『思想』832号(1993年10月)

知識人=歴史家の死
− E・P・トムスンを悼む −
 2000. 8.22 更新


  一九九三年八月二八日、イングランド中部のおだやかな緑にかこまれたウースタの自宅で、エドワード・パーマ・トムスン(E. P. Thompson)は安らかに亡くなったという。一九二四年二月の生まれだから六九歳。闘病は長かったが、体調のよいときには、みずから運転して文書館に調査にでかけたり、ストラトフォードで観劇したり、ロンドンまで行ってBBCラジオの「無人島にもってゆくレコード」という番組に出演したりしていた。今年一〇月にゆかりのウォーリク大学で予定されている『イングランド労働者階級の形成』(初版は一九六三年)の刊行三〇年を記念する会は、追悼集会になってしまうのだろうか。

  二度ほど機会はあったが、トムスンはついに日本に来ることはなかった。最初は一九八〇年代のはじめで、反核運動の一環として広島・長崎にくる計画があったと聞く。これはわたしの知らない理由で実現しなかった。サッチャ・レイガン・ブレジネフの愚かな軍備エスカレーションにたいして、歴史学どころではない、とトムスンはCND、ENDの核武装解除運動のほとんど中心的な活動家であった。「スター・ウォーズ」をめぐる評論やSF小説も書いている。

  二回目は学術的なもので、法政大学および古賀秀男さん、松村高夫さんとわたしで準備をととのえ、一九九〇年に数ヵ月滞在してもらうべく財源も日程もほとんど内定していた。この計画は、しかし、本人の病臥のために断念せざるをえなくなった。その後も極東への旅行は無理で、いわば代行として夫人ドラシが単身で九一年秋に日本学術振興会の研究員として来日し、九州から東京まで旅行し、研究者たちとの親交をあたためた。「代行」とは変な表現だが、ドラシは何もE・P・トムスンの妻であるだけでなく、「たまたま夫婦という関係にある一人の歴史家」で、『チャーティスト』(日本評論社)の著者である。

  E・P・トムスンの父はエドワード・ジョン・トムスン。若くしてメソディストの伝道師、のちにオクスフォード(オリエル学寮)の教員になった。インドの独立運動を支持し、またインドの歴史・風俗習慣についての著作もある。母シオドシアはアメリカ人で、プレズビティリアンの伝道師の家庭にそだった。兄フランクはウィンチェスタ校のころから人望のあったリーダーで、語学の才能もあったようだ。早くから共産党にくわわり、第二次世界大戦ではバルカン半島とカイロをむすぶ反ファシストのパルチザンとして活躍、一九四四年六月にブルガリアでとらえられて、銃殺された。

  次男として育ったエドワードは、やはり志願してユーゴスラヴィアに従軍している。ドラシとはケインブリッジ大学で知りあった。一歳上で既婚のドラシは、そのときガートン学寮に属していて、エドワードが戦後ケインブリッジ(コーパス・クリスティ学寮)に戻って出会うとまもなく恋におちて離婚し、彼と再婚した。以来ずっと一緒にヨークシャからウォーリク大学(コヴェントリ)をへてウースタに居をかまえ、三人の子どもを育てあげた。

  この夫婦と家について想いおこすのは、ドラシが自宅の書庫を案内してくれた折のことである。大量の本の分類・排架方式がすぐには飲みこめなかったので、その原則を尋ねたところ、二人の考え方はそっくり同じだから、他人にはわからなくても不便はしないのだという答えが返ってきた。ウィク・エピスコピという中世的な名をもつ、質素だが広大な二階立ての家は、エドワードにいわせれば、寝袋さえ持参すれば何十人でも泊れる、小さな学会をやったこともある、料理はわたしの係だ、とのこと。広いひろい芝の庭にテントを張ったりすれば、本当に百人でも合宿ができそうだ。その廊下や階段の壁には、歴史的な諷刺画がたくさんかけてある。板の間で十分にひろく明るい書斎に、パソコンはないが、タイプライタと乾式複写機があった。

  二〇世紀イギリスの歴史家というと日本では、E・H・カー、E・ホブズボームやC・ヒルのほうが有名だろうか。英語圏ではE・P・トムスンの氏名をタイトルにした本や論文があいつぐ。その名がEPTという略号で通用する人は、そうあるものではない。紳士録『フーズ・フー』には名ものらなかったが、しかし、じつは女王と皇太后と首相に次ぐくらい有名だというのが、アメリカ人、M・メリルの持論である。

  多方面で文筆をふるったE・P・トムスンの作品は、残念ながら日本語にはあまり訳されていない。本の表紙に著者・編者として名の出ているのは、主著ではなく、『ニューレフト・リヴュー』の評論をあつめた『新しい左翼』(岩波書店)と、『ゼロ・オプション』(岩波書店)、そしてインタヴュー集『歴史家たち』(名古屋大学出版会)の三つだけだろう。ほかに論文が『思想』に二本(六六三号と七五七号)、『魔女とシャリヴァリ』(新評論)に一つ、短い評論が『世界』に一つのっている。

  デヴュー作といえる『ウィリアム・モリス』(一九五五年)につぐ、主著『イングランド労働者階級の形成』は、いまでもイギリス、アメリカの大学近くの書店で九月には文字どおり山のように積まれている。そのドイツ語版、フランス語版が出版され、ドイツではさらに社会史的論文をあつめた『平民文化とモラル・エコノミー』(一九八〇年)が独自に編訳されている。日本の出版事情との格差はきわだつ。

  だがこれは、日本の出版界ないし知的読者層の関心の偏りばかりでなく、トムスンの仕事の得失あいまった質のためでもある。彼の『ウィリアム・モリス』は八〇〇ページをこえ、『形成』は九〇〇ページをこえる。文字どおり一気に書き下ろされたのだ。専門誌の論文「一八世紀イングランド群衆のモラル・エコノミー」(一九七一年)は六〇ページ。ある論文集の一章として準備された『ホウィグ党と密漁者たち』は三〇〇ページの著書になってしまった(一九七五年)。とにかく彼の仕事は、長い。そして、論争的である。

  意を決して『形成』を読みはじめた学生は、正統派にたいする批判のためにリフレインのようにくりかえされる「階級」「経験」「社会的文化的形成」といった用語に悩まされる。さもなければ、内務省や枢密院、議会文書、そしてワーズワスやブロンテの作品、コベットの評論、そして名も知らぬ地方人の日誌や書簡、詩からの引用に圧倒される。たしかに、この本は読者の想像力を刺激する生き生きしたエピソードに満ちあふれている。その英語のリズミカルな勢いと美しさ。夫妻から直接聞いたことだが、エドワードは本当は歴史家より詩人になりたかったのだという。だが、あいつぐ引用やエピソードに翻弄されて、読者は文脈を見うしないがちだ。

  この間のヨーロッパ近世史および民衆文化の研究は、エリートと民衆とのそれぞれの文化=世界のちがいをきわだたせ、また両者の界面に注目してきた。これはトムスンが「階級的ヘゲモニーの劇場」「二極のあいだの磁場」とよぶ論点につながってゆく。しかし、近年のイギリス史でますます注目をあつめ、またトムスン批判のほとんど常套句として指摘されているのは、こうした近世的な二つの文化=世界の間隙をぬうように勢いをましてくる第三の文化=世界、新しいヘゲモニーである。

  じつは一九九一年の新刊『共同の慣行』(Customs in Common)では、入会地紛争、食糧一揆、時間意識、離婚、シャリヴァリなどをめぐって一八世紀イギリスにおける共同体慣行が強調され、彼の環境保護の立場は包みかくすことなく表明される。ここでトムスンは、二つの文化論をふたたび自己弁護的に強調する。しかし、ときに公共圏といった語ももちいている。J・ハーバマスやイギリスではI・ホントやM・イグナチエフが理論的に分析し、P・ラングフォードが経験史学的に接近している市民的公共性(res publica)論を批判しながら、トムスンはこの論点に民衆慣行ないし階級文化のほうからアプローチし合流しようとしていたのかもしれない。モラル・エコノミーを政治文化と言い直したり、ホントたちの仕事を力をこめて批判しているのは、彼じしんの民衆的公共性(res plebeia)論が星雲状態にあったからだろうか。

  構造主義、あるいは社会学や文化人類学の洗礼をうけた世代は、トムスンのエピソードにあふれた、反面からいえばモタモタした論理の運びをポピュリスト経験主義だとして批判し、スッキリした理論の不足を言挙げする。トムスンは早くから経験主義を公言するマルクス主義者だった。イギリス・アカデミズムの伝統のなかで、これは容易な道ではなかった。現在の社会主義フェミニスト=エコロジストともいうべき立場も、またむずかしい。

  こうしたトムスンについて、気難しい、変り者だ、という印象をもつ人が少なくない。彼と個人的に話したことのないイギリス人の多くがそうだった。というのも、せっかく彼のために用意されたウォーリク大学の社会史研究所で一九六五年から初代所長として勤めながら、七一年にトムスンはみずから大学を去った。また評論集『理論の貧困』(一九七八年)の肖像写真では、ゆたかな銀髪をかかえて顔を隠しているエドワードの肩から、猫がこちらを凝視している。そして彼を愛し尊敬する若い歴史家(たとえばG・ステドマン=ジョーンズ)が構造主義の影響をうけた著作をあらわしたというので、全力をかたむけてこれを論駁するといったことが、一度ならずあったからである。

  じつはわたしも、ウースタ郊外のお宅に招かれた折には緊張した。だが、わたしの一八世紀史を聞いてもらい、日本の事情にも話題のおよんだ四時間あまりは、身も心も高揚してしまう午後だった。肺活量が不足してすぐに息の切れてしまうトムスンは、「そっくり同じ考え方をする」ドラシが言葉を添える間にわたしから目を離さず、急くことなく悠然と、次につづけるべき一番的確でゆたかな言葉を考えているようだった。あれこれの史料や図像についてわたしがどう考えるかも謙虚に聞いてくれた。英語でいう inspiration をみずから体現するような人なのだ。ウォーリク大学の院生として指導をうけた人々はもとより、運動をともにした男女、ドラシ経由で接したり、またわたしのようにほんの限られた機会に話を聞いてもらった人々もみな、彼のエーテルで心を満たされてしまう。

  トムスンは変人ではない。会って話すことが喜び、励みになる人物である。地位や体面よりも、そういう生き方を選択したにちがいない。その知的な影響は、階級文化やモラル・エコノミーを歴史的に解きあかす研究者が世界各地に輩出するという形でだけ現われているのではない。人として、教師として、人類史における近代の意味、あるいは文明における歴史といった根本的なところで考え行動した、愚鈍なまでの誠実さが、世界の多くの人を惹きつけてきた。これからも想い出と文章をよすがに人々を惹きつけつづけるだろう。前々から予告されていた『ウィリアム・ブレイク』は、まもなく遺作として刊行されるときく。だが、その透徹した目とよく考えられた言葉と生きる姿勢によって、直接に人を魅することは、もうない。早すぎる死を悼む。

近藤 和彦

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   E・P・トムスンの評伝は『20世紀の歴史家たち』第4巻(刀水書房、2000)にも書きましたが、
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