米川さんと二宮さん
2006. 3.27登載
2000年3月14日午後、東京国際フォーラムにて「米川伸一先生をしのぶ会」がありました。
湯沢威さんの呼びかけで2月に案内があり、山田欣吾・大河内暁男・中川光・吉岡昭彦・二宮宏之といった方々のお話が予告されていましたが、どういう性格の会合になるのかよく分からないまま参りました。結果的に故人にゆかりの数十人の研究者たちの和やかな会合で、3時間のあいだに5人の皆さんのじつに興味深い話がつづき、最後の容子夫人の挨拶までふくめて、とてもよい会合だったと思います。日本経済評論社から届けられたばかりの論文集『紡績企業の破産と負債』をいただいてしまいました。出席者の記憶だけに留めておくのはもったいない話がたくさん出ました。なかでも、米川少年と二宮少年の交友につき、判然としていなかったことがわかったので、ぼく自身のためにも覚書を記しておこうと思います。
米川伸一さん(1931年12月生まれ)の父上は、東京商科大学を出て白木屋に勤めておられ、井の頭線沿線、松原4丁目に洋館を構えておられたとのことです。ご本人は結核で1年遅れ、二宮宏之さん(1932年5月生まれ)とは小学4・5年生から同級になったとのこと。小学校の騎馬戦で肩幅の広い米川少年が中心の馬として構え、細い二宮少年がその上にのって戦ったというよく知られた逸話は、その頃のことです。それはよいのですが、驚くべきは、戦争中の二宮少年にとって、線路の向こうの米川家にゆくと洋風の応接間に西洋的な置物やなにかがあり、それが最初の西洋との遭遇だった!! というのです。にわかに信じられないぼくはあとで二宮さんにもう一度確認しましたが、この二人にとって西洋的なものは二宮 → 米川でなく、米川 → 二宮という方向でもたらされたのです。45年の前半に二宮さんは信州へ、米川さんは宇治山田へ疎開し、中学も別のところへ行きました。
1948年に米川さんは成蹊高校に入学、再び結核で1年休学しますが、復学後、クラス担任は別枝達夫、「一般社会」担当は安藤英治でした。それまで鬱屈していた米川さんの読書欲・知的好奇心は、爆発します。『紡績企業の破産と負債』のあとがきにもありますが、「毎日図書館で総合雑誌と社会科学の書物ばかり読んでいた」。このとき二宮さんの通っていた府立六中はそのまま新宿高校に制度替えとなり、学校は別々だったのですが、二人は次々に読書したことを語り、また次の本を読み‥‥と、二宮さんの言によれば esprit réveillé の状態の米川さんと再び親しくつきあい、河合栄次郎やH・ラスキを読み、別枝先生に会い、切手のコレクションに興じたとのことです。そのころ米川家は荻窪にあり、安藤英治さんが寄寓していたので、米川さんは高校時代にたっぷりヴェーバーを勉強したのでした。「大塚久雄先生の名はついぞ聞かなかった」と米川さんは記しています。
米川さんは父上の師・矢口孝次郎さんを関西大学に尋ねていって話を聴き、矢口先生の母校、すなわち東京商科大学(今の一橋大学)への進学を決意したとのことです。米川さんにおける「戦後派」という意識、したがって1930年代からの問題と枠組をひきずっていた講座派マルクス主義、あるいは共産党にたいする距離感は、別枝達夫、河合栄次郎、英国などなどから培われていたのでしょうか。二宮さんの方は、高校・大学と進むにしたがって、むしろフランス、マルクス主義、そして高橋幸八郎に惹き付けられて行くわけですから、ここでもお二人の道は分岐します。
東京大学、『西洋経済史講座』、60年代のフランス留学をへて、二宮さんが再びこんどは(土地制度史学会ではなく)社会経済史学会という共通の活躍の舞台をえて米川さんと学問的再会をはたすこと、また米川さんは生まれたご長男に宏之さんにちなんだ命名をなさったことについて、その詳しい経緯は、ついに聞きそびれたままです。
2006年3月 二宮宏之の訃報を聞いた10日後に 近藤 和彦