『歴史と地理』521号(1999)

長谷川貴彦氏の書評論文について


  こういう形できちんと論評していただくのは、たいへん嬉しいことです。

  第1章では、福沢 → 講座派 → 大塚(戦後史学)の系譜を指摘しただけでなく、
その問題意識をドイツの Sonderweg やグラムシや etc. にみられる相対的後進国の
進歩的知識人がとなえた特殊性=欠如論のなかに相対化してみたつもりです(『英国を
みる』にはなかった論点)。 p.49 の表もその関連でサジェストしたのだが・・・。しかし、
イタリアやドイツについてなにか例示しているわけではないから、暗示に留まっています。

  第2章は自分でも不満で、「革命の時代」をはさんで啓蒙から功利主義まで連続する
契機(ベンサム!)と、にもかかわらず厳然と存在する19世紀の新しさ、とをうまく
描いているわけではありません。ジェントルマン資本主義論への反発は、
ふるくは個人的な Rubinstein という人への否定的直観から発するのですが、
財政史から国家論を再構築してゆこうとする潮流をぼくが個人的に評価していることは、 O'Brien や Daunton との交流からも想像していただけるでしょう。
ただぼくは昔から、読んだことをすぐに横から縦に文章にする
タイプではなかった。すこし自分の言葉にするための熟成期間が必要なのです。

  岡田与好さんと毛利健三さんは、ぼくの頭の中では全然別です。岡田さんのお仕事は
『初期労働立法の歴史的展開』における18世紀のマンスフィールド、フォスタ両判事の
営業の自由論にいたる議論を、ぼくは高く評価している、というより文字どおりその後塵を
拝しています。しかし、19世紀論になると、どうか。毛利さんのお仕事は、むしろ
産業革命以後のイギリスの理解に必須の研究として受けとめています。

  第2章、3章の文脈で、サッチャないしブレアの評価はむずかしい。Methodism に
ついての理解が大兄と違うことは、7月の近代史研究会でも言いました。たしかに、
サッチャが保守党リベラリズム(wets)と本質的に違うものを保守党に持ちこんだこと、
ブレアが労働党に社会主義とは違うものを(これは前から存在はしたが)党中央に持ちこんだ
ことも事実で、79年以来、イギリス政治は根本的な変革=転回を経験しつつあると見たほうが
よいのかも知れない。あるいは、ぼくのいうイギリス史におけるヘゲモニーの二つの潮流は、
むしろ2大政党の枠を越えて貫いている、と見るべきなのかもしれません。

   大兄のいう「ヴォランタリズム」なるものは、(そういう言葉は使わずに)啓蒙=18世紀を
理解するためのキーワードとしての「公共圏」のなかで論じています。これを19世紀、
20世紀にまで連続して論じるべきことは、言うまでもない。

 追伸
  ・・・前にも印象を書いたと思いますが、国家論が一つの課題であることは
ぼくの認識でもあります。ただそれが必ず財政軍事国家論に収斂せねばならないとは
決して思いません。君主制やリベラリズム/デモクラシ論議も、国家論/政治学の一環です。

  また『文明の表象 英国』が世界システム論を前提に、対抗群国家における近代主義 or
知識人を論じようとした点が評価されてないのは残念。ぼくは「戦後史学のスピリットよ、
いま一度」というのではないので、藤瀬評価は高い。

  1999年3月14日 近藤 和彦


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