ここでは倫理的問題、すなわちともかく何らか死期が迫っている状況、つまり自分の身体が徐々に衰えていき、先頃まではできたことができなくなってしまう、ということを自覚して、「このようになってしまったらもう、私は生きていても仕方ない」と考えた場合に、それを認めるかということに話を限って考える。
もちろん、そのような自己の状況認識をその当人が一時的な混乱によって思っただけではなく、十分考えた上でなおそう考えていることだ、ということを確認するコミュニケーションのプロセスが必要だろう。その上で、なお次の二つの可能性があるように思われる。
スピリチュアル・ペインと看做す 生きる意味を見出だせなくなっている状況をスピリチュアル・ペインと見る立場からは、「私はもう生きていても仕方ない」という自己認識はケアされるべき痛みの状態とされるだろう。したがって、この立場ではこの理由による安楽死は認め得ないだろう。
自己認識として認める 生きていても意味がないという自己の状況認識を、その人が十分考えた末の結論である限りはそれとして尊重する立場に立つとすると、どうなるだろうか。この限りでは安楽死を認めることになると思われる。
A 「もうこうなったら生きていても意味がない」というある人の自己認識を認め、安楽死に参与することは、その「こうなったら死んだ方がましだ」という価値評価を認めること、つまり、そうなっても生に意味を見出し、生きようと積極的に努めている人を否定することにもならないだろうか。
--> 他者危害の原則に抵触するのではないか。
B 身体的苦痛こそないものの、全く動けず、また意識はあるが他者と全く交流できないというようなぎりぎりの状況を想定したならばどうであろうか。
つまり、公共的に「このような状況では誰が見ても、生きることは苦痛以外のなにものでもない」と認められる場合=精神的理由といっても、それは身体的状況の厳しさに全く由来している。「全く動けない」、「他者とまったく意思の疎通ができない」という状況は身体がそのような状況にしているのである。そのような状況では、意識があっても (自己内の思考で満足できるという稀な場合を除いては)、あるいは意識があるだけに、精神的苦痛は想像を絶するものである。この場合、短期的にはセデーションが有効かもしれないが、長期的にはセデーションは無意味な生をただ続けるだけという結果をもたらすものでしかないと言われよう。
人間としての尊厳を保つために積極的な安楽死を選択するということが真に検討課題になるのは、こうした局面においてである。ここでは、死なせる以外にいかなる緩和の措置も見出せない。また、ここでもなお安楽死を認めないという結論をもたらすような論拠------公共的に妥当し得る論拠------を私は知らない。 したがって、このような場合には死なせるということを緩和の措置として行う可能性がある、と私は言わざるを得ない。
[2007年にアップするにあたって付加することがあります]:上記のような状況について、私はALSの患者・家族の方たちと考えてきました。その結果、上のような言い方に対してさらに積極的可能性を見出す論を付加しないと公平ではないと思ってます。さしあたって、ある報告書をご覧ください。