メンバーの声

メンバーの声1(私市正年、1998年7月30日)

以下のファーティマ・メルニシさんの本は、「他者認識」は地域研究の重要な要素なので、その点からすれば地域研究の成果とは言えませんが、臼杵陽さんが問題提起した「時間の壁を越えた研究をいかに進めるか」、ということでは非常に参考になりますので、紹介します。(私市正年)
Fatima Mernissi, Islam and Democracy-Fear of the Modern World, London, Vigaro PRESS, 1993,195p.
ファーティマ・メルニシ『イスラムと民主主義現代への恐れ』
*原文はフランス語で書かれています。ただしメルニシさんは英語もよくできますし、私が昨年彼女に合った折り、英語訳本について尋ねたところ、「自分で目を通したが、非常に正確に訳されている」とのことでした。
La peur-modernite: Conflit Islam democratie, Paris, Albin Michel

  1. 著者について
    ファーティマ・メルニシは、世界的に著名な女性の社会学者、政治学者、フェミニズム運動の活動家。モロッコのフェス生まれで現在は、ムハンマド5世大学教授。Beyond the Veil(『ベールのかなたに』)はもっとも有名な書で、英・仏・独その他数カ国語に翻訳されている。国連大学の講師をつとめたこともあり、わが国にも数回、来日したことがある。彼女は、学者として優れているだけでなく、女性、人権、民主化問題などの活動のリーダーとしても著名な人である。従って、アラブ世界だけでなく、欧米、東南アジアなどでNGO活動を支援している。  
  2. 本書の特徴
    • 章立て
      序 湾岸戦争:恐れとその境界
      第1部 切断された現代
       第1章 西欧への恐れ
       第2章 イマームへの恐れ
       第3章 デモクラシーへの恐れ
       第4章 国連憲章
       第5章 コーラン
      第2部 神の思想と神聖なる不安
       第6章 思想の自由への恐れ
       第7章 個人主義への恐れ
       第8章 過去への恐れ
       第9章 現在への恐れ
       第10章 女性の歌:自由を求めて
      結 私たちこそ、自由なシモルグ!
    • 内容
      全体の論旨は、イスラム諸国が西欧の思想や価値観を外来のものとして受容を拒否する論理の矛盾を見事に解明している。1980年代の末、東欧の政治的変動、ソビエト・ロシアの崩壊はイデオロギーの対立の終焉を明示しただけでなく、東南アジア・中東のイスラム諸国の民主化を促進させた。そうした政治変動でベルリンの壁が無意味になったように、湾岸戦争で明らかになったことは、西欧文明や思想に対して壁(理由・政策)を作って阻止しようとすることの無意味さである。なぜなら、思想の壁によってイスラム諸国は強化されたどころか、欧米のハイテクの前に屈辱的敗北を強いられ、戦後のアラブ民衆の中には卑屈感と無気力が漂い、癒しがたいトラウマだけが残ったからである。その壁で保護されるはず(アラブ・イスラムの論理では)の女性や子どもは、戦争の最大の被害者であった。
      著者によれば、湾岸戦争中にアラブ・イスラム諸国の多くで、平和のためのデモを率先しておこなったのは女性たちであった。エジプトでも、モロッコでも数十万の人々が多国籍軍による爆撃の停止と平和を要求する運動を展開したが、男性たちはそのヘゲモニーをとることはできなかった。これは、明らかに女性たちが湾岸戦争によってこれまでの欺瞞的な政策を見破ったからに違いなかった。女性の保護という名のもとにベールの強制、家庭や育児に専念。イスラム的伝統という名のもとにポリガミー(一夫多妻制)。イスラム的価値の維持という名のもとにデモクラシーの制度を拒否、国連に加盟していながらその精神を意図的に隠そうとする国家政策などなど。
      メルニシはこれらの欺瞞的な姿勢を、国家指導者に見るだけでなく、いわゆるイスラム・ファンダメンタリスト(原理主義者たち)の中にも見る。彼らは、自己の権威を保持したいがためにイスラム的価値を持ち出している。その意味では、国家とファンダメンタリストは同じ次元で厳しく批判されている。
      では、著者は何を積極的に主張しようとしているのか。彼女は、個の思想の自由、人間の生の尊厳、民意に基づく平和的な解決手段などはいかなる文明・国家にあっても土台をなしうる価値だと考えている。それをデモクラシーの核をなす普遍的価値ととらえ、21世紀の世界、とくにイスラム世界にとって欠くことのできない要素と見る。ところが、最近のイスラム諸国の事情は、国家も国民も、西欧の思想への恐怖心を抱き、湾岸戦争による心的外傷はむしろ逆向する形でイスラム的価値を強調し始めている。
      西欧のデモクラシーの思想を外来のものとして拒否する風潮、イスラムとデモクラシーを両立しえないと説く論調が、先に見たようにいかに欺瞞に満ちているかを明らかにしなくてはならない。ところが、イスラム社会に関するデモクラシー論は、イスラムの過去にまでさかのぼり、コーランや中世のアラビア語史料にまであたって、両者の関係を論証したものは皆無である。本書の最大の価値は、イスラムとデモクラシーという現代的課題を、アラビア語原史料と現状の調査とを比較検討することによって、精緻に分析した点にある。政治学者、社会学者はともすれば現状分析的研究、あるいは理論的分析に傾きがちである。そうした分析では、イスラムとデモクラシーを矛盾的、対立的にとらえる視点からの脱却は難しい。しかし、メルニシはそうした研究の欠陥を補いながら、鋭い論理でもって両者の共存の可能性を説いている。
      「イスラムと民主主義」は現代および21世紀のキーワードともいうべき普遍性をもつテーマである。だからこそ本書は欧米では版を重ねて多くの読者を得ている。ところが日本には、不思議なくらいにイスラムと民主主義を正面から論じた本はない。しっかりした学問的裏付けのある書なのでぜひ読んでいただきたいと思う。