2004. 7. 16 登載

 

オクスフォードの新DNB
丸善Announcement(C-1317) 2004年7月号pp.2-3

             近藤 和彦

 

国内のどの大学図書館にも、オクスフォード英語辞典(OED)と国民伝記事典(DNB)は揃っているだろう。ヴィクトリア時代に基礎のすえられたイギリスの国民的な文化事業である。前者はもともと NEDという名だったが、英語の歴史的な用法・語義をすべて網羅しようという壮大な企画で、夏目漱石も感動してその補巻を含めて予約購入したことは有名な話である。DNBのほうは、イギリス史上に足跡をのこした3万人弱の伝記を制作し、ABC順に編集した22巻もので、1901年に完成した。総編集長レズリ・スティーヴンは浩瀚な『18世紀イギリス思想史』の著者であり、ヴァージニア・ウルフの父であった。

この二つの出版は、19世紀末に成熟したイギリスの人文的学問とその市場あってこそ実をむすんだ事業である。20世紀を通じて補正がくりかえされ、研究者、物書き、ジャーナリストにとって必見の参考書となってきた。だれしも認める権威だから、その1項目の誤りを批判し修正するだけで論文ができるほどであった。DNBの場合は、20世紀後半の問題意識からすると、項目が政治家、軍人、聖職者、文人に偏っていて、また女性が少なすぎる、といった批判がつづいていた。1993年には、DNB: Missing Persons という補巻が刊行されたほどである。

 

こうした権威あるDNBを、新世紀にむけて全面的に新しく編集しなおそうという企画が1980年代の終わりに始動し、この事業はオクスフォード大学とオクスフォード大学出版会(OUP)、そして英国学士院(British Academy)が共同して推進することになった。英国学士院は従来から活発に学問・教育の助成にとりくんでいるが、この場合もイニシアティヴをとって各種の学会と専門家の意見を徴した。またオクスフォード大学はDNB専任の教授ポストを設置してコリン・マシューを迎え、総編集長とした。マシューはエネルギッシュで人望もあつい政治史家で、部門顧問とともに項目と執筆者を定め、編集陣が動きはじめた。まだ40歳にならぬマーティン・ドーントンも、このころから近代史、経済史の部門顧問としてテキパキと指示を出していたようだ。

1989年だったろうか、わたしはJohn Byrom(バイロン卿ではない)という18世紀の文人ジャコバイトについて執筆者を推薦せよ、というテレファクスをまだ萌芽的な新DNB編集部から受けとった。別に執筆要項もいただいた。つまり執筆の最初の打診であった。しかし、この「世紀の大事業」の意義を承知していたわたしは謙虚に、バイロムの速記日誌をオリジナルでなく19世紀の刊本によって読んでいるわたしにはできない、適格者はマンチェスタ大学のF先生に尋ねるべし、とテレファクスで打ちかえした。

 

ニュースレターも刊行されて、編集方針とそれにともなう苦労がよくわかるようになった。1994〜5年にロンドンに留学したときには、歴史学研究所のセミナーでしばしばThe New DNBの担当項目についての研究報告を聴いた。新版は60巻の本だけでなくディジタル・データとしても公にする、それにともない肖像も添え、インタネットの関連リンクも張るということで、どんなものになるのだろう、と期待は高まった。帰国後、やがて耳に入ってきたのは、総編集長マシューの急死を伝えるニュースであった。まだ58歳であった。後任は、19・20世紀の政治史を専門とするブライアン・ハリスンに託された。編集方針はマシューによって定められたものを踏襲し、各執筆者は「正確で、情報ゆたかに、明晰にして、読んでおもしろい」伝記を書くことを求められている。

 

2003〜4年にオクスフォードに滞在したおりには、ブライアンの主催する DNBセミナーにも出席してみた。これは大学関係者にとどまらず、ひろく関心をもつ公衆向けのセミナーで、執筆・編集上の困難や課題をめぐる報告と質疑応答があり、伝記ないし歴史学の方法論にもかかわる知的な会合である。他のセミナーと同じく、会の終わりにはワインがふるまわれた。

冬のある日、ブライアンはわたしを仕事場に呼んでくださった。指定されたオクスフォードの目抜き通りセント・ジャイルズの37番地A は18世紀の建物である。総編集長のオフィスは2階にあって、書棚は一杯だが、それにもましてコンピュータ端末が部屋の中心を占める。この建物は奥が深く、中庭に新築のオフィスがあり、間をつなぐ回廊部分に原稿・ゲラのファイルをおさめる書架がつづく。あちら(中庭の新築部分)がOUP、こちら(旧建物)が大学、とはっきり分かれて、緑の芝生越しに大きなガラス窓で透視できるが、しかし昼休みには鍵がかかる、といったぐあいに責任分担が明らかなようだ。わたしが自由に歩くのを許されたのは、大学部分である。書架のファイルを見せてもらったが、原稿から再々校まで(別にディジタル・データも保存されているが)すべてのヴァージョンと、部門編集者、校正者、総編集者のコメントが紙媒体に残されて、何かの場合にすぐアナログで照会できるようになっている。また書架には Gentleman's MagazineNotes & Queries といった古典的な参考図書が全号揃っているのを見て、なんだか嬉しくなった。

町中を数分歩いたところにある OUPの本部でゆっくり食事をいただいた。

 

 これまでわたしたちは The New DNB と呼びならわしてきたが、商品名は The Oxford DNB と決まった。この出版事業に冠せられたオクスフォードとは、大学であり、出版会であり、また両者の協力を成り立たせている都市のことでもある。まさにイギリス的な、古くて新しい知性を象徴する国民的プロジェクトといえるだろう。

こんどう かずひこ  → 思想の言葉  → OUP


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