イリアン・ジャヤにおける民主化・改革の進展状況に関する調査報告

(1998年7月25日−8月24日)
佐伯 奈津子

 8月1日からイリアン・ジャヤ(西パプア)を訪れ、スハルト退陣後、ハビビ政権下における同地の状況を調査した。  現在、インドネシアは深刻な経済危機に直面しており、燃料費や輸入部品の値上がりのために、航空事情が非常に悪くなっている。しかし、航空機、エビ集荷船、丸太舟などを利用して、いくつかの地方を訪れることができた。州都ジャヤプラでは、YPMD(村落開発財団)、ELSHAM(人権調査研究機関)、Forum Kerja LSM Irian Jaya(イリアン・ジャヤNGO協力体)を訪れ、話を聞いた。1998年7月に独立を目指してパプア国旗が掲揚され、国軍の発砲事件が発生、多数の死者が出たというビアク島にも行った。また経済危機で一時中断されているが、ハビビが大規模プロジェクトを考えているマンブラモ川流域も訪れた。

 イリアン・ジャヤは、ニューギニア島の西半分で、面積42万平方メートル、人口195万人(1995年)である。石油、天然ガス、銅、金、海産物、サゴヤシなど、豊かな天然資源を有している。オランダとの独立戦争の末、インドネシアの独立が正式に認められた1949年ハーグ円卓会議で、この地域の帰属をめぐる交渉は難航。パプア国として自治を与える政策を推進するオランダと、オランダ植民地支配下におかれた地域はインドネシアだと主張するインドネシア(スカルノ)との間で、1961年にふたたび戦争がはじまる。結局、国連が調停に入り、1969年、「自由選択行為」と呼ばれる投票により、この地域のインドネシア帰属が正式に決定された。住民80万人(当時)の意志を決定する「自由選択行為」のために、議員1025人が選挙や任命で選出された。この選出プロセスで、インドネシア政府は「陰謀」を働かせたと言われている。イリアンの人びとの声を無視した併合は、当然、独立運動(OPM)を生み出す。政府は、人びとの独立要求の声を抑えつけるため、1970年、イリアン・ジャヤを軍事作戦地域(DOM)と定めた。それ以来、イリアン・ジャヤの人びとは、インドネシア国軍による人権侵害に苦しめられることになった。
 たとえば、1997年5月、ミミカのアキムガ村を、インドネシア国軍がヘリコプターで襲撃、爆弾を落とした。村人が逃げたところで、ヘリコプターが着陸、村人の家や畑などに放火した。村人は洞くつに逃げ込んだが、食糧はまったくなかったため、お腹を空かせ、もとの村の畑に食料を求めて戻った。しかし村人がやってくるのを予測していた国軍は、すでに待ちかまえていて村人を銃撃、ある親子は死亡している。 スハルト退陣後の7月1日、イリアン・ジャヤの各地(ジャヤプラ、ビアク、ワメナ、ソロン)でパプア国旗を掲揚する事件が起きた。ビアクでは、保健省の給水塔の上に旗が掲揚された。スハルト退陣直後で、国軍の対応が決まっていなかったせいか、当初、人びとが旗の下で踊り歌っても干渉されなかった。しかし、6日、旗の周囲を軍・警察が包囲し、朝5時から10時まで銃撃の音が聞こえていたという。わかっているだけで35人が逮捕され、11人が行方不明になり、29人の死体が見つかっている。この死体について、インドネシア政府は「パプア・ニューギニア地震による津波の被害者」と発表したが、距離的にも、また海流からも考えられないことだと言われている。8月の時点で、くだんの給水塔はペンキが塗り直されていたが、ちょうど人の胸の高さに、いくつか弾痕が残されていた。
 インドネシア国軍は、イリアン・ジャヤの人びとが全員、OPM(自由パプア運動)に関わっていると考え、一般の住民の人権すらも侵害してきた。レイプや処刑を通して、イリアンの人びとに恐怖感を与え、支配を強めてきた。髪が縮れ、肌が黒いというだけで差別もある。このような人権侵害に対し、イリアン・ジャヤだけではなく、同じくDOMに指定されていた東ティモールやアチェ、そして民主化活動をしているインドネシアの人びとが協力して取り組んでいる。
 ハビビ政権下で「改革」が喧伝されているが、まだまだスハルト時代からの権威主義体制は変化がみられない。しかし、これまでタブーとされ、表面化しなかった多くの人権侵害が明らかにされ、議論されるようになりつつある。