日本西洋史学会(2001年5月13日)小シンポジウム ヨーロッパの政治社会:長い18世紀の連合王国
をめぐる Q&A談話室より転載
2001. 3.31登載
Q. 194. 「問題提起」へのレス Jizo 2001/03/21 (水) 01:00サイトの主様、「問題提起」拝見しました。
今回のシンポジウムには、おおよそ、イングランドだけではなく
連合王国という視点で、名誉革命体制の成立から1830年代まで
の長い18世紀における政治社会の継続性と変化をみる、
という目的があるものと理解しました。
そのうえで、以下にいくつか思いついたことと疑問を提示させて下さい。まず、この時期には、長期的な中央集権の過程があったと前提して
いいかと思います。その過程で、
@政治的・文化的には、継続性=王室とジェントルマン
(が主導する議会)が王国の中枢であり、象徴であること。
変化=権力を主導するエージェンシーへの'middling sort'の参加増。
中央集権と連合王国(意識)の形成とともに、地方(だけでなく)、
国(政府)、両方の政治へ積極的にかかわっていく層が厚くなったこと。この過程における様々な摩擦が、ポリティカル・エコノミーとモラル・
エコノミーの対立、パターナリズムと自由主義の対立などに反映
されたといえるでしょうか。
ただ、ここの議論でより重要なのは、ご指摘のとおり、権力の編成
における変化であり、誰の政治意思が王国に反映されていたのか?
ということだと思います。A経済的には、中央集権と結合の再編、都市化の進展
(都市の中間層の経済・政治的影響力が徐々に強化)。
海外貿易の発展(ジェントルマン資本主義?ロンドン(シティ)へ
の経済的・政治的機能の集中)。
世界システム論的な経済構造「中核」「反周辺」「周辺」の成立?政治的変化とは切り離せない問題も含んでいますが、ここに
おいては、 政治主体の認識の変化=(上層・中層の人々の)
植民地への進出とともに連合王国の存在を相対化してみる視点
が育成されたこと。が重要だと思います。疑問点として、
@「連合王国」という意識が王国に関連をもつ人々のどの層にまで
普及していったのか。意識の変化が人々に与えた影響。
当時のナショナリズムのあり方(当然、現在とは異なるでしょう)にも
興味がわきます。
Aどういった人々が、なぜ、連合王国を形成し、維持しようとする
意志をもったのか(同時代人にとって、連合王国のもった意義とは?)。
B政治社会とは具体的に何をさすのか(^^)。とくにBについては「問題提起」をみるだけではいまひとつイメージ
が浮かびません(アソシエイションでしょうか?)。
未整理で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
A. 195. Re: 小シンポジウム サイトの主 2001/03/22 (木) 12:44
> 今回のシンポジウムには、おおよそ、
> イングランドだけではなく連合王国という視点で、名誉革命体制
> の成立から1830年代までの長い18世紀における政治社会の
> 継続性と変化をみる。という目的があるものと理解しました。関心を積極的に表明してくださって、ありがとうございます。
B政治社会は、アソシエーションのように限定せず、ホッブズの
提起した、聖俗の国家・共同体もふくみ、秩序一般のありかたを
論じたいから用いる語です。したがって、継続性と変化といっても、
そのダイナミクスを分析したい。Aじつはジェントルマン、ミドリングソート, etc. のはやり言葉に
辟易しています。政治を問題にするさいには、英語でいう
political nation の意識が問題で、これが平民(commons)の
どの層まで包含してゆくか。18世紀は明らかにその拡大が認め
られます。有権者以外の民衆にも直接行動(riots)という表現
手段があったことはご存じのとおり。@政治文化ないし意志の分析は、もちろん正統的な思想史
(history of ideas)でもなされてきたし、ぼくも大いに学びたい。
しかし、ぼくの得意なのは、むしろ係争・醜聞事件の分析です。
Srinivas の名言は『民のモラル』p.11-12 でも引用しました。
「争いごとにおいてこそ、ふだんは隠れていた事実が浮上してくる。
‥‥ちょうど稲妻が一瞬であれ闇夜の周囲のありさまを照らしだす
とき」のように。モラル・エコノミーもパターナリズムも、地域の具体的な紛争・
衝突のなかで明らかになり、固まり、変貌します。中央集権か
どうか。イギリスは議会のもとに、ローカルで ad hoc で、帝国問題
も含めて、一言で尽くせない、おもしろさがあるとおもいます。
Hence the 小シンポジウム。
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