2006年の新刊より

ジョン・ブルーア(著)

坂下史・大橋里見(訳)

近藤和彦(編)スキャンダルと公共圏

新企画 山川レクチャーズ 第一巻です

(山川出版社、2006年、189ページ、1900円)


以下、2006年5〜6月の来信コメントから抜粋引用させていただきます。有難うございます。    近藤和彦


MaTさんより

ジョン・ブルーア『スキャンダルと公共圏』‥‥英国近世・近代史研究者ばかりか、他の時代・分野の史家たち、さらには史学以外の「アカデミック公共圏」を構成する広汎な「専門外読者」にとっても興味深く、有益であろう名著の登場を、心から祝福し、敬意を表したいと思います。 <後略>

 

R 近藤和彦より

 先生がそう言ってくださると、励みになります。じつのところ、ぼくとしてはこの出版の機会に も図版の選択およびキャプションも自由にやらせてもらったので、得をしたような気分なのです。山川レクチャーズというおもしろい企画の始まりでもありますし。   

 


MiHさんより

 『スキャンダルと公共圏』‥‥18世紀イギリスを歴史家が見ればこうなると、つきつけられたような感じで、気がつけば解説は対話の必要でむすばれていました。

 ひとつ気になったのは、p.115のジェラルドです。アバディーン人だからを強調ということでしょうか。


              ブログでの言及もありました。↓

       http://mt-kb.com/blog/archives/cat_books.html

       http://k2.moe-nifty.com/shojin/cat881090/index.html

       http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/comment?date=20060506#c


TaNさんより

『スキャンダルと公共圏』‥‥刺激的な内容といい、平明な訳文といい、懇切な解説といい、賞賛に値するこのシリーズ第一号にふさわしい本だと思いました。「これ・あれ・他者」を読んだところですが、かなり興奮しています。「イギリス史なんてつまらないもの」とはもう言わせない?

 

R 近藤和彦より

ウフン、TaNさんありがとう。掲示板の発言1309にも言及してくださいました。この仕事、じつはダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店、1994)を想い出しながら、しました。ダーントンの翻訳については、ほんの一寸二宮さんの質問にお答えしましたが、私信で「‥‥この本、シャルチエより具体的なので、楽しく仕事しました。歴史はやっぱりこういう方が面白いです」という一文をいただいています。

二宮さんと『マルク・ブロックを読む』については、『史学雑誌』5号〈回顧と展望〉と『思想』6月号〈二宮宏之追悼〉に書くことができました。二宮複合で育ったわれわれですが、二宮さんのものを読みなおしつつ、自分の文章を読みかえしつつ、遺贈され委譲されたものを、抱えこむのでなく発展させる責任を感じています。


KoTさんより

‥‥皮肉でもなんでもなく、こういう本の作り方もあるんだ、というのが最初の感想です。私のように18世紀に不案内な読者にとっては、分厚い(そしてむやみに高い)翻訳を丸ごと与えられるより、こうした編集ものの方が間違いなく重宝です。


GsHさんより

‥‥とても勉強になりました。これまでボンヤリとしか理解していなかったことが、とてもクリアになった様な気がしています。

 

R 近藤和彦より

ケインブリッジの歴史学について日本ではあまりに知られてない、という気持がつよくありましたので(『岩波講座 世界歴史』第16「近世共和主義」もちょっと不足だなと思っていたので)、この機会にしっかり書いちゃいました。ブリュア(正しくはブルーア)の才能と多面性、ついでに川北さん、草光さんの仕事の意味、ジョアナやリンダやぼくの位置も相対化できるかなと欲張ってみたのです。


HaMさんより

『スキャンダルと公共圏』‥‥開いてみたら面白くて、解題と「これ、あれ、他者」まで一気に読みました。時間がなかったので、あとは全部読んでからメールをと考えていましたところ、なんやかんやあって、こんなに遅くなってしまいました。でもほんとうにとてもおもしろかったです。フランスの啓蒙期から革命にいたる公共空間の変化のくだりに、ブルーアさんの議論はもろに重なってくるのです。シャルチエやデーヴィスにも出会っているとなれば、なるほどと頷けますが、英仏の同時代性を確信することができ、たいへん興味深く読んだ次第です。中でも18世紀に書簡というものが持っていた意味や公と私の境界線が動くという議論は、わたしも今後深めていきたいと思っているポイントです。ちなみに‥‥フランス革命期の女性、処刑されたジロンド派のロラン夫人‥‥の思想をもっと大きな公共空間、英仏の比較、文芸共同体のダイナミックな動きの中で考えていくことができれば、視野も大きく広がっていくことでしょう。

そういえば、田邉玲子さんがドイツでのパミラのことを『制度としての女』にお書きになっていたのですが、玲子さんは文学の方法を駆使していて、当時、いまいちついていけなかったのを覚えています。ですが、いまになってみると、彼女が何をやろうとしていたのか非常によくわかります。シャルチエらによる歴史学の側からの力強い巻き返しによって、いまや文学の人たちが開拓してきた手法を歴史学の側が吸収し、テキスト中心主義を超えていく道を提示しながら、見事にわがものとしつつあるという印象です。それにしてもドイツも含めて18世紀西欧世界は同一平面でつながっていて、国境線を越えた比較ないしは交錯を考えることができるということであり、これ自体たいへん重要なことですね。

本のできもすばらしく、いろいろな意味で感動しました。ちなみに、あのサイズの本は持ち運びやすいし、そのくせ字が大きいのと、「です、ます」調なので、気負わずすんなり読め、それにもかかわらず、内容がたいへん先端的で高度なので、実にすばらしいことです。羽田先生の東インド会社も読みはじめています。このシリーズ、勉強になりますね。読むのがたのしいです。


SaKさんより

 ‥‥主題には、事実興味を覚えました。特に第一論文を面白く思いました。第二論文にしても、美学者はこういう角度から問題を見ることは、普通ありませんので、刺戟を受けました。現在、「商品としての藝術」「大衆性」「日常性」などを考えたいと思っていますので、格好の参照文献です。

 以下、少し辛口のコメントを書かせてください。刺戟を受けたのですが、実は隔靴掻痒の苛立ちを感じないわけではありません。著者のテーゼをはっきりと捕らえられないので、読み直していますが、それでも理解できない文がかなりあります。訳文のせいであるところが大ですが、著者の書き方によるところもあるように思います。

 近藤さんの解説のなかで、「物語力」という用語に関心を覚えました。歴史記述に「物語力」が必要というお考えかと思います。このお考えには共感します。しかし、例えば第三論文のような議論がそれに当たるのでしょうか。わたくしはかなり疑問を覚えます。すなわち、テーゼを立証する論理に比して、資料の紹介があまりに過剰ではないか、という印象です。これは領域の違いの問題なのでしょうか、わたくしにはそうは思われません。

 

R 近藤和彦より

 SaK先生、ありがとうございます。翻訳というのは、要するに原文を理解してそれを日本語で表現する能力にかかっていますから、英語が読める+議論の大筋も細部も理解している+それを明快な日本語として表わせる、という、言わば、とんでもないくらいの能力が試される行為ですね。

 ブルーアの物語力 (pp.20, 27) とは、この編訳書よりも彼の主著Party Ideology and Popular Politics at the Accession of George III (巻末主要著作の@) The Sinews of Power (同じくD) などを思い浮かべつつ述べました。サイエンスとしての実証史学がこのかん失った力かもしれません。最近のブルーアは、逆にちょっとサーヴィス精神過剰かと思うこともあります。面白可笑しいだけの叙述って、じつは、おもしろくないのですね。演劇人を育てるのが観客であると同様、著者を育てるのは読者公衆です。アメリカの、そして日本の読者公衆の質が問われている、と言うこともできます。


近藤和彦  『近現代ヨーロッパ史』 〈近世・近代のヨーロッパにおける政治社会〉