これは一昔前の生命倫理の議論における〈SOL論対QOL論〉 という対立図式において、QOL論者がとっていた考え方に他ならない。
緩和医療の原則は、苦痛等を除去するという仕方で〈QOL を高める努力をする〉ことである。
では、それを達成する手段として「生を終わらせる」という方途が可能であるか。
QOLを高める意図で選択する処置が残りの生を短縮する結果となることはありえよう。
「鎮痛薬を適切な量で使ったことが死を早めることになったとしてもそれは適量投与によって意図的に命を絶つことと同じにはならない。適切な痛みの治療法が死を早めることになったとしたら、尊厳のある、容認できる生活状況を維持するのに必要な治療手段にさえ耐えられないほど患者の状態が悪化していたことを意味するだけである」(WHO 1990: 8.1)これは〈殺す〉ことにも〈死ぬに任せる〉ことにも該当しないだろう。 医療者は「QOLを高めよう」と意図したのであって、「死を予想した」かもしれないが、「死ぬに任せる」とも、いわんや「殺す」とも意図しなかったからである。
可能な延命の方途を選択しないという選択が正当化されるのは、「死ぬに任せる」という意図でではなく、徒に苦しいないし無意味な生を結果することはQOLの向上という意図に反するという理由でそれが選択される場合である。 そうであれば、少なくとも緩和医療の範囲では、安楽死−積極的にせよ、消極的にせよ−が選択される場面はあり得ないことになる。
死以外には緩和の方途がないという状況はあり得るか
では、「QOL を高める(苦しみを軽減する)手だてが(死なせる以外には)なにもない」ときにはどうするか?
眠らせること−セデーション(一時的な、また適当な程度とインターヴァルを組み合わせた)−が、肉体的苦しみから一時的にであれ避難する次善の方途としてある。
ただし、それは、患者を人間らしい生から遠ざけるものには違いない。
他に仕方のない時に、また患者がしばらくでも眠るという安らぎを求めた時にはじめて選択できる。
これと「死なせる」こととを比べたとき、「セデーションのほうが優先的な選択肢」なのではないか。
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