「モロッコ関連文献解題 - 政治 -」
report

1998年12月21日
報告者 レズラズィ・エル・モスタファ、中川 恵

   発表では、研究へ影響を及ぼした諸要素(a- 諸事件  b- イデオロギー、アカ デミック、文化的な論争を起した研究書 c- 研究枠組-研究所、学会、プロジェク トなど-)を説明したうえで、モロッコ政治研究のうち政治体制とイスラーム運動に 関する文献解題をおこなった。

(1)政治体制に関する研究
  19世紀の後半から独立にいたるまでの時期の、モロッコ史の研究をすすめる際に 困難となったのは、一つには歴史史料の問題で、もう一つはフランスによる保護領化 の影響である。
 歴史史料についての困難とは、モロッコでは他のアラブ諸国に比較すると、刊本と なった写本が少なく、私蔵されている史料が多いことである。国公立の図書館に所蔵 されている写本と私蔵されているものの量は同じぐらいである。
 二つ目の問題点は、フランスによる保護領化に異を唱えなかった、あるいは保護領 政府で働いていた研究者によってなされたモロッコ史の研究が、独立から80年代まで まったく学問的評価の外におかれていたことである。Muニammed al-Hajoui , Ahmad Ben al-Mawwaz, `Abd al-Hay al-Kettaniの写本を刊本にしたMuニammed al-Mannuni や、現代政治思想を研究するとき保護領化を支持した知識人たちの著作についてもサ ーベイをおこなったSa `id b. Sa `id al- `Alawi 、 `Abdullah Larouiらの努力 にもかかわらず、保護領化を支持した知識人たちの業績は、今日でもまだタブー視さ れている。しかしながら、これらのタブー視されている知識人の中には `Abd al-Hay al-Kettaniのように現代のフィクフ(イスラム法学)にまでその影響を及ぼしていた り、Muニammed al-Hajouiなどのように独立を導いた国民運動の思想的基盤となったも のもあり、保護領化を支持していた、あるいは保護領政府内で働いていたという一面 だけで、学問的な業績まで切り捨ててしまうのはモロッコ史研究にとってマイナスと いえるのではないだろうか。
 これまでモロッコ史研究のなかで、マハザン体制はナショナリスト、マルクス主義 者、植民地主義者(コロニアリスト)のそれぞれによって異なって理解されてきた。  モロッコにおけるナショナリズム(独立運動)は、王を国家の統治者として保護領 政府の統治下でも保っていた点において、他の中東諸国とは異なる。保護領政府との 交渉に人々の代表者としてのぞんだのは、亡命中でも王であった。フランスに対する 抵抗スローガン”thawra al-Malik wa as-Sha `b (王と国民の革命)”にみられる ように亡命中の王が王位に復帰することが、モロッコの独立を意味した。独立運動を 支持した政治的な流れは、独立党(Istiqlal )、USFP(Union Socialiste des Forces Populaires - 人民諸勢力社会主義者同盟 )、UNFP(Union Nationale des Forces Populaires -人民諸勢力全国同盟)などさまざまであるが、ナショナリ ストたちの、王制に対する考え方は一致しており、立憲君主制がモロッコの伝統的政 治体制であり、保護領化されるまえのマハザン体制(モロッコ政府を指す)が王制と して、また統治を行う家系として継続性を持っていると考えている。
 マルクス主義者たちは、周知のとおり歴史を封建社会から資本主義社会、そして社 会主義社会へと「進歩」するものととらえるが、マハザンはこの「進歩」を阻む役割 をするひとつの社会階級として理解されている。
 国民運動の立場とは逆の、保護領政府の見地からの研究については、代表的な研究 者としてRobert Montagne とMichaux-Bellaireがあげられる。Robert Montagne とMichaux-Bellaireに代表される、保護領政府の見地に立った研究者に共通した見解 は、まずモロッコ=「部族社会」という概念を研究の出発点としたことであった。彼 らは「部族社会」を次の三点から理解した。第一に「部族社会」をLeffのシステムお よび部族対立に対抗するための同盟に基づいた部族の集合体ととらえている。そして モロッコ社会はこの部族間の対立メカニズムが拡大再生産されたもので、マハザンも このメカニズムの一要素と考えている。第二にアラブとベルベルをはっきりと異なる ものととらえ、マハザンをアラブの側に組み入れている。つまりマハザンをベルベル の大半を占める部族社会の外に存在するものとしてとらえているのである。第三に、 モロッコをマハザンの権威をみとめ、服従している「マハザンの土地」と、マハザン の権威を認めない「スィーバ(不服従の意)の土地」からなると考え、前者がアラブ から、後者がベルベルからなるとみている。
Abdullah Laruoi が Les origines sociales et culturelles du nationalisme marocaine を書いた60年代までの、19世紀モロッコの政治体制を扱った研究は、大半 が理論化を試みることなく描写的で、また「スィーバの土地」「マハザンの土地」と いう植民地主義のステレオタイプの分析や、文化人類学の分節理論にとらわれたもの であった。
 マルキストの経済学者であるDriss Ben Aliは、保護領化以前、資本主義以前の時 代において支配的な生産様式は何か、という点について研究した。彼は生産様式、生 産関係、上部構造についてマルクスと同じシェーマにもとづいて研究をすすめた。そ の研究によると、生産様式には二種類あり、平地における穀物の生産と、山地におけ る農業である。その中間的な形態として混合の生産様式がある。そのことを前提とし て、彼は都市周辺部をその主要な分析対象とした。結果的には経済的側面に注目した この分析もモロッコを「マハザンの土地」と「スィーバの土地」に二分化し たMontagne やMichaux Bellaireと同様に、モロッコを生産様式から単純に図式化し たものにすぎない。つまり、Aliは封建的な生産様式を慎重に扱ったものの、マルク ス的経済理論ではモロッコのすべての社会経済構造をカバーすることはできない。こ の意味で彼はSamir Amin が発展させた部族の生産様式の概念やValencyの発展させた 概念である古典的な生産様式、Paul Pasconの発展させたマハザンの生産様式の理論 を踏襲したものであるといえる。

(2)イスラム運動に関する研究
 イスラム運動の分析には次の二通りのアプローチ方法のいずれかがとられることが 多い。第一のアプローチ方法は、19世紀末から20世紀の初頭にさかのぼって、その起 源を探すことである。このアプローチ方法では、新イスラミズム(政治運動として) とパンイスラミズム(とくにJamal ad-Din al-Afghaniのグループ)のかけ橋をする ことが試みられたが、多くの研究者はこのトピックを過度に一般化した。おそらくこ れには二つの理由が考えられる。ひとつは彼らが、エジプトが今世紀初頭からのイス ラム運動の中心地であったと考えていることである。またもう一つはエジプトにおけ るムスリム同胞団が非常に早い時期に始まったイスラム運動で、パンイスラミズムの 始まりと時間的に近く、この事実が結果的に彼らに混乱を招いたということである。  第二のアプローチ方法は、現象の動態的構造的な分析である。この分析では現象の 歴史的側面と内的な構造の分析を重視する。現象の歴史的起源を探す第一のアプロー チ方法では、その現象に歴史的な正統性を与えることにつながりかねない。第二のア プローチ方法では、現象を歴史的文脈においても研究するが、同時にある現象自体を 他の現象から独立したもの、そしてその現象独自の秩序や構造をもつものととらえる 。第一の方法は現象間の歴史的な連続性を重視するため、たとえばイスラム運動はパ ンイスラミズムから連続した現象であると理解されたのであった。
 しかしパンイスラミズムは、 まずなにより文化的、政治的、イデオロギー的な運 動であった。ただしこれは組織された団体の形はとらなかった。また一国にとどまら ず、エジプト、トルコ、インド、中央アジア、モロッコなどにまたがる普遍的な運動 であった。その形態は、パンイスラミズムを構成する人々はすべてインテリで、いわ ゆる一般大衆は含まれておらず、これがパンイスラミズムにとって大きな力を与えた 。中央アジアとインドの例のように、ある政治運動のイデオロギー的バックグラウン ドとして、パンイスラミズムが使われることがあったが、これはパンイスラミズム自 体の超地域的性格や政党の形をとらないことと矛盾するものではない。それに対して 、新イスラミズムはまず政治運動であった。したがってパンイスラミズムとは違って 、国単位の運動で、オスマン帝国崩壊後の現象である。パンイスラミズムはオスマン 帝国の最後の時期の現象であり、その政治的問題意識はそもそも国民国家の形成に対 する抵抗であった。つまり、新イスラミズムは国民国家の枠内での運動であり、確か にいくつかの運動間の協力は見られたものの、各々の運動の独立は歴史的な事実であ った。ただしその思想を他国にも移植しようとした初期のムスリム同胞団や、イラン 革命を移植しようとした初期のホメイニ師は例外である。  現在、イスラム運動の新しい手段として、インターネットの使用 (CMC:computer-mediated communication )があげられる。
 パンイスラミズムは、原則的にこの運動をウスールに基づくイスラムの理論を革新 する(イジュテイハード)ものと考えていた。また変化に対して非常に保守的なイス ラムの伝統(タクリード)を批判した。パンイスラミズムのもう一つの側面はイスラ ム世界、キリスト教世界、帝国主義といった文明圏の対立に根差している面である。  19世紀末エジプトにおいてサラフィーズムとナショナリズムが分離した経験は、植 民地主義や政治改革に対する闘争をナショナリストの重要問題とし、宗教的、道徳的 な問題をサラフィーズムにとっての重要問題とした。エジプトはこの二つを合流させ るにはナassan al-Bannaを待たなければならなかった。
 モロッコにおけるイスラム運動の歴史的正統性については、三つの解釈がなされて いる。第一の解釈は、モロッコのイスラム運動をエジプトのムスリム同胞団の拡大形 態とみる。第二の解釈は、モロッコのいわゆる「サラフィズム」(フランス保護領期 のAllal al-FasiやMohamed Ibn al- `Arbi al- `Alawiなど )と独立後のイスラム 運動(az-Zamzamiなど)から発展したものと考える。第三の解釈は、イスラーム関係 の集団(スーフィー教団、Islamic Cultural association、 Jama`a at-Tabligh wa ad-Da`wa ila Allah, イスラム学生協会など)をイスラム運動とみなす見方である。  独立後、いわゆるサラフィストは政党のメンバーとして、あるいは体制側の宗教ス タッフとして政治に参加した。しかし両者とも「アミール・アル・ムーミニーン(信 徒の指揮者)」である国王のもとで、いかに国家イデオロギーを維持してゆくかとい う問題と、保守派と次第に重要な地位を占めるようになったフランコフォンの官僚た ちとの間の均衡をいかにとるかという問題に直面した。
 イスラム運動の活発化は、政党と政府の間の妥協がおこなわれるようになった時期 と一致している。国民政党によるほぼすべての改革の試みが失敗に終わった頃である 。  モロッコのイスラム運動のもう一つの特徴は、国王の存在である。モロッコの国王 は、自らを「アミール・アル・ムーミニーン」と位置付け、ウンマとシャリーアの擁 護者として宗教的な言説をおこなってきた。また国王はシャリーフでもある。これら の要素は、体制とイスラム運動との対立を宗教的な解釈と適用に限定した。アサド大 統領がバース党の綱領として世俗的なものを掲げたシリア、ナセル大統領は国家社会 主義を国家イデオロギーとして推進したエジプトなどとは、おのずから異なる。