岩崎 鋼 さんの書評に対する応答-1-



岩崎 鋼 さんから拙著『医療現場に臨む哲学』について丁寧な書評をしていただきました。この書評はニフティのFMEDSOCというフォーラムにもアップされたものの WWW Version ですので、私もニフティにアップしたレスの WWW Version を以下にアップして おきます。

まず、書評の第一部について、岩崎さんがご指摘くださったいくつかの点について応えましょう。



《2. QOL概念》の部分について

ここでは

私が診てきた患者さんたちというのは、数年、或いは十数年という長期に亘り、寝た きりであったり、日常生活動作がほぼ全介助であったりする、そして他人との”正常 な”コミュニケーションもほとんど取れない状態にある、人々なのだ。
という岩崎さんの実践の場で、私が提案したQOL概念が有効かどうかを吟味してくださ いました。

【論点 1】

「通常こうした患者さんについて我々が考えるQOLとは、例えば次のようなことである。」
として、まずここで岩崎さんが向き合っておられる患者さんについて何を目標として 医療行為をするかを説明され、
「こうした目標というのは、或いは一般にはQOLというよりも、ADL(日常生活動作) と言われるものであるだろう。
否むしろ、例えば自力経口摂取などと言うのは、人間としてのADLというより は、ほとんど動物レベルの、或いはそう言って悪ければ一個の生物としての、基本的 能力に関することがらと言うべきだろう。しかし残念ながらこれらの患者さんにとっ ては、生きると言うことは即ちそう言うことなのである。」

ここから
「しかしこのことは、私が本書を一読した限りでは、著者が意図している「人生のチャ ンス」、「可能性」という事柄とはおそらくかなり異なったものなのではないだろうか。」
と疑問を提示されました。

これに対して私は、こう申し上げます。
岩崎さんが提示された場面は、確かに私があの本を書くにあたって、念頭においてい た事例には含まれていませんでした。ですから、この場面でも「人生のチャンス、選 択の幅が広いほうがQOLが高い」というようにQOLを考える、ということが有効に適用 かどうかを吟味することは、まことに有意義だと思いました。吟味すべき場面を提示 してくださったことを感謝します。

そして、岩崎さんの問題提起の仕方がそれ自体答えともなっている、と私には読めた のです。

まず、ADL目標といえる事例を挙げられましたが、私の理解では、ADLはQOLを構成す る要素の一つとしての身体の活動に関わる自由度ですから、「人生のチャンス、選択 の幅が広い」という理解に含まれております。

また、岩崎さんがあるケースのタイプについて

「この患者に胃瘻を造って栄養を腹部に開けたチューブから入れるようにした方がい いのか、或いはもう少し自力経口摂取をめざして努力を重ねるべきなのか」
と考えられるときに、伴って生じるマイナスの状況がなければ、自力経口摂取がいい と、それは「生物としての基本的能力に関することがらだ」と考えておられるはずで す。その限りでは、他からの強制的な栄養補給よりも自力での、したがって「自ら選ん だ摂取のほうがいい」と評価されているわけで、これは「自由度」「選択の幅」の問 題に他ならないと思えるのです。

確かに私がQOL概念を決める時に、核に据えたモデルは、人間の如何にも人間らしい 生き方の選択とか、それぞれの価値観に基づく人生計画の選択といったことでした。 そこから始めて、「自由度」という尺度が、より広い範囲に妥当するかと考えました ので、お読みになった時に、その中心的モデルに即していう「人生のチャンス」と いったことと、上記のような事例とは大分違うと思われたのは、当然ですが、私 としては、適用範囲に収まっていると考えているのです。

【論点 2】

「寝たきりと言っても色々である。問題なのは意識レベルだ。いまこうした 患者において問題とすべきQOL、あるいはADL目標をいくつか挙げてみたが、果たして これらはその患者本人にとっても望ましい目標であろうか。多くの場合、そうではな いだろう。その患者は、もはやそうしたことを自分の”目標”と捉える能力がないか らである。」
「目標と捉える能力がない」ということ自体が選択の自由度を決定的に落としている ことになりますよね。では、「目標と捉える能力」が現になく、かつ今後も回復する 見込みがない時にもなお、ADLをいくらかでも高めようと臨床医が努力なさる場合に、 それはどういう理由によるのですか。「ADLが高い(「よい」?)ほうがいい」と評価す る理由は何なのですか。私は逆にうかがいたく思います。

「もっと酷い場合はどうだろう。いわゆる植物状態である。長期に亘り、そしてこれ からも確実に、意識なく、反応なく、四肢は全く拘縮し、栄養は経管チューブで、 排泄は完全に人任せである状態、・・・・こんな人もたくさん、いる。 こうした人々の「人生のチャンス」、「可能性」って、いったいなんだろう。
・・・
こうした諸々の事共は、清水さんの言うQOLとどう関係するのか、或いはしないのか。」
もちろん関係します。上に挙げられた例は、「QOLが非常に低い」例です。しかし、 こういう答えが岩崎さんの望むものではないでしょう。むしろ、ここでは、 > そもそも、こうした患者さんを治療するという事に、どういう意義があるのだろう。 とおっしゃるように、「人生の可能性が今後にまったく見込まれない人」に対して医 療にできることは何か、ということこそ岩崎さんが真に問題にしていることのように 思われます。「ここでは人生のチャンスを広げる」という目標はナンセンスになって くるではないか、という問題です。私はこれに対しては、「人生のチャンスを広げる 目算がないのに、ただ生かし続けようとするのは徒な延命治療であり、『QOLの総和 を可能な限り最大限に』という医療の目的に反する」ということになると思いますが、 それは多分以下のどこかでまとめて考えるべき問題でしょう。

《3. 医療の目的》の部分について

【論点 3】

「通常、こうした患者さんを前に我々医療従事者が行うことは、けっして「人生の チャンス」、「可能性」を広げること、がまず第一になるのではない。その目標は 「苦痛の軽減」である。清水さんは苦痛とは、その存在によってその人を縛り、他の 様々のチャンスを阻害するから悪いのだと言う。確かに、普通の人に取ってみれば一 面そう言うことも言えるだろう。しかし今私が目の当たりにしている人々にとって、 それはあまり有効な考えとは思われない。そもそも、そうした患者さん達本人のほと んどが、そう言うことを考えていないと思われる以上、それを基本原理としてみるわ けには行かない。苦痛は、その存在自体が苦痛なのである。つまり嫌なのである。だ からそれを除く。これが、こうした高齢者医療に於ける、根本的な治療の目標であ る。
しかし元来、医療のそもそもの目標とは、苦痛の除去なのではないだろうか。
・・・
「人生のチャンス」、「可能性」を広げるのが大切だという考えを、私は少しも 否定するわけではない。「苦痛の除去」という医療のもっとも原始的且つ本来的 な目標を「その苦痛によって生じるチャンス、可能性の低下を防ぐため」という 言い方で二次的なものにしてしまうのには、賛成できない。」
この点については「おっしゃることはよく分かります。そして、私もそのご趣旨と食 い違うことを書いたつもりはありません」とお答えします。
つまり、私はこう書きました:

「痛みをはじめとする様々な苦しみもまた、その人が生きるということを不自由にす る要素である。ひとつにはその人が欲しない状況を強制的にもたらし、その人を束縛 していることによって。また、ひとつには痛み等は、それらがなければできたであろ う、様々な生の活動から人を引き離すことによって」(40頁)

つまり、ここで「苦痛」がなぜQOLに関わるのかについて、第一の理由として挙げた ことは、「欲しない状況を強制的にもたらし、人を束縛する」ということですが、こ れこそ岩崎さんのいう「苦痛は、その存在自体が苦痛なのである---つまり嫌なので ある」に該当します。そして第二の理由として、「なければできたであろう、様々な 活動から人を引き離す」としたことが、岩崎さんのいう「二次的なもの」つまり「そ の苦痛によって生じるチャンス、可能性の低下」に該当します。そして第一の理由の もってまわったような言い方は、「嫌な状態に強制的におかれている」という苦痛の あり方をも「自由度」という視点の下で説明するためのものです。

そして、「苦痛の除去」ということを「苦痛からの解放」と言うことに違和感がない と、同意していただけるなら、苦痛自体を束縛状態として、自由度という視点で考え ようとする説明にも同意していただけるのではないでしょうか。

「死ぬまでの苦痛、肺炎なら呼吸困難感、褥創なら耐えがたい痛み苦しみ、そうした ことをなるべく少なくするために、私たちはその患者さんを治療する。それが「人生 のチャンス」、「可能性」を増そうが、増さなかろうが、そうしたことはもはや、ほ とんど関係がない。」
このあたりは、緩和医療のある局面とも事情は共通しますね。この局面で「苦痛をな るべく少なくする」ことを目指すことに私もまったく異論はありません。ただし、そ れは上に述べたような仕方で自由度と関係するのだということを、再考してくださる ようにお願いします。

確かにもっとターミナルステイジになって、昏睡状態になったときについても、私は 「身体のバランスを保ち、各臓器に負担をかけないようなコントロールをし、それを 越えた延命治療はしない」などといったことを考えています(これはちゃんとは書か なかったかな。でも例えば197-9頁あたりにぼんやり書いてある)。それについてま、 で QOLの自由度理解の延長上で説明しようとするのは無理筋だと、もし言われると、 説明に苦労しそうですが、苦痛の除去までは大いに私が提案したQOL概念に収まって いると思っているのです。


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