『歴史学事典』5〈歴史家とその作品〉(弘文堂、1997)

デイヴィス
Davis, Natalie Zemon  1928〜


   アメリカの歴史家。フランス近世を中心とする社会史・文化史・女性史を革新した。リベラルなブルジョワ・ユダヤ人の家庭にそだち、女子大スミス・カレッジからハーヴァードの大学院(ラドクリフ)に進学。W・K・ジョーダンの指導のもと、16世紀ヨーロッパ史に関心がむかい、とりわけ宗教改革・宗教戦争期のフランスにおける宗教・文化・社会を研究した。1959年の博士論文は「プロテスタンティズムとリヨンの印刷職人。宗教改革期における信仰と社会階級の研究」であった。

   彼女の歴史学を考えるにあたって、19歳で「進歩的」な数学者チャンドラ・デイヴィスに会い結婚したことは決定的な意味をもつ。1950年代のマッカーシ旋風のなかで「反共宣誓」を拒否し、共産主義者との関係を断たなかった夫チャンドラは下院の「非米活動委員会」に召喚されることとなった。1952年にフランスで史料研究して帰国した二人のパスポートを、アメリカ国務省は剥奪した。夫の懲戒免職、受刑、二人の周囲からの孤立、といった苦しい情況のなかで、ナタリは子どもを3人かかえ、留学しなくても米国内の図書館で利用できる刊本の研究に転じ、書誌や印刷業をめぐる階級関係、信教、そして抗争を明らかにした。さらに60年代には文学、美術史、文化人類学などでの進展から学びつつ、若者組、暴力と儀礼、愚行、倒錯といった象徴、演劇をめぐるテーマと取り組んでいった。

    最初の著作『近世フランスの社会と文化』(成瀬駒男ほか訳『愚者の王国、異端の都市』平凡社、1987)は、既発表の論文をあつめて1975年に刊行されたもので、M・バフチーンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』をはじめとする文化のコードの解読、そしてまたE・P・トムスン、ル・ロワ・ラデュリ、カルロ・ギンズブルグなどの歴史的過去を再創造する仕事とあい通じるものがある。

  デイヴィスの学問は、歴史を経済や階級、宗派など一つの規定要素に還元するのでなく、時代のコンテクストのなかで考えるものである。1983年の『帰ってきたマルタン・ゲール』(成瀬駒男訳、平凡社、1990)は、小情況のなかに歴史をみるミクロストリアの見本といえる。16世紀の貧しい農村における偽亭主事件をよみがえらせたこの著作は、映画、ミュージカル、オペラにも脚色されている。近業 Women on the Margins (1995) は17世紀ヨーロッパから辺境アメリカ大陸にわたったユダヤ人、カトリック、プロテスタントの3人の女の生きかたを正史の余白から復活させた『辺境=余白の女たち』の物語である。

  近年の社会・文化・ジェンダーをめぐる歴史学の新潮流を代表し、歴史学と他の専門との橋渡しに熱心なデイヴィスだが、たとえばT・スコッチポールとは違って、近世国家の成立ちや絶対王政ないしアンシァン・レジームをテーマとすることはない。彼女はインタヴューで、懐古趣味でなく希望の歴史家でありたい、「今日の人々には、過去の悲劇や苦難、残酷や憎悪、希望や愛や美を見てほしい。権力をめぐって抗争したこともあるが、互いに手助けしたこともある。‥‥過去がいまと違ったように、現在には選択肢がある」という。

    前半生にいくつかの大学を転々としたデイヴィスは、80年代からアメリカ歴史学会の会長、プリンストン大学の歴史学研究所所長といった要職を歴任した。1996年からトロント大学で文学理論を講じている。1997年に初来日。
 

  関連文献(本文中にふれた主著のほかに)

Fiction in the Archives, Stanford, 1987(『古文書のなかのフィクション』成瀬駒男訳、平凡社、1990).
[共著] Women's History as Women's Education, Northampton, Mass., 1985;
Histoire des femmes en Occident, III, Paris, 1991(藤本佳子ほか訳『女の歴史』藤原書店、1994).
インタヴュー集に、近藤和彦他訳『歴史家たち』(名古屋大学出版会、1990).
デイヴィスへの献呈論文集として、
B.B. Diefendorf & C.Hesse (eds), Culture and Identity in Early Modern Europe 1500-1800, Ann Arbor, 1993;
Lynn Hunt (ed.), The New Cultural History, Berkeley, 1989.

  近藤 和彦 

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  More in → 『20世紀の歴史家たち』第3巻(刀水書房、1999) pp.365-379
       ナタリ・デイヴィスの知的展開 『iichiko』47号(1998) pp.113-127
  N・Z・デーヴィス、N.Z.デービス
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