東京大学大学院人文社会系研究科附属北海文化研究常呂実習施設所蔵 駒井和愛の北海道調査 発掘調査写真 デジタルアーカイブ

2 各遺跡の概要

はじめに

ここでは、駒井が調査を行い、本サイトにその写真を掲載した各遺跡について、遺跡の概要と、駒井が行った調査の概略を紹介する。

遺跡の掲載順は駒井の調査の年代順に概ね沿っているが、一部を入れ替えている。遺跡の名称が煩雑になっているのは、駒井の調査報告に記された名称を尊重すると同時に、現在、北海道教育庁が管理する「埋蔵文化財包蔵地調査カード」に登載された名称(以下、「周知の包蔵地の名称」と略)との対比が可能になるように留意したためである。本サイト公開時点での「周知の包蔵地の名称」やその登載番号、史跡として登録されている指定名称については、各遺跡の項に記してある。

駒井の調査の内容については、『音江』(駒井1959)と『日本の巨石文化』(駒井1973)の記載に基づいてまとめた。駒井の著作以外の主要文献については、各遺跡の末尾に掲載しておく。遺跡の所在地や地図等については、北海道教育庁の「北の遺跡案内」webサイト(https://www2.wagmap.jp/hokkai_bunka/Portal)に詳しい情報が掲載されているので、そちらを参照いただきたい。

(1)三笠山(忍路)環状列石

『音江』(74頁)では「三笠山」の環状列石として紹介されている遺跡である。小樽市(旧・塩谷村)忍路の、三笠山と呼ばれる丘陵の麓、緩斜面から平坦面にかけての土場と称せられる標高約25mの地点に位置する。周知の包蔵地の名称は「忍路環状列石」(登載番号D-01-2)である。

遺跡に関する最初の報告は1886(明治19)年に渡瀬荘三郎によってなされ(渡瀬1886)、その後もN. G. マンローのPrehistoric Japan(Munro, 1908)で取り上げられるなど、この環状列石は学史的にも著名である。駒井は1947(昭和22)年に初めてこの遺跡を見学し、その後、列石の平面図を『音江』(駒井1959)に掲載している。

環状列石は、高さ約1mの立石が南北約30m、東西約22mの楕円形をなして立ち並ぶかたちで構成され、立石の根元には3m内外の幅で小さな石が敷き詰められている。また敷石の外側、列石の南東側の一部にも立石が二重になるかたちで点在する。列石の中央部では、駒井の調査の時点でも立石が僅かに認められているが、かつてそこには数個の立石が立ち並んでいたとされる。環状列石に伴う遺物は確認されていないが、遺跡周辺の分布調査で検出された遺構や出土遺物、さらには周辺の忍路土場遺跡などとの関係から、現在の研究では遺跡の時期は縄文時代後期中葉と考えられている。

遺跡はその後、1961年に国の史跡に指定されている。指定名称は「忍路環状列石」である。

文献:畠山1959、北海道埋蔵文化財センター編1989、小樽市教育委員会編1999、小樽市教育委員会編2001(注1)

(2)地鎮山環状列石

小樽市(旧・塩谷村)忍路の、地鎮山と呼ばれる標高約50mの丘の頂上部に位置する。周知の包蔵地の名称は「地鎮山環状列石」(登載番号D-01-3)である。環状列石は、高さ1mほどの立石が12個ほど、長径約10m、短径約8mの長軸が北西を向く楕円形をなして立ち並ぶかたちで構成されている。

駒井の調査は1949(昭和24)年に行われ、立石内部の南東側にある積石と、その下部の墓坑が発掘されている。墓坑は平面形が約2m四方の方形で、床面には敷石が認められている。遺構に伴う遺物は確認されていない。発掘後、駒井はこれらの積石と墓坑の復元も行っている。

この遺跡の詳細な時期は不明であるが、遺構の形態から現在の研究では縄文時代後期と考えられている。遺跡周辺の分布調査では縄文後期中葉と縄文晩期中葉の遺物が出土しており、これらの時期とも関連する可能性がある。

本遺跡は調査の翌年、1950(昭和25)年に道の史跡に指定されている。現在の指定名称は「地鎮山環状列石」である。

文献:小樽市教育委員会編1999、小樽市教育委員会編2001

(3)西崎山環状列石(西崎山(1区)・西崎山西(2区)・西崎山南(3区))

余市町栄町と小樽市(旧・塩谷村)蘭島の境界にまたがる、西崎山と呼ばれる標高約50m〜100mの尾根上に位置する。周知の包蔵地の名称は、余市町内が「西崎山環状列石」(登載番号D-19-4)、小樽市内が「西崎山ストーンサークル遺跡」(登載番号D-01-64)である。遺跡の範囲は南北約130mに及んでおり、その中に遺構が集中する地点が7箇所認められている(1区〜4区・5区a・5区b・5区c)。

発掘調査は駒井によって初めて行われ、1950(昭和25)年から1953(昭和28)年にかけて、後に1区・2区・3区と呼ばれる地点で実施された。詳細は後述する。続いて1963(昭和38)年には余市町教育委員会による調査が行われている(峰山・久保1965)。この調査では駒井の調査地点を1区〜3区と読み替えた上で、2区の復元と3区の整備が行われており、どちらの区でも駒井の報告には掲載されていない環状列石や配石が追加で検出されたと報告されている。1968(昭和43)年と1972(昭和47)年には、大場利夫と重松和男が、自らが4区と名付けた地点で調査を行い、5基の「組石遺構」を発掘している(大場・重松1977)。1997(平成9)年には北海道教育委員会・小樽市教育委員会・余市町教育委員会が遺跡の範囲確認調査を行い、5区a・5区b・5区cと名付けた地点で新たに配石を確認している(田才ほか1999)。さらに1988(昭和63)年と2000(平成12)年には北海道埋蔵文化財センターによる確認調査が行われ、前者の調査(北海道埋蔵文化財センター編1990)では1区〜4区の現況が、後者の調査(北海道埋蔵文化財センター編2001)では1区を除く各区の現況が、それぞれ確認されている。

後に1区とされた地点の環状列石については、駒井の調査の翌年、1951(昭和26)年に道の史跡に指定されている。現在の指定名称は「西崎山環状列石」である。

以下、駒井が調査した地点の概略を記す。駒井が調査した環状列石は、遺構の形状などから、現在の研究では縄文時代後期のものと考えられている。

西崎山環状列石(1区)

西崎山の頂上附近に位置する。1950(昭和25)年に発掘が行われ、長径約17m、短径約11mの範囲に配石が確認され、その範囲の南部分では小形の環状列石が7基、密集して検出された(第1号〜第7号)。各環状列石はいずれも直径1m〜2mの範囲に石をめぐらしたもので、その内側には積石があり、積石の下部では土坑が検出されている。土坑から遺物は出土していないが、いずれも墓と考えられている。積石の中からは縄文後期中葉の土器が出土している。

西崎山西環状列石(2区)

1区から「小さい沢を一つ越えた西方の台地つまり西崎山の裏」(駒井1959:65)、あるいは「西崎山の西方」(駒井1973:40)とされた地点に位置する。1951(昭和26)年と1952(昭和27)年に発掘が行われ、3基の環状列石が検出された(第1号〜第3号)(注2)。これら3基の環状列石はいずれも中央に一本の立石を立て、その根元に円形の石を放射状に並べた形状のものである。第1号の下部では墓とみられる土坑が検出されているが、第2号・第3号では立石の下部に土坑は検出されていない。この調査では、遺物の出土は報告されていない。

駒井の調査後、1963(昭和38)年に行われた余市町教育委員会の調査では、第1号〜第3号の北方に、これらと同様の形状の環状列石1基と立石のない石積2基を発見したとされるが、これには再検討の余地があると考えられる(注3)

西崎山南環状列石(3区)

「西崎山西の立石のあるところから、さらに南に行った雑木林のなか」(駒井1959:70)、あるいは「西崎山の西方一㌔ほどの、貝塚のある丘陵の頂」(駒井1973:41)とされた地点に位置する。1952(昭和27)年と1953(昭和28)年に発掘が行われ、3基の環状列石が検出された(第1号〜第3号)。これら3基の環状列石はいずれも一本の立石を立て、第1号はその東側に角形の石を、第2号・第3号はその根元に放射状に円形の石を、それぞれ並べた形状のものである。3基とも立石の下部に土坑は検出されていない。この調査では、第3号の積石などから線刻のある石が出土しているが、他の遺物の出土は報告されていない。

1963(昭和38)年の余市町教育委員会の調査では、駒井の調査地点で、第1号〜第3号と同様の形状の環状列石5基(3号・4号・6号・10号・No.7)とその痕跡2基(P1・P3)、配石遺構3基、土坑1基などが確認されている。この報告書では駒井が調査した遺構との対比は行われていないが、駒井の第1号が余市町教委の3号に、第2号が6号に、第3号が10号に、それぞれ相当するとみられる。

1988(昭和63)年と2000(平成12)年に行われた北海道埋蔵文化財センターの調査では、駒井の調査地点である「3区1群」に隣接して、「3区2群」・「3区3群」の二つの配石群が確認されている。

3区に関する以上の確認調査においても、土器など、遺跡の詳細な時期を示す遺物は出土が報告されていない。

文献:峰山・久保1965、大場・重松1977、北海道埋蔵文化財センター編1990、田才ほか1999、北海道埋蔵文化財センター編2001

(4)警察裏山遺跡

余市町朝日町の余市川河口部の左岸、余市警察署の西隣にある丘陵の頂部から東斜面にかけての、標高約50〜30mの地点に位置する。周知の包蔵地の名称は「警察裏山遺跡」(登載番号D-19-37)である。

駒井は1952(昭和27)年にこの遺跡を踏査し、高さ1m程の立石をもつ環状列石1基が崩壊しかかった状況で残っていたことを報告している。その際、残っていた立石の下部の様相について確認したようであるが、土坑があるか否かを明らかにすることはできなかったとしている。環状列石の時期は不明であるが、「北の遺跡案内」webサイトによれば、この遺跡では縄文前期〜晩期までの遺物が出土しているとされている。

(5)北栄(曽我)環状列石

『音江』(50頁)では、狩太の「北栄の丘」にあるとされている遺跡である。ニセコ町(旧・狩太町)字曽我の、尻別川の支流である滝の沢川の右岸にある標高約230mの丘陵上に位置する(注4)。周知の包蔵地の名称は「曽我環状列石」(登載番号D-06-4)である。

駒井は1950(昭和25)年にこの遺跡を見学し、翌1951(昭和26)年に発掘調査を行っている。駒井の調査開始時点でこの遺跡には4基の環状列石が残っており、駒井はそれを4基とも発掘している(第1号〜第4号)。破壊が進んだ第4号を除く3基の環状列石はいずれも直径約1.5m〜2mほどの円形ないし楕円形を呈し、外周には立石ないし低い石がめぐり、内部には積石が検出されている。4基とも積石の下部には墓坑とみられる土坑が検出されており、第2号・第3号・第4号の土坑床面からはヒスイの玉などが出土している。また、第3号の積石の下層からは縄文後期の土器が出土している。これらの環状列石は、出土遺物や遺構の形状などから、現在の研究では縄文時代後期のものと考えられている。

文献:狩太町教育委員会編1957

(6)滝台環状列石(曽我滝台遺跡)

『音江』では、狩太の「上滝台」(50頁)にある「滝台の環状列石」(55頁)とされる遺跡である。ニセコ町(旧・狩太町)字曽我の、尻別川の支流である東の沢川の右岸にある標高約185mの丘陵上に位置する(注5)。周知の包蔵地の名称は「曽我滝台遺跡」(登載番号D-06-5)である。

駒井が調査を行った時点で、この遺跡には環状列石が1基のみ残っていたが、元々は数基が存在していたとされる。残っていた1基については、昭和の初頭に河野常吉によって発掘調査が行われ、その際には遺物が出土しなかったとされているが(駒井1959)、この調査の詳細は不明である(注6)

駒井の調査は1951(昭和26)年に行われている。環状列石は長径約2.8mの楕円形を呈し、外周には立石がめぐり、立石内部には積石が検出されている。積石の下部では墓坑とみられる土坑が検出され、床面からはヒスイの玉が出土している。この環状列石は、遺構の形状などから、現在の研究では縄文時代後期のものと考えられている。

(7)神居古潭環状列石(神居古潭5遺跡)

旭川市(旧・神居村)神居町神居古潭の、神居山の北面の中腹にある標高213mの狭小な平坦面に位置する。周知の包蔵地の名称は「神居古潭5遺跡」(登載番号F-01-53)である。

最初の調査は1952(昭和27)年に河野広道・護雅夫らによって行われた(河野・護1952)。この調査では12基の環状列石の存在が確認され、その内の最大のものである1基(1号石籬)が発掘されている。この1号石籬は長軸約3mの方形を呈するもので、外周には立石がめぐり、内部に積石が検出されている。積石の下部では方形の土坑が検出されているが、土坑から遺物は出土していない。

駒井は、河野・護らによるこの調査の直後、同年10月に遺跡を訪れ、1号石籬などを撮影している。発掘調査は行っていない。

その後、1989(平成元)年には旭川市教育委員会による測量調査が行われている(旭川市教委編1990)。この調査では、遺跡が位置する約300m2の平坦面全体において、1号石籬に相当するもの(Ⅰ群)を含めてⅠ群〜Ⅹ群までの10群の配石が確認されている。これらの配石に関しては、板状の立石を楕円形や方形などの形状に並べて区画するものや、円形の石を放射状に配するものなど、複数の配列法が確認され、これらの方法を組み合わせて径1m弱〜約5mまでの大きさの環状列石が形成されていることが明らかにされた。配石下部の発掘は行われていないが、配石の中央部が窪むなど、墓坑の存在をうかがわせる例が多く見られるとされている。

これらの環状列石は、測量調査の際に採集された土器や、遺構の形状から、現在の研究では縄文時代後期のものと考えられている。

文献:河野・護1952、旭川市教育委員会編1990

(8)音江環状列石

深川市(旧・音江村)音江町字向陽の、稲見山と呼ばれる石狩川に向かって張り出した標高113〜117mの丘陵の突端部に位置する。周知の包蔵地の名称は「音江の環状列石」(登載番号E-10-8)である。

遺跡に関する最初の報告は1894(明治27)年に高畑宜一によってなされており(高畑1894)、その後も鳥居龍蔵の考察で取り上げられるなど(鳥居1919)、この環状列石は忍路のそれと並んで学史的にも著名である。高畑の報告では11基の「環状石籬」があったとされ、その後、阿部正巳による1918(大正7)年の報告(阿部1918)では15基の環状列石が図示されている。阿部はこの報告で、15基のなかの、中小のもの4〜5基について発掘を試みたが、遺物は出土しなかったと述べている。

駒井の調査は、1952(昭和27)年・1953(昭和28)年・1955(昭和30)年には「北側の遺跡」で、1956(昭和31)年には「南側の遺跡」で、それぞれ行われた。「北側の遺跡」は、それまでの報告で環状列石の存在が知られていた地点であり、駒井の調査の時点では10基の環状列石が確認された(注7)。駒井はこのうちの第2号・第3号・第5号・第7号・第9号・第10号を発掘し、いずれの環状列石の下部からも墓坑とみられる土坑を検出している。このうち第3号・第5号・第9号・第10号の土坑底面からはヒスイの玉が出土するなど、遺構に伴う遺物も検出されている。それらの出土遺物などから、これらの環状列石は現在の研究では縄文時代後期のものと考えられている。なお、駒井は調査時の所見として、第1号・第2号・第5号・第8号は過去に発掘調査がなされていると推定しているが、その発掘が阿部正巳によるものかどうかは不明である。

「南側の遺跡」は1956(昭和31)年に存在が確認されたもので、「北側の遺跡」の南隣に位置する。東西南北が人為的に積まれたとみられる土手で囲まれており、囲まれている範囲は東西約40m、南北約50mに及ぶ。駒井はこの土手の内部に3本のトレンチを設定して調査を行い、3基の墓坑(第11号・第12号・第13号)を発掘している。いずれも墓坑上面に積石の痕跡は認められたが立石は存在せず、墓坑の底面では敷石が検出されている。第11号の墓坑ではヒスイの玉23点・石鏃13点・朱漆の弓1点が出土するなど、3基とも副葬品とみられるヒスイの玉などの遺物が墓坑から多く出土している。それらの出土遺物などから、この「南側の遺跡」の時期も現在の研究では縄文時代後期のものと考えられている。なお、この「南側の遺跡」については、四方を囲っている土手の存在から、周堤墓である可能性を指摘する意見もある(深川市教育委員会編2017)。

この遺跡は、駒井の調査が終了した年の1956(昭和31)年に、「北側の遺跡」「南側の遺跡」をあわせた全体が国の史跡に指定されている。指定名称は「音江環状列石」である。

文献:高畑1894、阿部1918、深川市史編さん室編1977、北海道埋蔵文化財センター編1988、深川市教育委員会編2017

  • 1)小樽市教育委員会編の報告書(2001)の図11には、環状列石内部の南西側に、L字形のトレンチが掘られた跡があることが記載されている。大島秀俊(2007)は、このトレンチを駒井が1951(昭和26)年に掘ったものとしている。大島がこのように判断した根拠は不明であるが、駒井の著作や、常呂実習施設所蔵の関連資料には、駒井が忍路環状列石でトレンチ調査を行った記録は確認できない。このことに関して駒井は、1959(昭和34)年に刊行された『音江』の中で、忍路環状列石について「縦横の発掘溝をうがつてみて、私の想像したところを実際に証明してみたいと思っている」(75頁)と述べているので、少なくともこの発言以前にトレンチ調査を行っていた可能性は極めて低いとみられる。
  • 2)『音江』や『日本の巨石文化』では、西崎山西(2区)で検出された環状列石は第1号〜第3号の3基とされている。しかし、常呂実習施設に所蔵されている、駒井の調査時に作成された遺構平面図を確認すると、上記3基のほかにもう1基が確認されていたことをうかがわせる記録がある。すなわち、この平面図には、第1号・第2号から北東方向に約19.3m離れた地点に、第1号〜第3号と同形状の環状列石1基の実測図が記録されているのである。実測図で「北1号」と表記されているこの環状列石について駒井が報告や論文等で言及している例は確認できておらず、これは未報告の遺構とみられる。
     さらに注目されるのは、この「北1号」の実測図が、『音江』図版27-2の写真の環状列石を記録しているとみられることである。この図版の写真は第3号を写したものとして報告されているが、これは上記の「北1号」を撮影した写真である可能性が高く、何らかのミスで取り違えが生じているとみられる。
  • 3)余市町教育委員会の報告書(峰山・久保1965)では、「石積(a)」・「石積(b)」・「石積(c)」の3基の遺構を新たに発見したとされる。しかし、このうち「石積(a)」として掲載された写真(同書:図版Ⅳ)を見ると、その立石は、駒井が調査した第3号(ここでは『音江』図版27-2ではなく、本サイトNZN_13及びNZN_14のことを指している。前注2)を参照されたい)の立石と明らかに同一のものであることがわかる。これはどのように解釈したらよいだろうか。難しいが、駒井の調査後に復元された第3号は、余市町教委の調査時にはすでに破壊されていたことからすると、「復元された第3号の破壊後、原位置から北方に離れた地点に誰かが再度復元したものを、新たな積石(「石積(a)」)と誤認した」という状況が、一つの可能性として考えられる。
     また、「石積(b)」については、その平面上の位置から判断すると、これは前注2)に述べた「北1号」の環状列石であった可能性が考えられる。ただし、「石積(b)」には立石が残っていなかったとされるので、その点が「北1号」とは異なっており、注意が必要である。
  • 4)北栄(曽我)環状列石の所在地について、『音江』第33図の地図上の位置には誤りがあることを指摘しておく。正しい位置は、同図の印から南西に500mほどの地点である。
  • 5)滝台環状列石(曽我滝台遺跡)の所在地についても、『音江』第33図の地図上の位置に誤りがあることを指摘しておく。正しい位置は、同図の印から南東に500mほどの地点である。
  • 6)河野常吉が旧・狩太町の環状列石について記した記録としては、1925(大正14)年の聞き取り調査によるものを探すことができたが(河野(宇田川校訂)1981)、そこには河野自身による発掘の記録は確認できなかった。
  • 7)駒井の調査後、1977年に刊行された『深川市史』によれば、本遺跡には「北側の遺跡」「南側の遺跡」の二つをあわせて合計42基の環状列石が存在するとされているが(深川市史編さん室編1977:60)、詳細は不明である。
引用参考文献
  • 旭川市教育委員会編1990『神居古潭ストーンサークル遺跡調査報告書』旭川市教育委員会
  • 阿部正巳1918「石狩国の環状石籬」『人類学雑誌』第33巻第1号、1-4頁
  • 大島秀俊2007「北海道の諸遺跡」『季刊考古学』第101号、21-26頁
  • 大貫静夫2002「スグ ユク アトフミ」『東京大学コレクションⅩⅢ 北の異界』東京大学総合研究博物館、134-142頁
  • 大場利夫・重松和男1977「北海道後志支庁余市町西崎山遺跡4区調査報告」『北海道考古学』第13輯、13-25頁
  • 小樽市教育委員会編1999『忍路環状列石』小樽市教育委員会
  • 小樽市教育委員会編2001『忍路環状列石Ⅱ』小樽市教育委員会
  • 狩太町教育委員会編1957『狩太遺跡』狩太町・狩太町教育委員会
  • 河野常吉(宇田川洋校訂)1981『河野常吉ノート 考古篇1』北海道出版企画センター
  • 河野広道・沢四郎1962「Ⅱ 研究史大要」『東釧路』釧路市教育委員会、3-5頁
  • 河野広道・護雅夫1952「カムイコタンのストーン・サークル」『考古学雑誌』第38巻第5・6号、35−40頁
  • 駒井和愛1952a『アイヌの貝塚』福村書店
  • 駒井和愛1952b「日本に於ける巨石記念物 続々々」考古学雑誌第38巻第5・6号、22-34頁
  • 駒井和愛1959『音江』慶友社
  • 駒井和愛1973『日本の巨石文化』学生社
  • 駒井和愛1960「オホーツク海岸の冬ごもり」『群像』第15巻第1号(再録:駒井和愛(藤江稔編)1977『琅玕』駒井博愛・駒井和愛博士記念会、187-190頁)
  • 駒井和愛(藤江稔編)1977『琅玕』駒井博愛・駒井和愛博士記念会
  • 駒井和愛編1963『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 上巻』東京大学文学部
  • 駒井和愛編1964『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 下巻』東京大学文学部
  • 杉村勇造1977「駒井和愛氏の追憶」『琅玕』駒井博愛・駒井和愛博士記念会、ⅱ-ⅴ頁
  • 高畑宜一1894「石狩川沿岸穴居人種遺跡」『東京人類学会雑誌』第10巻第103号、2-17頁
  • 田才雅彦・青木誠・乾芳宏1999「西崎山ストーンサークルの調査について」『余市水産博物館研究報告』第2号、1-10頁
  • 鳥居龍蔵1919『考古学民族学研究・千島アイヌ』東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編(再録:1976『鳥居龍蔵全集 第5巻』朝日新聞社、310-553頁)
  • 畠山三郎1959「忍路三笠山のストーンサークル考」『アイヌ・モシリ』第3号、11-24頁
  • 深川市教育委員会編2017『深川市ふるさと歴史めぐり』深川市教育委員会
  • 深川市史編さん室編1977『深川市史』深川市役所
  • 北海道埋蔵文化財センター編1988『深川市音江2遺跡』北海道埋蔵文化財センター
  • 北海道埋蔵文化財センター編1989『小樽市忍路土場遺跡・忍路5遺跡』北海道埋蔵文化財センター
  • 北海道埋蔵文化財センター編1990『余市町栄町5遺跡』北海道埋蔵文化財センター
  • 北海道埋蔵文化財センター編2001『西崎山ストーンサークル 重要遺跡確認調査報告書第1集』北海道埋蔵文化財センター
  • 峰山巌・久保武夫1965『郷土研究No.7 西崎山』余市町教育委員会・余市町郷土研究会
  • 渡瀬荘三郎1886「北海道後志国に存する環状石籬の遺跡」『人類学会報告』第2号、30-33頁
  • Munro, N. G. 1908(Reprinted in 1911) Prehistoric Japan. Yokohama: Author.
    〔再版:1982 Prehistoric Japan. Tokyo:Daiichi Shobo〕