1 駒井和愛の北海道調査 — モヨロ貝塚の発掘から常呂の調査開始まで
(1)大陸から北海道へ
駒井和愛は1927(昭和2)年に東京大学文学部副手となり、同年に設立された東亜考古学会に所属する。この学会は、東アジア考古学の調査研究を進めるために京都大学と東京大学の教官が中心となって設立された団体である。第二次世界大戦が終結するまでの間、駒井は東洋考古学の研究者として、東亜考古学会の中心人物の一人であった考古学講座初代教授の原田淑人とともに、中国や朝鮮において同会の主催する調査研究を推進していた。
戦後、活動の場を国内に求めた東亜考古学会は、1947(昭和22)年に静岡市登呂遺跡と網走市モヨロ貝塚の発掘調査を実現させる。その前年に設置された文学部考古学研究室の助教授に任じられていた駒井は、これらの遺跡の発掘の中心人物として活躍する。
東亜考古学会では、戦後、京都大学の水野清一と駒井が相談して、京大は九州の壱岐・対馬、東大は北海道を調査対象にすると決めたのだという(杉村1977)。その背景には、大陸と日本列島の接点となる西と東の地域において、大陸文化との交渉を明らかにしたいという意図があった(大貫2002)。モヨロ貝塚の調査を契機として、大陸への東と北の窓口である北海道を新たなフィールドに定めた駒井は、以後、自らが「アイヌ考古学」と呼んだ、考古学的な手法でアイヌの歴史を明らかにする調査研究を進めてゆく。
(2)環状列石と貝塚の調査
モヨロ貝塚の次に駒井が北海道で調査の対象としたのは、縄文時代の環状列石(ストーン・サークル)(注1)と、縄文時代・続縄文時代の貝塚であった。モヨロ貝塚の研究で駒井は、オホーツク文化の土器や青銅器に大陸の特徴が見られることを指摘していた。北海道の環状列石についても、ヨーロッパやアジアの各地にみられる巨石記念物と呼ばれる類似の遺構を意識し、なかでも特にシベリアのものとの関連性に注目していた。そして、戦前の満州北西部(現・中国内蒙古自治区)ハイラルの南方で環状列石を調査し、墳墓であることを確かめた経験から、北海道の環状列石についても、その性質を明らかにしたいと考えたのである。そのような目的のもと、1949(昭和24)に駒井は余市町の地鎮山環状列石で発掘を開始し、以後、1956(昭和31)年までの間、道内各地で環状列石の発掘調査を進めていった。
一方、貝塚に関しては、駒井自身は調査の動機をはっきりとは述べていないが、これは大貫静夫(2002)が指摘したとおり、人骨の発見とその人類学的研究が主な目的の一つであったと考えられる。モヨロ貝塚では多くの人骨が発掘されたが、その形態学的研究の成果を聞き及んだ駒井は、オホーツク人は道外から移住してきた後にアイヌに同化したものと考えた。このような研究が、駒井を貝塚とその出土人骨の研究に向かわせる契機の一つになったのであろう。以後、駒井は、「アイヌの祖先たちが、そもそもいつごろから北海道に住むようになったか、またそれがどこから渡って来て、どこに落ちついたものであるか」(駒井1973:138)という問題意識のもと、道内での調査研究をすすめてゆく。
駒井がモヨロ貝塚の次に発掘した貝塚は、縄文時代の貝塚である釧路市の東釧路貝塚であり、これは1949(昭和24)年に行われている(駒井1952a、河野・沢1962)。ただし、この調査は『琅玕』(駒井(藤江編)1977)の年譜には記載がなく、詳しい調査報告も公表されていない。ちなみに駒井は、この東釧路貝塚の調査の際に、周辺にあるいくつかのチャシ跡を実見し、写真による記録を残している。
東釧路貝塚の調査に続いて行われたのが、続縄文時代の貝塚である森町の尾白内貝塚の発掘である。この発掘は1951(昭和26)年に開始され、以後、翌年、翌々年にわたって実施されており、1958(昭和33)年にも補足調査が行われている。
ほかに、この時期、環状列石と貝塚以外の調査としては、1951(昭和26)年に「網走に本拠をおいて、宇登呂・羅臼あたりの一般調査を行なった」(駒井編1964:99)ことが記されている。この一般調査は、後に知床半島での発掘調査につながってゆく。
(3)常呂町との出会い
駒井の北海道調査において、次の転機となったのが常呂町(現・北見市)との出会いである。その出会いを導いたのは、樺太アイヌ語の調査のために常呂を訪れていた東京大学文学部教授の服部四郎と、地元で常呂の遺跡の重要性を訴え続けていた大西信武である。
1955(昭和30)年に常呂で樺太アイヌ語の調査を始めた服部は、そこで大西と出会う。翌年、再び常呂を訪れた服部に対し、大西は東大の考古学者を常呂に呼んで欲しいと願い出る。服部からそのことを伝えられた駒井は、その年の秋に常呂を訪れて大西とともに遺跡を見学し、発掘調査の開始を決定する。調査の動機は、「オホーツク海沿岸及び知床半島に於ける貝塚、墳墓、竪穴、チャシ(城砦)等の探査を思い立」ったこと、その中で「昭和31年秋に訪れた常呂町附近は、もっとも遺跡が多く、ここで私は大きな貝塚を見つけた」(駒井編1963:序文)ことだと、駒井は述べている。
常呂での遺跡発掘は翌年の1957(昭和32)年に開始され、以後、東京大学考古学研究室の調査として現在まで毎年、町内の遺跡で調査が継続されている。また、常呂の調査と併行して、1958(昭和33)年から1960(昭和35)年までの3年間、知床半島の斜里町と羅臼町で発掘調査が行われている。これらの調査について、駒井は1959(昭和34)年まで調査を主導しているが、以後は発掘には参加していない。
駒井は、常呂での研究成果が蓄積されてゆくなかで、この地に調査研究の拠点となる「アイヌ研究のセンター」を建てたいと願ったが(駒井1960(再録1977:190))、1965(昭和40)年3月には東大を退官する。後に常呂実習施設の初代研究棟となる「常呂町郷土資料館」が常呂町によって建設されたのは、その年の12月のことであった。その2年後、1967(昭和42)年には考古学研究室から助手が1名派遣され、常呂実習施設の前身となる通称「常呂研究室」が開設された。これが、現在まで続く常呂実習施設の始まりとなったのである。
(4)調査年表
上に述べた駒井の足跡のうち、北海道の遺跡調査について年表で記す。
1947(昭和22)年
- 9月27日〜10月16日
- 網走市モヨロ貝塚の調査(第1次)(注2)
- (日程不明)
- 小樽市(旧・塩谷村)三笠山(忍路)環状列石の見学
1948(昭和23)年
- 9月18日〜10月10日
- モヨロ貝塚の調査(第2次)
1949(昭和24)年
- 10月3日〜10日
- 小樽市(旧・塩谷村)地鎮山環状列石の調査
- 10月9日〜10月18日
- 釧路市東釧路貝塚の調査(注3)
- (日程不明)
- 釧路市のチャシ跡遺跡の見学
1950(昭和25)年
- 9月25日〜10月5日
- 余市町西崎山環状列石(1区)の調査(注4)
- 10月6日
- ニセコ町(旧・狩太町)北栄(曽我)環状列石の見学(注5)
1951(昭和26)年
- 9月18日〜23日
- 北栄(曽我)環状列石の調査
- 9月24日
- ニセコ町(旧・狩太町)滝台環状列石(曽我滝台遺跡)の調査
- 9月26日〜29日
- 余市町西崎山西環状列石(2区)の調査(第1号の発掘(中断)、第2号・第3号の発掘)
- 9月30日
- 深川市(旧・音江村)音江環状列石の予備調査(発掘について音江村当局の了解を得る)
- 10月4日〜10月12日
- モヨロ貝塚の調査(第3次)(注6)
- (日程不明)
- 知床半島の一般調査(注7)
- 10月15日〜19日
- 森町尾白内貝塚の調査
1952(昭和27)年
- 10月3日〜4日
- 余市町警察裏山遺跡の調査
- 10月5日〜8日
- 西崎山西環状列石(2区)の発掘(第1号の発掘(再開))
- 10月9日〜10日?
- 西崎山周囲の踏査、余市町西崎山南環状列石(3区)の調査(第1号・第2号の発掘、第3号の発掘(中断))
- 10月12日〜16日
- 音江環状列石の調査(測量、第3号・第5号の発掘(中断)、第2号の発掘と復元)
- 10月17日
- 旭川市(旧・神居村)神居古潭環状列石(神居古潭5遺跡)の見学(河野・護(1952)の発掘した「1号石籬」を撮影)
- 10月20日〜?
- 尾白内貝塚の調査
1953(昭和28)年
- 10月5日?〜
- 西崎山南環状列石(3区)の調査(第3号の発掘(再開))(注8)
- 10月9日〜12日
- 音江環状列石の調査(第7号・第9号の発掘)(注9)
- 10月13日以降?〜20日
- 尾白内貝塚の調査
1955(昭和30)年
- 5月16日〜18日
- 音江環状列石の調査(第3号・第5号の発掘(再開)・第10号の発掘)
1956(昭和31)年
- 5月21日〜28日
- 音江環状列石の調査(第11号・第12号・第13号の発掘)(注10)
- (この年の秋)
- 北見市(旧・常呂町)を訪れて大西信武の案内により遺跡を見学
1957(昭和32)年
- 10月6日〜14日
- 北見市栄浦第一遺跡の調査(1号・2号・3号竪穴の発掘)
1958(昭和33)年
- 8月15日〜22日
- 北見市栄浦第二遺跡の調査(1号竪穴の発掘)
- 8月(詳細日程不明)
- 尾白内貝塚の補足調査
- 10月25日〜27日
- 斜里町ガッタンコ貝塚・ガッタンコチャシ等の調査、斜里町ウトロの竪穴の視察
1959(昭和34年)
- 9月24日〜10月5日
- 斜里町ウトロ海岸砂丘遺跡の調査(注11)
- 10月4日〜11日
- 北見市岐阜第一遺跡の調査(1号・2号竪穴の発掘)
注
- 1)駒井は、北海道の「ストーン・サークルまたはその退化した形式に属する立石など」を下記の3種、すなわち「ストーン・サークル」・「環状列石墓」・「立石遺構」に分類して区別している(駒井1973:103)。しかし、各遺跡において個々の遺構がどれに当てはまるのか判断に迷う例もあるため、本サイトではこの分類には従わず、これらの遺跡・遺構を総称して「環状列石」と呼ぶことにする。
- 2)『琅玕』(駒井1977:7)には9月28日から10月18日まで参加したとあるが、ここでは『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 下巻』(駒井編1964、以下、『下巻』と略)の記録を掲載した。
- 3)東釧路貝塚の調査日程は河野・沢(1962:4)の記述に拠った。なお、この日程は、一部がこの年の地鎮山の調査日程(駒井1959:2)と重複しているが、詳細は不明である。東釧路貝塚の調査については、本文で述べたとおり『琅玕』の年譜には記載がないが、『アイヌの貝塚』(駒井1952a)には調査の概略が記されており、そこには東釧路貝塚に加えて、周辺にあるいくつかのチャシ跡を実見したことも述べられている。
なお、『琅玕』の年譜(8頁)には、「忍路」(地鎮山を指すとみられる)の発掘に続いてモヨロ貝塚を発掘調査したとあるが、他に記録はなく詳細は不明である。東釧路貝塚をモヨロ貝塚と取り違えたのかもしれない。 - 4)「西崎山(1区)」・「西崎山西(2区)」・「西崎山南(3区)」の略称と内容については、こちらに記している。
- 5)『琅玕』の年譜(8頁)には、「余市ストーン・サークル」の発掘に続いて9月10までモヨロ貝塚を発掘調査したと掲載されており、その一方で、旧・狩太町の調査については記されていない。モヨロ貝塚に関しては、この年に調査が行われたという記録はこの記事のほかにはなく、詳細は不明である。
- 6)『琅玕』の年譜(8頁)では10月4日から10月11日まで参加したとあるが、『下巻』の記録を掲載した。
- 7)『琅玕』の年譜には記載がないが、『下巻』(99頁)では、1951(昭和26)年に「網走に本拠をおいて、宇登呂・羅臼あたりの一般調査を行なった」と記述されている。おそらく、モヨロ貝塚第3次調査の前後頃にこの一般調査が実施されたのであろう。
- 8)『琅玕』の年譜(9頁)によれば、10月5日〜20日まで西崎山・斜里町・音江村・尾白内を調査したとされている。『日本の巨石文化』(駒井1973:41)では、1953(昭和28)年に西崎山南環状列石(3区)の第3号を発掘したとあるので、その調査が10月5日頃に行われたと考えられる。音江村の調査日程は後注9)のとおりであるが、斜里町の調査内容と日程と、尾白内貝塚の調査日程の詳細はいずれも不明である。斜里町については、「宇登呂・羅臼あたりの一般調査を行ったのは、昭和26年以来である」(『下巻』99頁)とあるので、その記述との間に矛盾がある。1951(昭和26)年の調査を1953(昭和28)年と取り違えたのかもしれない。
- 9)『音江』(駒井1959:4)では、1953(昭和28)年10月9日から12日まで第3号・第7号・第9号を発掘したとあるが、同書28頁の第3号の記述では1952(昭和27)年に調査を一時中止し、1955(昭和30)年に墓坑を掘ったとある。第3号の調査日程については後者の記述に従う。
- 10)『音江』(4頁)では調査日程が5月25日から28日までと記されているが、『日本の巨石文化』(67頁)と『琅玕』(10頁)では5月21日から28日までとなっている。ここでは後者を掲載した。
- 11)ウトロ海岸砂丘遺跡(『下巻』)と岐阜第一遺跡(駒井編1963)の調査日程の一部が重複しているが、詳細は不明である。
引用参考文献
- 上記の文章と年表は、主として、「スグ ユク アトフミ」(大貫2002)、『音江』(駒井1959)、『日本の巨石文化』(駒井1973)、『琅玕』(駒井(藤江編)1977)、『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡』上巻・下巻(駒井編1963・駒井編1964)の各記述に基づいて編集したものである。他の文献を含めた引用文献の一覧は、こちらにまとめて掲載した。