「スハルト後のインドネシアにおけるイスラーム組織

*前回の報告にはいくつか間違いがありました。ここに改めて報告します。

日時:1998年10月29日(木)19:00〜21:00
場所:上智大学(四谷)7号館11階第2会議室
報告者:Martin van Bruinessen (ユトレヒト大学文学部教授)
タイトル:スハルト後のインドネシアにおけるイスラーム組織
その他:インドネシア語(通訳付き)

 スハルト退陣後のインドネシア・イスラーム組織の政治地図を把握するためには、ス カルノ大統領時代にまでさかのぼる必要があります。1955年の総選挙は、インドネ シア史上最も自由でごまかしのない選挙でしたが、これは勢力のほぼ均衡した4つの政 党、マシュミ、ナフダトゥル・ウラマー(NU)、インドネシア国民党(PNI)、インドネシ ア共産党(PKI)、を生みだしました。前者二つがイスラーム政党です。大雑把に言って、 マシュミはインドネシア・イスラームの中でも「近代派」を代表しており、都市部や外 領(特にスマトラ)で支持を受けていました。一方、NUは伝統的イスラーム学校(プサ ントレン)につながり、中部と東部ジャワ、および南カリマンタンに強い地盤を持って いました。
 1957ー58年の地方反乱(PRRIインドネシア共和国革命政府)のあと、マシュミと インドネシア社会党(PSI)は非合法化されました。スカルノは残った3つの政党(NU, PNI, PKI)を糾合させ、ありそうにもないこの連合に、NASAKOM(民族主義、宗教、共産主義)という造語を名前に付しました。スカルノの立場は、一方では用心深くこの不安定な連合NASAKOMのバランスを取ることに基盤を置き、他方では軍に置くことによって成り立っていました。   インドネシア・イスラームの政治地図は1965年9月30日にスハルトが権力を握 るようになると、かなり変化しました。まず、クーデターを企てたとされる共産党は非 合法化され、一方スカルノ時代には単なる職能集団に過ぎなかったゴルカルは政治化さ れた集団となりました。
 スハルトが権力を掌握して最初の総選挙は1971年に行われました。政党法のもと で、キリスト教系政党とPNIはインドネシア民主党(PDI)に合併させられ、また、すべ てのイスラーム政党は開発統一党(PPP)に合併させられました。旧マシュミのもっとも 傑出した指導者たちは政治活動を許されず、デワン・ダクワー・イスラミーヤ・インド ネシア(Dewan Dakwah Islamiyah Indonesia インドネシア・イスラーム布教協議会)を設立しました。NUもスハルト体制の確立に妨げられて政治の前線から離れました。ゆえに、最も大衆を動員できる組織が実践政治から疎外されました。このようにして、インドネシアの政治地図は1980年代までにシンプルなものになりました。イスラーム教徒はより厳格な宗教行動と知的活動に関わるようになりました。1980年代末までに、市民政党はかなり弱体化し、社会からの熱心な支持をほとんど享受しませんでした。  この非政治化の成功により、スハルトはますます軍に依存するようになりましたが、 軍は信頼にたる文民政治勢力ではもはやバランスがとれなくなっていました。軍に対抗 して掌握力を強めるためにスハルトは何らかの市民勢力の支持を必要としました。この ような背景でインドネシア・ムスリム知識人協会(ICMI)が誕生しました。
 ICMIはインドネシアのムスリム(全人口の88パーセント)が、政治や経済において 応分に代表されることを求めています。この組織は明かなスハルトの支持で結成されま したし、スハルトのお気に入りであるハビビがその会長に就任しました。ICMIの指導者 層はふたつのタイプから構成されています。ひとつは政党に属さないイスラーム知識人 や、イスラームの知識を十分に持った知名度の高い人々(その多くはかつてマシュミと 結びついていたか、早い時期にスハルトによってしりぞけられていました)、そして、 官僚やハビビ周辺の「技術者」です。公務員はすべてICMIの会員になることを強く迫ら れています。
 NU会長のアブドゥルラフマン・ワヒド(グス・ドゥル)は、ICMIに疑いを持つイスラ ーム教徒の中でも最も目立っていました。彼はICMIを、マシュミーーそして官僚ーーに強く支配されていると見、「セクト主義」の危険に 言及して、ICMIは一般的に反クリスチャン、反少数派、特に反中国人になる可能性があ ることを示唆しました。
 デワン・ダクワーでは旧マシュミ指導者がまだ残って活動していましたが、これはサ ウジ・アラビアを発祥とする思想に強く影響されており、その中には反ユダヤ主義もあ りました。彼等は、すべての宗教は同じだというようなコスモポリタン的思想に反対し ました。デワン・ダクワー周辺のグループによって広められた反ユダヤ主義文献(その 機関誌『ダクワー』も含めて)では、ある意味で標的にされているのはインドネシアの コスモポリタンと中国人です。最も急進的な声はKISDI(イスラーム世界連帯委員会) から来ました。
 1998年5月のスハルト退陣ににつながった暴動では、中国人商店が襲われ、中国 系女性がレイプされました。この暴動を組織化したのが誰かについては多くの憶測があ りますが、多くの人がこれはスハルトに対するクーデターの企ての一部と信じています 。そこでは戦略予備軍司令官プラボウォ将軍(スハルトの女婿)が重要な役割を演じた 可能性があります。プラボウォは、KISDIやデワン・ダクワー勢力のかなりの部分、ま た近代派ムスリムの中でも野心的な扇動家たちから支持が得られることを確信していま したし、彼も街路の群衆を動員できる立場にありました。プラボウォがハビビとある合 意をしていたという噂もあります。これによると、ハビビは大統領になり、プラボウォ はライヴァルである国軍司令官ウィラントにとってかわるというものだったようです。 しかし、プラボウォの計画は失敗しました。行動を起こしたのは彼一人ではなく、また 暴動も彼が計画したよりも大規模なものでした。続く権力闘争で、プラボウォは敗れ、 ハビビとウィラントがトップの座につきましたが、これはもろい相互不信の連合です。

 スハルト退陣のあと、インドネシアの政治地図はまた様々な色に彩られることになり ました。多くのイスラーム政党が結成されました。例えば、マシュミ、KISDI、デワン ・ダクワーの流れをくむ月星党(PBB)、PNIタイプのメガワティ派の PDI、NU の国民覚醒党(PKB)です。よく知られたイスラーム指導者アミン・ライスは、インドネ シア第2のイスラーム組織、ムハマディヤの会長でしたが、スハルト体制の末期には最 も卓越した反体制指導者でした。アミン・ライスは、インドネシアの近代派の主要な指 導者であり続けるか、または、より広い地盤を見い出し、イスラーム以外の人々も含ん だ連合の全国的指導者として輪郭を刻んでいくかの選択を迫られました。結局アミン・ ライスは国民信託党(PAN)を結成したときに、月星党のより「セクト主義的」人々と組 むよりも後者を選びました。

(訳責:小林寧子)