アルクィヌスと中世言語哲学のはじまり
------カロリンガ・ルネサンス

ここで取り上げるのは、カロリンガ・ルネサンスを代表する学者アルクィヌスの弁証学である。カール大帝に招かれて、ヨークからやってきたアルクィヌスは、学校教育の整備という課題に取り組み、自由七科の整備をすし、各種教科書の編纂を行った。その過程で、人文系教科である文法学と弁証学の整合性を求めつつ行った言語についての彼の思索の痕跡を私たちはみることができる。


1. アルクィヌスの『ディアレクティカ』

アルクィヌスの弁証学概説に該当する著作『ディアレクティカ』(DIALECTICA ) を取り上げる。ここではとくに命題論の部分に注目したい。

『ディアレクティカ』全体を通していえることであるが、 アルクィヌスは、先行するイシドルス(Isidorus Hispalensis)の Etymologiae の対応部分を引き写し、あるいは別の要素を付加し、時にこれと入れ替える、という編集作業を通して当該部分を作っている。そのイシドルスもまた、カシオドルス(Cassiodorus)の Institutiones の対応部分の引き写し、ないし付加、ないし別の資料との入れ替え、という編集によって当該部分を書いている、という関係にある。

命題論の部分についていえば、イシドルス は本文はほぼ カシオドルス の引き写しであって、その前に独自の序論を置く、という編集をした。

これに対しアルクィヌスは、まず弁証学中の命題論の位置に関して 変更を加えている。すなわち、 カシオドルス、イシドルスともにほぼ、

の順になっているのに対し、アルクィヌスはなぜか、命題論を最後にもってくる。これはその後の弁証学における体系構成の伝統からいっても異質である。

次に命題論の部分は三者とも、アリストテレスの『命題論』(ボエティウス訳・注解) に沿った構成となっていて、

の7項目に亙って解説をしている。

カシオドルスおよびイシドルスがまことに簡略なものに終わっているの に対し、アルクィヌスは、序論(praefatio)はイシドルスを使いつつ補強し、nomen,verbum,oratio, enuntiatio および enuntiatio 以外のoratioの下位区分の部分は、カシオドルス--イシドルスとは別資料を使い(以下に示すようにボエティウスの第一注釈ないしこれの系統のscholia等に依拠していると思われる)、カシオドルス--イシドルスよりはずっと詳細な検討をしている。ただしaffirmatio 以下は カシオドルス--イシドルスを対話形式に直しつつ引き写しただけのものである。
以下、本論の意図に沿って、アルクィヌスの編集の特徴を指摘したい。予め結論を言っておけば、アルクィヌスは文法学に合わせて、 命題論の伝統的理解を改変していることが明らかである。

=nomen=

アルクィヌスによるnomenの定義は次の通り:

[名称は]規約によって表示機能を帯びた音声であって、時を伴わず、 Vox significativa secundum placitum, sine tempore,
主格においては「ある」または「ない」とともにある限定されたものを表示するが、斜格においてはそうはせず、 definitum aliquid significans in nominativo casu, cum est aut(et) non est, in obliquis casibus nihil,
その如何なる部分も切り離しては表示機能を帯びないようなものである。 cujus nulla pars est significativa separata. (PL101,859B;cf.973A)

この定義はアリストテレス『命題論』第2章に遡源する:
名称は、規約によって表示機能を帯びた音声であって、時を伴わず、 Nomen est vox significativa secundum placitum, sine tempore,
その如何なる部分も切り離しては表示機能を帯びないものである。 cujus nulla pars est significativa, separata.

アリストテレスはこの定義の説明に加えて、さらに
(1) 「非人間」のようなものも名称ではなく無限定の名称であること、
(2) また主格以外の格は名詞(名称)ではなく名称の格であること
を付加する。

アルクィヌスの定義ととアリストテレスの定義との違いは、具体的には

主格においては「ある」または「ない」とともにある限定されたものを表示するが、斜格においてはそうはせず、 definitum aliquid significans in nominativo (+casu), cum est aut(et) non est, in obliquis casibus nihil,

をアルクィヌスが挿入した点にある。この挿入に際しては、ボエティウス の『命題論への第一注釈(editio prima)』が使われていると思われる。 すなわちボエティウスはnomenの部分の最後に彼の定義をこう述べ る(PL64,306B):
名称は規約によって表示機能を帯びた音声であって、時を伴わず、 nomen est vox significativa, secundum placitum, sine tempore,
その如何なる部分も切り離しては表示機能を帯びず、 cujus nulla pars significativa est separata,
ある限定されたものを表示し、 definitum aliquid significans,
「ある」または「ない」と結合すると言明となるようなものである cum est aut non est juncta faciens enuntiationem.

ここでボエティウス がアリストテレスの定義に加えた definitum aliquid significans は、「非人間」などの無限定名詞を排除する文言であり、また cum 以下は斜格をnomenから排除する文言であって、アリストテレスの注釈として妥当である。

ところが、アルクィヌスはボエティウスの定義を、知ってか知らずか、改纂している。ボエティウスは「名称は(単独で)ある一定のものを表示し、〈である〉ないし〈でない〉 と結びついては命題(真偽値ある文)を構成する(しかしcasusの場合はそうならない)」といっているのに、 アルクィヌスは「名称は、主格の場合は〈である〉ないし〈でない〉と結びついて一定のものを表示するが、斜格の場合はそうならない」とするからである。

つまり、これではこの部分のアリストテレス-ボエティウスの意図である 「無限定名称」と「斜格」を nomen から排除することにはならず、 かえって斜格を名称の下位区分として認めることになっている。確かに nomen と nomen の casus(格)とをではなく、nomenのうちで主格と斜格とを場合分けするのは、文法学の線に沿っている。アルクィヌスはここでは文法学を採ったと言わざるを得ない。

次に〈definitum aliquid significans〉(ある限定されたものを表示する)について見ておこう。アルクィヌスは、nomen の定義冒頭の vox significativa に加えた説明で、〈omne nomen aliquid significat〉 (名称はすべてあるものを表示する) としている。これに対して、〈definitum aliquid ...〉の説明としては、 名称の主格は、〈である〉や〈でない〉と結びつくと〈aliquid certum significat〉(ある特定のものを表示する)となるが、斜格の場合は、〈nihil certum significat〉(いかなる特定のものも表示しない)という。つまり、vox significativaというときの significativa は個別のなにかを表示するのではないのに対し、 ここでの significare は文脈中の語の機能として個別の特定のなにかを指すと考えられているようだ。------この考えは後の個別代表(suppositio personalis)の理論によく似ている。

以上のように、nomen についての文法学と論理学の扱いの差を意識して、斜格も nomen であるという主張が意識的になされるのは、 また、語の文脈中の機能を考えるという代表(suppositio)理論が現れるのも、12世紀後半以降のことであるという点に注意したい。そうした考えがこのようにしてアルクィヌスにいわば先駆的に現れているということは興味深い。

=oratio=

さて、動詞については際立った問題はないので、次にoratioを見る。 アルクィヌスによる oratio の定義は次の通りである:

[文は]諸部分を適切に順序付けたもので、まとまった考えを提示するものであり、 Congrua partium ordinatio, perfectam sententiam demonstrans,
その諸部分のあるものは切り離されても表示機能を帯びるようなものである。 cuius partium aliquid separatum significativum est.

定義前半はプリスキアヌスの文法学(Priscianus, Institutiones II,15 cf.Alcuinus PL 101,858A)から採っている。後半はアリストテレス の定義のボエティウス訳より採用(ただし、ボエティウス の定義ではない)。 〈cujus partium aliquid separatum significativum est〉において、 aliquid を対格と解しているかのように〈orationis pars aliquid separata significat〉と説明し、かつ separatum を per se と説明する点は、ボエティウスの解釈に従っている。
# oratio の parsというときに、アリストテレスでは分け方がいろいろあり、そのうちあるわけかたをすると、単独で有意味になるということだろう。ボエティウスではoratioの部分はnomenとverbumだと決まっている。

前半でアリストテレスを採用せず、プリスキアヌスを持ってきているのは、oratioについてのアリストテレスの定義だと、homo albusもoratioになってしまいかねないことに関わるだろう。しかし、文法学からいえば、oratio は文でなければならないのである。そこでアルクィヌスはこれを補うため、vox significativa......は省略して、文法学の定義をここに持ち込んだのであろう。

oratio に関する文法学と弁証学のずれは、後には明確に意識されるようになっていく。例えばアベラールが homo albusを oratio imperfecta(不完全な文句)といって文から区別するときに、 文法学がいうところの oratio を弁証学では「完全な文句」ということによって両学の整合性を保とうとしている。こうしたやり方を引き合いにだしてみると、アルクイヌスはすでにこの点に関する両学の齟齬を認めていたこと、またこれに対するに一方的に文法学の oratio 理解を採用したこと、が興味深いところである。

=enuntiatio=

言明は真(なること)ないし偽(なること)を表示する機能を帯びた文である。 Enuntiatio est oratio veri vel falsi significativa.

『ディアレクティカ』においてenuntiatio は、推論について概説する部分の冒頭である De Argumentis にも登場し、そこでも〈oratio verum aut falsum significans〉とされている。
(De Argumentis 冒頭でenuntiatio が登場するのは、命題論が『ディアレクティカ』の構成において最後に持ってこられたことに因る。すなわち通常はカテゴリー論のあとに命題論がきて、ここでnomen、verbumからはじめてenuntiatio、さらに肯定、否定と説明がされたうえで推論の話になるところを、命題論がその場所から抜けてしまったために推論の話の冒頭でenuntiatioから説き起こさねばならなかったのである。)

しかし、〈oratio veri vel falsi significativa〉〈sola enuntiativa verum aliquid vel falsum significat〉(cf.964C-D) という類の表現は、アリストテレス-ボエティウスの対応部分には見られない。 アリストテレスでは〈in qua verum vel falsum est〉(313C)などと、またボエティウスでは〈in enuntiatione aut veritas inest aut falsitas〉(314A,cf.295D,296C etc.)などと言われている。
# ただし299D-300Bには真偽を表示するという言い方がある ------とはいえ、「真偽値を表示する」と言っているのではない。「真ないし偽を表示する」ではなく「ある真なるものないし偽なるものを表示する」といっている。
アルクィヌスがこの言い方を好んで採用したのは、ことばの側とものの側とを区別する仕方に付いての考えの故ではないか。

なおenuntiatio に対して oratio の他の下位区分を提示するところでは、それらは文法学者(grammatici)の領域であって、事物の真偽を論じる哲学者また弁証学者ははそれらにはかかわらず、ただenuntiatioに限定して考究するとする。だが、それにもかかわらず、それらの下位区分についても一応ボエティウスから抽出して提示してみせるのも、アルクィヌスの文法学への興味を示すといえよう。
# oratio の下位区分は、ボエティウス(Editio Prima ) による と、enuntiativaのほかに、296C(『命題論』冒頭部への注釈部分)では deprecativa, imperativa, interrogativa, vocativa であり、313D(oratioの下位区分についての注釈)では、optativa, vocativa, imperativa, deprecativa である。 アルクィヌスはここで前者を採用しており、例も前者から採用しているケースが多い。

文法学と弁証学の擦り合わせ

文法学に合わせて改変した部分が目だつ  以上、テキストの分析により、アルクィヌスが文法学と弁証学とで同じ術語を使っていて、しかもその間にずれがある場合に、文法学に合わせて弁証学の記述を工夫していることが分かる。

命題論を最後に持ってきた理由  ことばを vox として把握するのは文法学の出発点だが、弁証学では命題論だけである。そこでアルクィヌスは vox ぬきのはなしとして論理学を構成した上で、改めて vox の significatio ということば把握について論じようとしたのではないか。

# de argumentis ないし formulae syllogismorum 冒頭の、従来は命題論で扱った部分に該当する叙述はまさにこれを裏付ける。先にで触れたように、そこでアルクィヌスは enuntiatio を、差し当たり vox との関連付けは飛ばして、oratio のうち真ないし偽なることを表示するものとして導入している。

文法学に合わせての改編はなぜか  こうした改編等の理由を、アルクィヌスの、自由七科という教科を 哲学の三分類法に基づいて整備しようとする編集ないし著作意図に求めることができるのではないだろうか。つまり、文法学を履修した学生が次に弁証学に進んだときに、文法学の知識と整合的な教育を受けることができるように整備するという意図である。その際に、アルクィヌスは文法学を基準にして弁証学のほうを書き換えた。それはアルクイヌスにとって、文法学のほうが分かり易かったからではないだろうか。というのは、彼は命題論の扱う事柄がすでに文法学で扱ったことであることを明示的に認めた上で、弁証学のほうが高度のものであること、文法学の単純に対して弁証学の精妙を指摘しているが、これは裏返せば教育という観点からは、文法学のほうがよいということにもなるからである。-->

Q. Num me iterum per grammaticam ducere disponis?\\ A. Dispono, sed excelsiore gradu. Et si interrogas, videbis, quantum distat dialectica [Al. , dialecticae] subtilitas a grammatica simplicitate. 、

2. 哲学の構成と自由七科

こうした編集意図があったことは、哲学ないし自由七科全体を如何に構成して整備するかに関するアルクィヌスの理解とも関連している。 アルクィヌスは人文三科について、文法学---弁証学---修辞学 の順を考えているようだ(PL 101,952C)。これはカシオドルス--イシドルスにおける、文法学---修辞学---弁証学という順序の改変に他ならない。

より詳しく述べれば、次のようなことになろう。
カシオドルスもイシドルスも自由七科を論述していくなかで、弁証学の冒頭で哲学の定義や区分などに言及しており、それ以降が哲学と看做され、それ以前の文法学、修辞学は予備学であるかのような扱いをしている。

カシオドルスは 哲学の自然哲学、道徳哲学、論理哲学(naturalis; moralis; rationalis) という三分類を表としてギリシア語で挙げてはいる。ただしこれは哲学の定義を示す表として、理論的(inspactiva)と実践的(actualis)との二分類を立てた上で、前者の下位に naturalis を、後者の下位に rationalis とmoralis をおくという仕方でなされ、本文中では二分類に従った説明のみをしており、この分類表においては論理学は 位置を持たない(PL 70, 1167C-1169A)。また Logica は弁証学にほかならない(PL 70,1151C14;1167B6)。
こうした哲学の構成についての理解に基づいてカシオドルスは「慣習にしたがって」弁証学の部冒頭で哲学の定義と分類に言及するが、それは彼の修辞学の位置づけにあっている。

これに対しイシドルスは、Logica を弁証学と修辞学からなるとしている(PL 82,141C)------この点はアルクィヌスも踏襲。また哲学の三分類を採用しつつも、二分類も併記している。しかし Logica は philosophia rationalis である Logica が弁証学・修辞学からなるのであれば、修辞学のあとに弁証学を置き、しかもその冒頭で哲学の定義と分類をするのは中途半端であろう。

また哲学の構成をこのように捉えつつも、カシオドルス、イシドルスは 共に philosophia moralisを自由七科の教程に組み込む工夫をしてはいない。

さて、アルクイヌスもまた弁証学冒頭で、主としてイシドルスに準拠して、哲学について一般的言及をしているが、そこでは哲学の三分類が軸となった説明がされ、弁証学、修辞学を合わせて Logica すなわち philosophia rationalis (論理哲学)とされている。

また、自由七科のうち数学系四科は、自然哲学の下位区分とされている。 つまり、自由七科は、アルクィヌスも認めている哲学の三分類------自然哲学・道徳哲学・論理学------のうち二者に該当するのである。 ところがここで興味深いことにアルクィヌスの Rhetorica 関係著書に、 ``Dialogus de rhetorica et virtutibus''として、前半で修辞学を解説した後に、後半で道徳哲学(philosophiamoralis)の下位区分である四つの徳(virtutes)を論じたものがある。 これは、philosophia moralisという本来自由七科にはない部分を、人文系三科と数学系四科の間に入れ込もうとする意図のもとになされたこと ではないだろうか。その意図が先に指摘した修辞学の位置の変更に反映し ているともいえそうである。

vera philosophia  さらにここで付け加えて置きたい点がひとつある。 アルクィヌスの哲学教程の構想は、このように三分類に依っているといえるが、だからといって二分類の構想を全く捨てたわけではなく、形を変えて組み込んでいると思われるところがある。 つまり、イシドルスに従って、
自然を扱うのが創世記と伝道の書、
倫理を扱うのが箴言等、
そして論理(言葉)を扱うのが、自分達の「神学(イシドルスでは〈theorica〉とあるのを〈theologica〉と改変している)」のすることで、雅歌と福音書で扱われる、
といったことを述べた後で(これはイシドルスにはあってもカシオドルスにはない言及である)、〈theoretica〉と〈theologica〉を(故意にかもしれないが)混同して、こう言うのである:

神学はラテン語ではinspectiva(理論的)と言われ、・・・・、 というのも、真の哲学はこの二部分------すなわち理論的と実践的------ に区分される。 Theologica est, quae Latine inspectiva dicitur, qua supergressi visibilia de divinis et coelestibus aliquid mente solum contemplamur. Nam et in has quoque duas partes philosophia vera dividitur, id est, in inspectivam et actualem.

# イシドルスでは対応部分にギリシア語はでていない。カシオドルスではinspectiva にならべてギリシア語を出している。

ここで〈真の哲学--vera philosophia〉は、ただの〈philosophia〉とは区別されているのではないかと思われる。もしそうだとすると、アルクィヌスの更なる構想が浮かび上がってくるのである。つまり、アルクィヌスには『ディアレクティカ』等と並んで文法学の概説書もあるが、その『グラマティカ』(Grammatica )冒頭部に(ないしはこれにに先だって)、ひとつの対話が付されており、この対話部分はある写本では『真の哲学についての討論;(Disputatio de vera philosophia) と 題されている。そこでは自由7科を通して魂は成長し、さらに高い段階の知に至るという思想が展開されているのである。

つまり、自由七科の冒頭に置かれる文法学の、そのまた冒頭にこのような いわば哲学への序論が置かれるということは、まさにアルクィヌスが自由七科の概説に当たる教科書的諸著作を一連のものとして考えており、それら全体を真の哲学への教程として構想していたことを示唆する。哲学の三分類に従って倫理学も含めて自由七科の教程は構想された。しかしその全体を通して人は真の哲学を目指すということになろうか。

以上、文法学に合わせての命題論部分の改変という個別の作業は哲学の体系の構想のもとに自由七科を整備するという意図のもとでの文法学と弁証学の擦り合わせとして理解され得ることを述べた。そのような作業の過程においてではあるとしても、アルクィヌスは言語をどう理解するかに関して、それなりの哲学的思索をした形跡がある、とまとめておきたい。


〈哲学の三分類〉

philosophia
naturalis
arithmetica
geometria
musica
astronomia
moralis
prudentia
justitia
fortitudo
temperantia
rationalis
dialectica
rhetorica


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