証明は「根拠(ratio)による」と「典拠(auctoritas)による」の二通りからなっている。まず前者の主要なものは次の通り。
名称はすべてある限定されたものを表示する。たとえば「人間」「石」「木」などであり、これらが語られたとすると私たちは直ちにそれらが表示する物を理解するのである。 | Omne nomen finitum aliquid significat, ut homo, lapis, lignum: haec enim ut dicta fuerint, simul res, quas significant, intelligimus. |
すなわち、「人間」という名称は、何らかの差異を別にしては、 人間の普遍性を指示するのであり、また「石」や「木」も同様にその類性(一般性)を包含するのである。 | Quippe hominis nomen, praeter differentiam aliquam positum, universalitatem hominum designat: lapis et lignum suam similiter generalitatem complectantur. |
そういうわけで「無」は、名称でありさえするならば、文法学者が主張するように、限定名称なのである。 | Igitur nihil, si modo nomen est, ut grammatici asserunt, finitum nomen est. |
さて、名称はすべてある限定されたものを表示する。 | Omne autem nomen finitum aliquid significat, |
ところで、ある限定されたものがあるものでないことは不可能である。 | Ipsum vero aliquid finitum, ut non sit aliquid, impossibile est. |
かくて、無------それは限定されたものである------があるものではないことは不可能であり、このことによって無があることは蓋然的であることとなる。 | Impossibile estut nihil, quod finitum est, non sit aliquid, ac per hoc esse probabile est. (Fredegisus, ed. C.Gennaro, 126) |
フレデギススは続いて第2、第3の証明を挙げる。第2はたとい「無」が名称でないとしても、「表示機能を帯びた音声」でありさえすれば該当する証明であり、
第3は「無」が「表示作用」を行うかぎり妥当する証明として提示されている、と解し得る。
次に典拠(権威)に依拠する証明は、次のようなものであった。
公同の教会は、......、神の力が地、水、空気と火、さらにまた光や天 使たちおよび人間の魂を、無から創ったことを告白している。
........
すなわちこれ(至高の権威)が、被造物のなかで第一であり、優れているものどもが無から造られたと宣言するのである。そうであれば無はある偉大な優れた何かものであることになる。...... (ibid.)
ratio による証明については、前節でみた アルクィヌスの理解を参照しながら考えると、名称をめぐる文法学と弁証学の理解の差にフレデギススも気付いていたことがわかる。彼の証明の構造は:
次に、典拠による証明についてであるが、「無からの創造」ということについてフレデギススが何を考えていたかを理解するためには、 アルクィヌスの創世記解釈(Interrogationes et responsiones in Genesin)を参照することが有効であろう。
アルクィヌスは次のようなことを言っている(PL 100,519A-520A)。
Q. どのような被造物が無から造られたのですか。先に引用したフレデギススの考えは、その師アルクィヌスの創世記冒頭の解釈と一致している。
A. 天、地、天使、光、空気、水、および人の魂です。
Q. 世界はいくつの元素から成り立っていますか。
A. 4つ、つまり火、空気、水、地です。
.............
Q. 「はじめに(=原理において)神は天と地を創った(Gen.1,1)」とはどういうことですか。
A. 御子において天と地を造りあげたということです。
.............
Q. ここで「天」と「地」という名称においてなにが表示されていますか。
A. かの無形の質料------神が無から造った------がまず天と地と呼ばれたのです。それは既にもうそういうものであったからではなく、そういうものであることが既に可能だったからです。...... あるいは天と地という名称で霊的被造物および地上の被造物が理解されることも可能です。
.............
Q. 「神は語った、そして光ができた」と言われているのはどういうことですか。
A. 「語った」というのは「造った」の言換えであって、記者は神の業の素晴らしさ、容易さを示すために、この言換えをしたのです。
Q. 「神は光を昼と呼んだ」というのはどういうことですか。
A. つまり、呼ばれるようにしたということです。
# PL 100,519A-D. ここで人間の魂が創造のはじめに造られたという説 は教父の間にもあったものであり、それを継承しているのであるが、必ずしも共通に認められたものではなく、たとえばアルクィヌスの弟子ラバヌス・マウルス(c.780-856)はこれを否定している。cf. De rerum naturis , IV,10.
ただし、初めに造られた7つのものの内訳が両者の間で若干異なる。 フレデギススにおいては、4元素+〈光、天使、人間の魂〉であるのに対し、アルクィヌスは4元素--火+天+〈光、天使、人間の魂〉であるのだから。だか、アルクィヌスはこの7つの提示に続いてただちに4元素に言及するので、まあ両者の意図は同じだと看做せるだろう(はじめの7つの枚挙のところのテキストについては、MSにあたって、確認する必要があるけれども)。
あらゆるものの質料となる4元素をはじめとするこれらのものを「無から」造ったという教説を受けて、フレデギススはそれらがそこから造られたという無は何かと考える。そこで「そうしたものがそこから造られた以上、それは限りなく偉大なものでなければならない」と論じ進む。ここに「無からの創造」思想が初期キリスト教の理論家たちによって提出された際の文脈が失われている。
# 初期キリスト教思想における〈無からの創造〉理解の形成について、筆者は別の機会に論じた。拙論「アルケー論と無からの創造」 (『途上』 22 1993年11月 3-20頁)参照。
アルクィヌスは「はじめに/原理において」(in principio)を「子において」(in Filio) と解する点、およびそこでまず造られたのが「無形の質料」(materia informis) であることを認める点で、教父らの理解を受け継いでいるのではあるが、アルケーないし原理がいかなる質料にも帰せ られず、子なる神にないしことばに帰せられるのだという主張の文脈は落として、ただその文脈から生じた結論のみを提示している。この文脈が生きていれば、無形の質料の「どこから」への答えとしての「無から」に対して、さらに「無はなにか存在するものではないか」といった問いは出ようがないからである。
だが、ここから直ちにフレデギスス的理解の幼稚さを指摘するのは早計である。彼が4元素がそこから造られたという無は何か限りなく偉大なものであると主張したときに、無として巨大な質料ないしカオス的存在者を考えていた------(フレデギススの議論の日本における多分最初の紹介者・出隆はこう理解している)------とは考えにくいからである。アルクィヌスはこうした4元素の創造をまた「無形の質料の無からの創造」として解説してもいるからである。むしろ「無」ということばによって、神ないしそのうちなる原型イデアのようなものを考えていた可能性がある。
フレデギススより少し後のエリウゲナは、「無」をすべての存在性・実体・偶有性の欠如とする理解と、神の超存在性の卓越した有り方とを挙げて比較論じている。エリウゲナは一見前者を支持しているようでありながら(そうしないと異端の嫌疑をかけられるのであろう)、本当のところは後者に加担していると私には思われる(Iohannes Scotus,Peri physeon , III, 634B-,679B-,683B-.)。少なくともエリウゲナがこのように二通りの見解を挙げていることは、当時、「無」ということで神の超存在性を指す理解があったことを裏付けている。
さらに、アンセルムスの『モノロギオン』(第九章)における、「無から創られたこれらのものは、創造者のラチオに関していえば、創造に先立って無であったわけではない」という語り方も参照できよう。フレデギススの「無」理解は、こうした思索の系譜の上に位置付けられるかもしれない。
アルクィヌスにおいて、ことばが「表示機能を帯びた音声」として把握されるさいには、それは「規約によって」つまり、「命名者の好みに従って」と解される以上、神ないしアダムによる命名の物語をキリスト教的教説の背景として、古代の継承がなされた。ここではことばは世界の存在を前提にして成り立ち、世界内の「あるもの」を指示する機能を帯びたものとして把握されている。
フレデギススもまた、この点ではその師に準拠しているようにも思われる。しかしまた、彼の「闇の実在」を証明する議論においては、ことばの成立は次の所に求められている。
[闇の実在証明から]
万物の主は、光と闇とを分けた時、光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼んだ。...... 造物主が造ったものに対して名前を設置したのは、おのおのの名前によって、語られた物が認識されるためであった。また造物主は語彙なしには如何なる物も形作りはしなかったし、語彙に対応するものが実在することなしに、何らかの語彙を立てることもなかった。 (ed. Gennaro,133-134. cf.Gen.1,5. Gennaroは引用後半部をアダムによる命名の物語(Gen.2,19-20.)に関係づけているが、そ れは不適当であって、やはりGen.1,5に言及するものである。)アルクィヌスの創世記解釈に、「原理において」を「御子において」と説明しても、「ことばにおいて」という説明、「光り在れと言うと光があった」への関連付けが見られないのと対応して、ここでフレデギススにも、ことばによる世界創造への積極的言及がないことは興味深い。上の引用では、それが語られているように見えもするが、主張が基づくのは造った物をどう呼ぶかということであって、語ることによる創造ではない。
アルクィヌスもまた「(神は)光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼んだ」を解説して「そう呼ばれるようにした」と言っていた。つまり、ここでは「呼ぶ」とは事物に一定の音声のタイプを割り当てることであって、〈ことば〉はあくまでも時の中に鳴り響いては過ぎ去る音声言語なのである。
だが、〈語ることによる創造〉においては、語られる〈ことば〉は音声言語ではありえない。そのようなことば---神のロゴス---理解が見られないのは、アルクイヌス--フレデギススにおいて、ことば理解が文法学・命題論の線に引きずられたからではないだろうか。すなわち、アルクィヌスは 名称等のことばを「規約によって表示機能を帯びた音声」として把握し、「規約によって」を「命名者の好みに従って」と解している。これは、神による「昼・夜」の命名やアダムによる命名の物語(創世記2章)と結び付き易い。だが、事物の存在に先立つ、音声ではない〈ことば〉という把握は、少なくとも当時の文法学・弁証学のどこにも見出せないのである。
無からの創造という教説が固定化した状況のなかで、あえて「無」とは何かと問うのがフレデギススの議論であり、そこでもう一度「ある」と「ない」をめぐってよく考える営みがなされた。だが、〈ことばによる創造〉という考えがないこと、〈ことば〉は結局事物につけられた名称としての音声タイプでしかなかったことが、フレデギススの議論全体を単純なものにしている。この事から逆に私たちは中世哲学がことばと存在をめぐって豊かな議論を展開するためには何が必要だったかに思い至るのである。
とはいえ、そうした未熟さにもかかわらず、諸々の存在者を超えた何かが「無」と呼ばれているらしいことをも、私たちは見出した。「存在する」諸物を支える根拠(アルケー)としての無が、語の表示作用という理論を根拠にして提出されたことは注目に価しよう。