災と破壊の結果である。それらこそが宮殿の大部分を破壊し尽くしてしまったのだ。
また、宮殿についてもう少し言うと、宮殿には宮殿のための農地、農民、家畜、〔txt. 8〕そして宮殿にいる住人や供回りの者たちのために400軒の風呂があった。ムクタフィー(al-Muktafi bi-Allah)6 ──神が彼に祝福を与え給わんことを──の時代について言えば、皆の一致するところでは、宮殿には2万人の宮廷付き奴隷(ghulam dariya)7 、1万人の黒人の召使い(khadim sud)と白人奴隷(saqaliba)がいた。ムクタディル──神が彼に祝福を与え給わんことを──の時代について言えば、皆の一致するところでは、宮殿には1万1000人の召使いがおり、内訳は、黒人7〔000〕人、〔ms. 10〕白人奴隷4〔000〕人だった。また、4000人の自由民ないし奴隷の女たち、何千人ものフジャリーヤ奴隷兵(ghilman hujariya)がいた。また、宮殿の維持を定められているマサーッフィーヤ歩兵(rajjal masaffiya)8 の一隊が5000人、番兵(harras)が400人、従者(farrasun)が800人であった。〔txt. 9〕また、治安部隊長(sahib al-ma`una)ナーズーク(Nazuk)9 の配下にある国の治安部隊(shihnat al-balad)が、騎兵・歩兵併せて4万人であった。
逸 話
カーディー=アルフサイン・ブン・ハールーン・アルダッビー(al-Husayn b. Harun al-Dabbi)が話してくれたのだが、マンスール・ブン・アルカースィム・アルクンナーイー(Mansur b. al-Qasim al-Qunna'i)が彼にこのように話したという。
祭日の私の常として、私の特別な役割が定めるところに従って、夜明け前の薄暗がりのうちに乗り物に乗ってワズィール=アリー・ブン・イーサー(`Ali b. `Isa)10 の館へ行き、彼と共に礼拝所へ乗り物で向かい、そこからスルターンの宮殿へ行って、〔txt. 10〕それから彼と連れだって彼の館へ戻り、彼の供回りの者が解散するまでは彼の前に座して、それから彼と食事を共にするのです。ところがある祭日に、たまたまこのようなことがありました。
〔ms. 11〕私は、朝少し遅くなってしまい、急いで乗り物で出掛けたところ、ある小路から出たところで、ナーズークが供回りの者を従えて横切るのに会ってしまいました。彼のもとには、行列用の蝋燭を携えた500人以上の従者たちがおり、それ以外にもナフサの松明をもった者もいて、彼らはもっと大勢いました。そこで私は、彼が通り過ぎるのを待たねばならず、それでますます朝遅れてワズィールの館に来ましたが、彼は既に乗り物で出てしまっていて、私は彼を追って礼拝所まで行きましたが、彼の周りには人が多すぎて、彼にお仕えすることはできず、スルターン宮まで彼を追いかけていくと、その事情はこのときも同じで、〔ようやく〕彼に追いついて彼の館へと着いたのです。
彼は私を見ると、
「今日はどうして私たちに御無沙汰だったのか、アブー・ファラジュよ。」
と言いましたので、私は彼に、私の事情とナーズークの行列が横切って、私の来るのが阻まれたことを説明しました。私は、言い終えて、自分が言ってしまったナーズークのことの称賛を後悔しました。というのも、ワズィールは彼を嫌っていて、彼をよく思っていなかったからです。また、彼の常としても、自分に対する厳しさ、気難しさ故に、このような傲慢さや虚飾を嫌っているのです。私は、その座〔での話〕がナーズークのもとに届いて、〔ms. 12〕彼が私〔の口〕からでたその座のことが、自分についての中傷であり、ワズィールを自分にけしかけたのだと考えるのではないかと心配したのです。私がその考えと悪い推測に逡巡しているうちに、ナーズークが入ってきて、ワズィールの手に接吻して、立ち止まりました。
1 もともとは、第7代カリフ=マームーン(al-Ma'mun. 在位 813〜833 年)のワズィール=ハサン・ブン・サフル(al-Hasan b. Sahl)の城。その後、彼の娘ブーラーン(Buran)(カリフ=マームーンの妻)に譲られた。第16代カリフ=ムータディドは、ティグリス川河岸に城を加え、周囲に壁を巡らせた。この時の宮殿は、シーラーズと同じほどの大きさの町だった。後に、第17代カリフ=ムクタフィー(al-Muktafi bi-Allah)がタージュ(al-Taj)宮を加え、第18代カリフ=ムクタディル(al-Muqtadir bi-Allah)によって多くの改修がなされた[英訳13ページ、注1]。
2 第16代カリフ=ムータディドが、バグダード東部に立てた大きな宮殿。1073年には跡形もなくなっていた[校訂7ページ、注4]。
3 第18代カリフ。在位 908〜932年。
4 第19代カリフ。在位 932〜934年。
5 `Abd Allah b. Hamdan al-Taghlibi al-`Adawi。ハムダーン家出身の有名なアミール。ムクタフィー、ムクタディル両カリフの時に活躍した。929年に殺害される[校訂7ページ、注7]。
6 第17代カリフ。在位 902〜908年。
7 カリフ宮の維持、カリフの護衛にあたった[校訂8ページ、注2]。
8 カリフ宮を守るための兵士で、歩兵と騎兵がいた。カリフ=ムクタディルの時代には既によく浸透していた[校訂8ページ、注6]。自由民であったのか奴隷であったのかは不明。
9 Nayzukとも。トルコ人アミール。アッバース朝期、特にカリフ=ムクタディルの時代に重要な役割を果たした。929年に殺害される[校訂9ページ、注2]。
10 アッバース朝期の有名なワズィール。ムクタディル、カーヒル両カリフの時代にワズィールとなった。ディーワーン・アルビッル(diwan al-birr)の創設者。945年没[校訂9ページ、注6;英訳14ページ、注3]。
11 あるいは「スルターンの代わりにあなたに」か。
12 305/917年のこと。ビザンツ皇帝コンスタンティヌス7世が、ムクタディルに停戦と捕虜解放を求める使者をバグダードに送った[校訂11ページ、注1]。
皇帝コンスタンティヌス7世を指す。彼はムクタディルと和平協定を結ぶための使者を送った。ワズィール=イブン・アルフラートが2度目のワズィール位の最初の数カ月にその豪華な歓迎会を手配した。その際の贅沢は、財政難を考えれば注目に値する。イブン・アルフラートの華やかな生活ぶりは有名であり、彼はワズィール位につくと氷と蝋燭に多額の金を費やしたので、それらの価格は彼がワズィールになると高騰し、ワズィールをやめると下落したと言われている。イブン・アルフラートとその経歴の浮沈の話は、ワズィール=アリー・ブン・イーサーのそれと関連している。結局、イブン・アルフラートとその息子ムハッスィンはムクタディルの命令で首をはねられ、ユーフラテス川に投げ込まれた。Miskawayh, Tajarib, V, pp. 13, 20, 42, 44, 56, 119ff. を見よ[英訳16ページ、注1]。
ビザンツ皇帝コンスタンティヌス7世(913-959年)は、916年の戦争と内政の失敗により、ムスリムとの和平を求めざるを得なくなった。305/917年、ビザンツの大使二人が休戦と捕虜交換に関する協議を始めるためにカリフ=ムクタディルの宮廷に送られた。豪華な歓迎会とカリフとの謁見の後その協定が結ばれ、917年10月、ラミス川(シリア)で八日間続けて捕虜の交換が行われた。休戦はしばらく続いたが、まもなくアラブ人は戦争活動を再開した。A. A. Vasil'ev, Vizantiia i araby, 2, pp. 208-213 参照[ロシア語訳101ページ、注20]。
13 これらはアッバース朝時代のバグダードで使われていた六種の船の名であり、様々な歴史書、文学書に多く言及されている。それについては、Habib Zayyat, Mu`jam al-marakib wa-al-sufun fi al-islam, Bayrut 1950, pp. 335-336, 338, 342, 343, 344-345, 348-349 を参照[校訂12ページ、注8]。
14 Abu al-Qasim Nasr al-Qushuri. カリフ=ムクタディルの侍従(316/928-29年没)。
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