Wedge 2001年1月号 pp.44-45
地球学の世紀 イギリス産業革命と世界史

近藤 和彦


産業革命はなかった?

  歴史学とは過去の学問、どうにも変わりようがない、と思われているかもしれない。しかし、歴史は大きく書きかえられてきた。従来は、どの国もマラソンのように決まりきったコースを走り、イギリスのように早く近代文明にゴールインした先進国と、いまだレース途上の後進国からなるといった「各国マラソン史観」が、ひろく信じられていた。それが、いまや複線的で多様な道を考え、自然環境や人・ものの交流、そして長期的にゆったり変わる構造に注目するようになってきたのである。

  産業革命ないし工業化の見直しについても同じである。じつは産業革命を一国の生産力の問題として、また短い期間だけで考えていては、その本質はとらえられない。すでに数量経済史の研究によって指摘されてきたのは、一八世紀の成長率の低さである。古い教科書には、産業革命は一七六〇年ころのイギリスで開始した、と書かれていたが、その前後の国民生産の成長率は年に〇・七%以下であった。人口増の時代だったから、一人あたりは〇・一%未満、マイナスの期間さえあった。一七八〇年からようやく成長率が一・三%をこえ、一八〇〇年から二%に近づく。一人あたりでは〇・五%ほどであった*

  二〇世紀後半の高度成長を知っているわれわれから見ると、あまりに低い成長率であり、これでは革命と呼べないではないか、という声が当然ながら上がってくる。産業革命の否定説である。ある年にワットが蒸気機関を発明し、にわかに煙突におおわれた工業都市が登場し、資本家とプロレタリアートの対立が始まる、というのが教科書の産業革命のイメージだとすると、それは誤っている。だが、中世から近代までの長い展望のなかで、またもっと広い世界史のなかで考えると、違う意味が見えてくる。イギリスに始まる工業化は、革命と呼ぶしかない不可逆の転換であった。

世界の一体化の第1サイクル

  歴史家ブローデルが協力者とともにまとめたヨーロッパの物価研究がある。とくに中世末から一八世紀までの小麦価格をグラフにしたもの(図)が雄弁である。これはヨーロッパ全域五〇数ヶ所の小麦の価格変動をまとめたものであり、さまざまの度量衡や通貨を換算して、単位あたりの価格を銀のグラム重量であらわす。また対数グラフなので、変化の率や高低の幅が正確に表現される。

  馬の肩から鼻先までを横から見たようなこのグラフの帯の中にすべての価格が収まり、ここにヨーロッパ経済の大きな変化が証されている。ルネサンスの一五世紀には小麦という生活必需品についてさえ、その価格はローカルな需給のままに方向性の定まらない動きをしめし、最高値と最低値には七倍ほどの差があった。ヨーロッパの経済はバラバラだったのである。大航海と宗教改革の一六世紀は成長の時代で、その百年の間にインフレーションがすすんだが、最高と最低の幅にはあまり変化はなかった。戦争、反乱、疫病のつづく一七世紀はヨーロッパ全域の再調整の時代であり、一八世紀には急速に価格の幅が縮まり、高低の差は一・八倍となる。すなわち馬の鼻先のような一八世紀なかばに、ヨーロッパ広域の統一市場圏がととのったのである。

  各地の変化にも特色がある。中世経済の中心だったイタリアは一六〇〇年から衰退の一路をたどるのに対して、ヨーロッパの中位にあったイギリスは、一七世紀後半からほとんど最高値をつけるにいたる。ヨーロッパ経済の中心が地中海から北西に移動したことが、ここに現れている。ずっと最低値をつけているポーランド(東欧)は一六世紀から穀倉として西欧の経済にとりこまれ、ヨーロッパ穀価の底辺を押し上げ、結局、価格の収れんをもたらした。じつは北アメリカの穀価もこの範囲内に収まる。

  生活必需品の統一市場が形成されたということは、一六世紀から三世紀かけて経済・社会のインフラがととのったということである。一八世紀にはイギリス・フランスを中心に全地球におよぶ植民地争奪戦(第二次百年戦争)がつづき、アジア・アメリカの物産が西欧にゆきわたった。茶・コーヒー・砂糖・綿は西欧人の消費意欲をかきたて、それだけ本国の貿易収支を悪化させた。産業革命はただ発明家の酔狂によって始まったのではない。それは覇権国が代替商品によって貿易赤字から抜け出すための苦肉の策でもあった。

  したがって、全ヨーロッパと北アメリカの市場圏を前提に一八世紀後半に進行したイギリス経済の成長は緩慢かもしれないが、その意味は大きい。イギリスは海外物産の輸入国から「世界の工場」、自国製品の輸出国となり、自由主義の祖国としてこれを海外にも浸透させようとした。こうしてイギリスの覇権のもとに、世界の一体化の第一サイクルが完結する。フランス革命はこれに対する抵抗であり、ナポレオンは大陸封鎖という形で、対抗帝国を樹立しようと試みた。

世界の一体化の第2サイクル

  厳密な意味での「近代」は一八世紀末のイギリス産業革命、フランス革命によって始まり、第一次世界大戦で終わる。その近代史を貫くのは世界資本主義と自由主義、このなかでの対抗と従属である。覇権をにぎるのはイギリスであり、パクス・ブリタニカのもと、これに対抗するべく国家の凝集力を強めた欧米の列強、そして抵抗し従属するアジア・アフリカ・中南米からなる世界システムができあがった。近代の世界の一体化は三層の構造をもたらした。日本もロシアも一九世紀後半から、この対抗群の国家として世界史に参加することになった。

  こうした近代史の始まりを画した産業革命は、いかに成長率が低くとも、世界史の画期であり、その意味を否定することはできない。開発や二酸化炭素の排出など環境の面から考えれば、なおさらである。



* 近藤和彦 『文明の表象 英国』(山川出版社、1998)pp.157-8

Further readings: 『岩波講座 世界歴史』第16巻(岩波書店、1999)p.21(図)
                        『現代の世界史』改訂版(山川出版社、1998)pp.65-92

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