日本西洋史学会大会 小シンポジウム
2001年5月13日(日)

ヨーロッパの政治社会 − 長い18世紀の連合王国 −

 Q&A/坂下報告/青木報告/西川報告

2001. 5. 11 更新


問 題 提 起
近藤 和彦


  このかん、歴史学ばかりでなく歴史的なパースペクティヴをもつ学問一般の展開により、国家・国民という概念は相対化されてきた。一方ではローカルな生活、マイナーとされた集団のありかたが究明され、他方では広域の経済システムないし政治システムが分析されてきた、その成果は各専門研究者のあいだでは共有資産となっている。また1990年前後からの世界史の急転は、こうしたテーマについても歴史学に再々考を迫っている。

  そうしたなかでも近世・近代ヨーロッパの政治社会の複合性・多様性に注目した研究には、めざましいものがある。各個別研究からわたしたちは多くを学んでいるが、しかし、よりひろい視野からの問いなおしが必要だとも考えている。また、権力の編成、政治意志、公共性のありかたにも注目したい。わたしたちは Hobbes的秩序問題を、文明的に爛熟したいま、あらためて問うているのだ、と言うこともできるかもしれない。今回の小シンポジウムではヨーロッパ史(含む植民地)の視野を保持しつつも、しかし実際的な制約から問題をやや絞って、長い18世紀の連合王国における政治社会を討議したい。

  用語について、すこし説明が必要であろう。@ 長い18世紀とは、ほぼ1680年代〜1830年前後の期間をさし、いわゆる名誉革命体制をひろく考える。A 連合王国 United Kingdom (of Great Britain and Ireland) が正式の国名となるのは1801年だが、連合王国という表現は18世紀前半から用いられていた。多様な要素からなったイギリス諸島の複合国家を United Kingdoms でなく、単一の王国とよぶことには、強い意志が現れている。B 国家・市民社会よりも政治社会(political society)に注目するのは、枠を限定することなく、共同体・秩序の動態を問題にしたいからである。

  各報告とコメントは、それぞれ社会史と政治史、国制史と思想史の交わる領域におけるオリジナルな研究にもとづくものであり、全体として統治・権力・公共・徳・礼節・独立・モラル・貧困などをめぐる論議にもかかわる。18世紀人もわれわれと同じく、歴史的に継承した、その時代の政治文化資産をわがものとしつつ考え行動したから、考察はときに時間的に遡り、またヨーロッパ大陸や植民地との関連にも及ばないわけにゆかない。経済システムを考慮すれば、なおさらである。

  坂下報告は、救貧をめぐる係争がどのような回路をへて処理され、そこにどのような力が作用したのか、地方都市の経験にそくしてメカニズムを明らかにする。青木報告は、国制の原則にも深くかかわる議員と有権者の行動のあり方を、具体的問題にそくして構造的に分析する。西川報告は、SPCKという任意団体のヨーロッパ的ひろがりを考察し、プロテスタントの国際性と国教会を論じる。 これら長い18世紀の連合王国の成りたちをめぐる研究報告は、コメンテーターによって、さらにアイルランド史から照射され明確に浮き彫りにされるであろうし、またヨーロッパ主権国家体制と啓蒙といった文脈において位置づけ直されるであろう。


〈近世ヨーロッパの政治社会〉をめぐる研究会から、今回は半日シンポジウムとしてテーマを絞り、
長い18世紀の連合王国 を焦点に発議します。 
日曜の朝早く、多摩キャンパスにおける会合ではありますが、
多くの皆さまにご参加を呼びかけます。 → Q&A

大会受付にて、冊子『‥‥報告要旨』とともに、
小シンポジウム・レジュメ集 も配られます。
わたしたちのレジュメ集は、25ページあります。
12日(土)のうちにご覧ください。
 



地域政治のダイナミズム ―local issue と local act―
坂下 史

  イングランドでは、いわゆるエリザベス救貧法(1601年)によって、貧民監督官、教区委員といった教区の役人たちが救貧については第一の責任を担うとされた。しかし、17世紀末以降、旧来の教区の壁をこえるあらたな組織をうち立てることによって、救貧システムを再編成しようという数多くの提案と、実践的な試みが現れた。そのようななかで最もよく知られたものが、1690年代と18世紀の最初の20年間に14の地方都市で設立された救貧社(corporations of the poor)である。救貧社は、第一義的にはローカルなイニシアティヴにもとづき、公式にはlocal act(地域特定法)の制定をもって設立された、特定の地で特定の目的を遂行するための行政機関(statutory authority)である。イングランド南西部の主教座都市エクセターは、このときに救貧社がつくられた14の都市のうちのひとつである。

  本報告では、エクセター救貧社の活動をめぐって1780年代に市内で起こった論争を取り上げて検討する。Statutory authority の活動にかかわる係争が地域の政治問題に発展した場合、地域住民たちは、しばしば問題をローカルな範囲で完結させず、議会(Parliament)に請願して立法措置を模索した。これは、この種の機関が救貧などの公的な性格をもった事業を遂行し、地方税(rate)を課する場合が多かったという点に関係している。Local actを軸に地方と中央のあいだを往復するこのやりとりのなかに、地域政治のダイナミズムを見てとることができる。こういったダイナミズムは、地域の活性化に寄与しただけでなく、連合王国の政治社会のなかで問題と政策を標準化する作用もあった。



選挙区・議会・政府
青木 康

  18世紀イギリスの政治を考えるにあたっては、今日の議院責任内閣制下の政府と議会の関係を前提とせず、当時の選挙区、議会、政府の三者間の関係を事実にそくして検討する必要がある。そのために、本報告では、下院議員が有給の官職に任命されると、議員をいったん辞職し、その後の補欠選挙で再選されることにより、その官職と議員の職の兼職が許されるという制度に注目した。報告の主要部分をなすのは、1715年から1790年までに行なわれたこの種の補欠選挙に関するデータの紹介と、その分析である。

  本報告が対象とする補欠選挙は全部で865件であるが、その発生率は選挙区の種別により大きく異なっている。有権者が多く、その意思が選挙結果に反映されやすいイングランドの州選挙区や大規模な都市選挙区では、この種の補欠選挙は起こりにくい。それに対して、少数の有力者の支配下に置かれることが多く、有権者の意思が表明されにくい小規模な都市選挙区では、より頻繁に見られた。この事実は、有権者が議員の官職就任、すなわち政府への取込みに警戒的であったことを示唆している。そのために、成長しつつあった18世紀の財政軍事国家は、その要員の多くを、有権者の意向に拘束されにくい小規模な都市選挙区を代表する下院議員に求めることになったのである。しかし、こうした有権者の意向も時とともに変化する。18世紀後半には、官職に就任して、いったん議員を辞職した前議員が、補欠選挙で対立候補からの挑戦にあわず無風で再選されるケースが世紀前半と比較してより多くなる。これは、選挙区の有権者が政府への議員の直接的な参加を受け入れるようになっていった結果であろう。

  このように、下院議員の官職就任・議員辞職にともなう補欠選挙は、18世紀イギリスの政治社会を検討する上で格好の材料である。



プロテスタント・ネットワークのなかの連合王国
西川 杉子

  近代イギリス国家形成をめぐる議論のなかで、宗教とnational identity の関係は、現在もっとも注目されているトピックの一つである。たしかに1688-89年の革命によって成立した名誉革命体制においては、カトリックの「ジャコバイトとフランス」からの脅威に対してプロテスタンティズムを守ることが政治エリートたちのアイデンティティの核にあった。しかし、ここで彼らのプロテスタンティズムを外敵(Other)から国家の枠組み(Us)を規定するイデオロギーに単純化することは、18世紀イギリスの政治社会の複合的な性格を軽視してしまうことに結びついているのではないだろうか。

  本報告は、ロンドンの政治エリートのネットワークを@18世紀にいたる宗教改革運動、Aヨーロッパ規模での多中心的なモラル・リフォーム運動との連関のなかで検討することによって、national なものには収斂しきれない「連合王国」のプロテスタント共同体のありかたを示したい。特にとりあげるのは、1699年にロンドンの政治エリートを中心にプロテスタント版布教聖庁をめざして結成されたヴォランタリ・ソサエティ SPCK (Society for Promoting Christian Knowledge: キリスト教知識普及協会) である。SPCKの主要メンバーたちは、アイルランド・スコットランドを含めた名誉革命体制の政治社会を支える重層的なネットワークの結節点として働く一方で、ヨーロッパのプロテスタント諸宗派との連帯運動を肯定し、その世界はバルト海からサヴォイアまで拡がっていた。長期的にはSPCKはイングランド国教会のヘゲモニーにからめとられてゆくのだが、啓蒙の世紀の多様な文化のありようを示しているといえるだろう。


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