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東京大学宗教学研究室

〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学法文二号館3F

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駒場生、推薦入学希望者の皆さんへ

森下佳子さん講演(2014年嘲風会フォーラム[宗教学科同窓会]

○プロフィール
1993年宗教学宗教史学科卒。脚本家。代表作に『世界の中心で、愛をさけぶ』(ドラマ版、2004年)『白夜行』(2006年)『JIN―仁―』(2009〜11年)『ごちそうさん』(2013〜4年)など。

『ごちそうさん』(NHK連続テレビ小説)が話題になり、向田邦子賞・橋田賞を受賞されるなど、昨年はまた一段とご活躍だった森下佳子さんに、学生時代に宗教学科で学ばれたことと、脚本家のお仕事の関係についてお話を伺いました。

●宗教学科で学んだ「内在的理解」の方法
脚本を書くときの、大きな仕組みの部分、ものの見かたの部分で使っていると思います。とくに、島薗進先生のゼミで教わった、「内在的理解」というものの見かたです。先生の説明で心に残っているのは、「病気になったら、私たちは医者に行きますよね。でもこの島の人たちは、まじない師のところに行くんですよ」「私たちから見たら、まじない師のところに行くのは、おかしいよね、治るわけないよね、となる。でも、向こうの人からみたら、なんで医者に行くの?となる。知らないから。でも、そこで求めている心の作用というのか、機能としては、島の人たちも私たちも同じなんですよ」という話でした。これ、ドラマの世界もそうだなあと思うところがあるんです。たとえば、アウトローな生き方をしてきた人と、しっかりレールに乗っているんだけど、そこに乗っていることもあまり疑問に思わずきた人というのは、たぶん、物の見えかたが180度違ってしまうと思うんですよね。どちらも自分の正義にしたがって、あるいは自分の幸せに向かって生きていることには違いがない。でも、見えかたが圧倒的に違う。これが、化学反応を起こして、何かが起こっていくというのが、たぶん、ドラマというものの一番大きな正体なんじゃないかなと私は思っていて。
『白夜行』という東野圭吾さんの小説をドラマ化したときのことです。この原作は、いわゆる推理小説で、基本的には事件があって、犯人はおそらくこの人だというのが見えてくる作りになっているんですけど、原作では、主人公というのか、(犯人である)ひとりの男の子とひとりの女の子の話は一切語られないんです。別の登場人物たちの話の中に、この二人のことがずっと出てくるという構成で、そして、その二人が出てくると、その登場人物には不幸な事件が起こるんです。これを、謎解きの方面から、つまり、誰が犯人かわからない外側から見ると、推理小説になるんですけど、この二人を主人公にして書くと、犯罪小説になるんですよね。そこに目をつけて、推理小説だったものを、犯罪ドラマにして出したのが、ドラマ『白夜行』のそもそもの作りだったのです。

●すべての登場人物に「内在的理解」を
こちらから見ると、自分たちの都合のよいように犯罪を犯してきたんだろうって思う人たちの人生を繋げてみると、そうせざるをえないような時間がやはり流れていたっていう作りというんでしょうか。それが、宗教学科で習ったことを、初めて自分の仕事に自覚的に活かしたと瞬間でした。それからはもっと意識的になりましたね。人には、それぞれの理由と行動原理がある。すべての登場人物にそれがあるとする脚本を目指そう、と思うようになって。でも、これはなかなかしんどいところがありました。犯罪者が主人公ですから。どうやったって、悪いは悪いんですよ。犯罪をやり続けなくてはいけない理由なんてどこにもないですから。やはりそこは、「そうしないとしかたなかったのよ」と言いながら、本当にそうだったの?と問い詰められると、言い訳ができないところなので、そこをいかに、気持ち的なところでクリアしていくかっていうのが、工夫のしどころでした。
登場人物たちのそれぞれの話が、絡みあっていけばいくほど、話というのは面白くなると私は思っているんですけど、これはやりすぎると悲惨になることがあります。というのも、誰に感情移入していいのかがわからなくなってしまうんですね。そして、感情の行き先がぶれていくと、どんどん数字(視聴率)は落ち込む仕組みになっているんです。本当に、「わかりやすい」っていうことがテレビでは大事なんですよ。『ドクターX』や『水戸黄門』がすごくうけるというのは、それなんですね。悪役に言いわけをさせないんです。この人にも理由がある、という設定にはしない。悪役は絶対に悪役。その方が数字が上がるんです。でも、これは、理由づけをしていった方が、細かく見る人には絶対におもしろくなっていくんですよね。これが痛し痒しのところで(笑)。

●『ごちそうさん』嫁いびりの結末も
『ごちそうさん』の脚本を書いたときにも、こんなことがありました。脚本を書くというのは、私にとっては壮大な人形遊びのようなものなんですが、微妙に先が見えないときがあるんです。主人公のめ以子ちゃんと相容れない、いけずな小姑のお姉さんというのがいたんですよ。いじわるをえんえんとされるわけなんですけど、二人は最終的に決裂するんです。そこまでは決まっていたんですよ。ところが、決裂をする、決定的な場面を迎えたときに、和解をするという選択にするのか、和解をしないという選択にするのかっていうのは、実は決めてなかったんですよね。それで、私のなかでは、「あ、どうしよう、この二人絶対に一緒に暮らせなくなっちゃったんだけれども、どうするんだろう?」っていうことになって。別れながらも、繋がる方法っていうのはないものかなと。それは、主人公のめ以子ちゃんの思想として考えていくわけなんですど、彼女が出した結論っていうのが、別れて暮らすし、仲直りもしないんだけれども、いじわるをし合うことでお互いの存在を確かめあうというもので。仲良いかたちじゃなくても、つながってるというやり方もありなんじゃない、と。そう考えたのは、何といいますか、私のようで私ではないというところがありまして。まさに、内在的理解の瞬間ってそういうことなのかなあって思うんですが。

「宗教」を宗教学的にとらえることで見えてくること
いつになったらこれが終わるんだろうと思うんですけど、「宗教学科を出ています」というと、「何教なんですか」「宗教に何か入っていらっしゃるんですか」と聞かれることがよくあります(笑)。宗教学では、もうちょっと広く「宗教」の概念をとらえるんだというのが、なかなか分かっていただけないのが現状です。そのためか、ドラマの制作現場には、「宗教」に関してふしぎな二重基準があるんです。
一方では、原作にあっても、「宗教」はドラマから基本的には消すという方向にもっていかれます。理由としては、宗教を出すと、登場人物が一気に遠くなってしまうって言うんですね。たとえば『ごちそうさん』をやったときのことなんですけど、め以子ちゃんは女学校に行っているんです。あの時代の女学校というのは、ほとんどもう、90%ミッションスクールです。だからめ以子ちゃんの学校もミッションスクールにする方が自然なんですが、それをすると、「あ、ミッションスクールに行っていらっしゃる人の話ね。私、関係ないわ」っていう風に見えちゃうそうで。その時代の女学生には、おそらくすなおにキリスト教の感化を受けた人というのも大勢いるんでしょうけど、あえてそこは消すんですね。外国の映画、とくにアメリカの映画などには、告解のシーンとか、神とは何か、といったシーンを真正面から描くものはたくさんありますけれども、日本の映画には少ないですね。昔の日本映画、今村昌平さんあたりの映画では、八百万の神的な、土着的な信仰を表現しようというものはありましたが。ドラマで、特定の宗教名が出た時点で、わざわざ消すっていう作業はすごく不自然だなあと、そこはなんとかならないかなと、個人的にはいつも思ってるんですけれども。

●日本人の「宗教」に対する距離感
ところが他方、撮影現場は昔から、「宗教」的なものを大事にするんですよ。私が一緒にやっているグループでは、必ず撮影の前に、みんなで日光東照宮に行って、安全祈願をするんです。それから、撮影現場の隣にお稲荷さんなどがあると、その参道には絶対車を止めてはいけない、邪魔してはいけない、としたりするんです。縁起をかつぐと言いますか。撮影中は、いろいろな神社のお札でお札だらけになるんです。現場はそんな感じなんですけれども、作品中の表現としては「宗教」は出さないんですね。この距離感が日本人の宗教観なのかなぁと思います。
縁起をかつぐといえば、ドラマの制作では、「川には数字(視聴率)がある」「水辺には数字がある」というのが昔からあるんです。どのドラマにもよく川べりを歩いたり、水中に落ちたりといったところがあると思うんですけど。以前には「火(火事)に数字がある」というのもありました(笑)。「ドラマのなかで宗教はどう扱われているか」というと、そういうわけで、宗教学を学ぶと、どこを「宗教」と見るか、どの「宗教」を気にするかが変わってくるんです。「内在的理解」の方は、調査で出会った信仰者の考えを内側から理解することだとすれば、こちらは、周りの人たちの「宗教」観を鳥瞰し、相対化するということになるかと思うんですが、どちらも宗教学科で身についたことですね。


宗教学科に進学して1年―「宗教学」と「宗教」について見えてきたこと―[座談会]

本学に限りませんが、宗教学の教員はしばしば、宗教学の授業で学ぶことは、宗教の知識よりも、宗教の「見かた」や、宗教に関する問題の「考えかた」だと言います。知識をないがしろにするわけではないのですが、一つの授業で伝えられる量というのは高が知れています。また、「世界宗教史」といった名称の授業は本学科では開講していません。そういった一般的な知識は、学生が自分で習得するものということが前提とされています。
それでは、宗教学的な「宗教の見かた」とは何なのでしょうか。1年間の授業の最後に開いた座談会の中に、学生が身に付けた「宗教の見かた」が具体的に表れていました。(2015年1月収録)

○参加者
A〜Eさん 宗教学科3年生(文IIIから進学)
Fさん 宗教学科3年生(学士入学)
Gさん 大学院は宗教学専攻に進学することを考えている他学科の学生
T 聞き手:宗教学科の教員(藤原聖子)
(「宗教学科」は通称であり、正式には「宗教学宗教史学専修課程」)

○参加学生プロフィール
Aさん 駒場(1〜2年次)では全然勉強しなかった、と言うわりには読書量は人一倍。
Bさん ミッション系高校出身だが、幼少時にはキリスト教教会は危ない、と信じていた。
Cさん 学業の他、演劇活動に余念がない。脚本に宗教ネタをよく入れるようになってきた。
Dさん 東大に入る前から“タフでグローバル”な彼女は、海外渡航歴にかけては追随を許さない。クリスチャン。
Eさん Cさんに同じ。脚本を書きながら宗教学の諸理論を自然に意識するように。
Fさん 医療機関に勤める、社会人学生のお姉さん。
Gさん 授業にはクールに参加していたが、宗教に関しては人生の大きな転機を迎えていることが、座談会中に明らかに。

●意外に人気だった宗教学科の授業
A 同期一人ひとりに聞いてみると、必ずしも、宗教学をやろうと思って大学に入ってきたわけじゃないよね。むしろ、C君の言葉を借りれば、「消去法」で決めたとか、反骨精神で、あえて文学部を選んだ結果、たまたまっていう人が多い。でも入ると、結局、まあまあいい感じにやるわけじゃない。宗教学に来てどう? 1年ちょいだけどさ。
B 中に入る前と入った後の宗教学の印象の違いでは、思ったより特定の○○教についてやらないな、って。他人に「宗教学やってます」って言うと、「何教やってんの?」って聞かれる。冗談だと「教祖になるの?」とも(笑)。宗教学っていうと、特定の宗教か、新宗教の研究というイメージが僕もあったんですけど、中に入ってみるとそんなことはなくて。墓や葬儀の研究の授業(注1)があるとは、宗教学は幅広い学問だなあ、と思いましたね。
A 社会学とどちらに行こうかと迷って宗教学にきた人たちは、死生学関連の授業(注2)をおもしろがってるね。あと、新宗教の授業には、社会学や心理学の他学科生が何人も。鶴岡(賀雄)先生の授業(注3)には文学系の人、とくに現代文芸論の人が来てる。
B そう、宗教学科に進学するのは敬遠しても「宗教学の授業」っていうとけっこう来る人がいて、なんだかんだみんな宗教学に興味あるんじゃん、って思った。
C 興味あるのに宗教学科には来ないのは、イメージが凝り固まってるからっていうのがだいぶある。
B 実際に宗教学に入ると、宗教学だからって人から変な目で見られることはないけど、進路として積極的に選ばない理由は、駒場時代にそういう情報があまり入ってこなくて、なんかこう、ぱっと聞いた印象で、「やばい」と思っちゃうのがよくない。
D あとやっぱり、職業が思いつかないんじゃない?
B それは文学部全体的にそうで、そういうところで、文学部を避けて、教育(学部)や経済(学部)に行っちゃうってことが起こる。
C ○○文学科だと、将来は研究者、って漠然と思うけど、宗教学だと、「あ、坊さんじゃん」って誤解されてしまう。
B 前に、「宗教学やってます」って飲み会で言ったら、なぜかあだ名が「アラブ」になったよ。(笑)


注1 村上興匡講師の講義「宗教学宗教史学特殊講義―近代日本における葬儀・墓慣習と死の意識の変容―」。授業概要:明治以降、近代化による西欧の法制度や文化が導入されることにより、日本の地域、家族のあり方が変わり、それに伴って葬儀や墓など、「死」を扱う慣習や態度は大きく変化してきた。その変化には、明治維新における近代的な社会制度の構築、第二次大戦後の民主的社会制度の導入、高度経済成長期以後の人口移動、人間関係の変化、などなど複数の要素が関わっている。それぞれの時代ごとにトピックを選んで、死についての「慣習」と「態度」の変容の相互関係とその意味について考察したい。(2014年度シラバスから)
注2 池澤優教授の死生学演習・講義など。「死生学基礎文献講読」の授業概要:改めて言うまでもなく、いかなる文化でも死に関する言及や研究は長い歴史を持つが、狭い意味での「死生学」の歴史は決して長いとは言えない。概ねそれは 1960年代くらいの「死の自覚運動」の流れの中で、独立した一つのディシプリンというより、生と死の問題を考える場合のある傾向性として生じたと言える。東京大学文学部では2002年以来、COEプログラムの一環として「死生学」の研究と教育を展開してきた。2012年にCOEプログラムは終了したが、死生学・応用倫理センターがその事業を継承し、「死生学・応用倫理教育プログラム」が開設された。しかし、「死生学」固有のディシプリンはまだ構築の途上にあるのであって、我々が目指す死生学を形あるものにするためには、まだ試行錯誤を繰り返す必要があると考えている。
「死生学」においては幾つか基本的におさえておくべき文献があり、上記の問題意識に基づき、昨年度はそのような基礎文献の中から、アリエス『死を前にし た人間』、ゴーラー『死と悲しみの社会学』、キューブラー=ロス『死ぬ瞬間』、加藤周一ほか『日本人の死生観』、エルツ「死の宗教社会学」を講読した。本年度はそれを継続し、アルフォンス・デーケン『新版 死とどう向き合うか』(NHK出版、2011)、ロバート・ニーメイアー『喪失と悲嘆の心理療法』(金剛出版、2007)、岸本英夫『岸本英夫集第6巻「生と死」』(渓声社、1976)、窪寺俊之『スピリチュアルケア学序説』(三輪書店、2004)、 ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質―生きることの意味』(ゆみる出版、2006)、新谷尚紀『お葬式―死と慰霊の日本史』(吉川弘文館、2009)を講読 したいと考えている。それを通して「死生学」に関心を持っている諸君と問題意識を共有していきたい。(2014年度シラバスから)
注3 「宗教学演習―宗教学の基礎文献を読む―」。授業概要:宗教学の重要な文献を読み、「宗教」とは何かを考えるための基礎的な理論を学ぶことを目的とする。 本演習では、ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(Georges Bataille, Theorie de la religion (c.1948)をとりあげる。このテクストはバタイユによる集約的な宗教論であり、また宗教論という体裁をとったバタイユ思想の集約的な表現でもある。 二十世紀前半までのさまざまな宗教理論に基づきながら、独自の魅力ある宗教論を提出している同書は、宗教学の核心を一挙に突く入門書としても読めるだろう。(2014年度シラバスから)
     

●宗教学科の授業ではどんなことをやっているか
B あと、宗教学に入って思ったのは、そのときの教授のメンバー構成によるけれども、○○教ということでは、キリスト教関係は多いし、ユダヤ教は市川(裕)先生のおかげで充実(注4)してるけれど、神道を専門にガッとやる授業は、思ったほどないね。
D 私の個人的希望としては、宗教学科の内部にイスラムの先生がほしいです。イスラム学科はシャリーア研究ばかりなので、そうではないイスラム学の。
G 僕も、個人的には、ヒンドゥー教の専門家の授業があるとうれしい。印哲(インド哲学仏教学科)の授業は仏教ばかりなので。
A ヒンドゥー教は駒場のアジア科になっちゃうとか、個別の宗教の授業は、いろんな学部にバラけてますよね。宗教学の特徴って、そういうところがやってない、隙間っていうと印象良くないけど、柳川(啓一)先生の「ゲリラ」(注5)っていう表現があてはまるところがある。それから、宗教学そのものに対する反省もここ数十年、ずっとやってるじゃないですか。東大と他大学の宗教学でもまた違うんだろうけど、宗教概念論(注6)については、ここ(宗教学科)に来なかったら、たぶんそういう考え方をしなかったな、と思う。それは進振り(注7)の段階ではわからない話だね。
G 宗教学科はフィールドワークが多いっていう印象があるんですけど、それはどうなんですか?
B それは島田裕巳とか、柳川チルドレン(注8)の話で。そうそう、宗教学科だ、っていうと、「教団に潜入調査とかするの」って聞かれることもあるね。宗教学っていうと、新宗教教団に限らず、寺とか神社に修行しに行く、みたいなイメージがあるのかな。今は西村(明)先生の授業(注9)しか、フィールドワークはないけれど、それは奄美の調査。初対面の人に、「奄美で調査って、何するの?」って必ず聞かれる。
A 俺、その授業とってないんだけど、何してるの?
B 島特有の宗教事情があるんだよね。アメリカの占領下だった時があるし、神社や仏教が入ってくる時期がちょっと違っていて。現地に行ってはじめて知ったのは、「ケンムン」っていう謎の妖怪が思ったよりもその辺にいっぱいいること。ケンムンのイラストの「(ケンムンの)飛び出しに注意」っていう標識があったり。奄美パークでは「ケンムン イラストコンテスト」をやっていて。子どもの絵本に「ケンムンとぼく」っていうのがあったり。そういった地域の民間信仰も調査の内容。結局、専門の勉強って、やってみないとわからないところがあるんだよね。
E 奄美は宗教同士が仲がいいっていうところがあって。
A どういうこと?
E 本土復帰に向けて、一丸とならないといけなかったわけじゃない。だから宗教も結託していて、キリスト教も仏教も、同じ方向むいて団結しているのが、おもしろいと思った。
B 断食とかのイベントを、いろいろな宗教の人たちがみんな、神社に集まってやるって言ってたね。
A それはおもしろいね、空間論的に分析してみたい。
     


注4 「宗教史概説―古代ユダヤ教―」「宗教史学演習―ユダヤ教ヘブライ語文献講読―」など。前者の講義概要:古代イスラエルの歴史から始まって、中世のキリスト教徒イスラームによる世界の一神教化の時代までのユダヤ教を概観して、一神教や預言、律法、偶像崇拝といった聖書になじみの概念を再検討するとともに、啓示宗教の今日的意義を見直してみたい。(2014年度シラバスから)
注5 「宗教学はゲリラだ」とユーモラスに“宣言”した、柳川教授(1960〜80年代に本学科で教鞭をとる)の1972年『UP』(東大出版会広報誌)創刊号掲載「異説 宗教学序論」から。後に、柳川啓一『祭と儀礼の宗教学』(筑摩書房)に収録。
注6 現在、私たちが使っている「宗教」の語は、西洋近代的=プロテスタント的宗教観(宗教の本質を内面的信仰beliefにおき、儀礼などのpracticeや政治との関わりは二次的・逸脱的とする、あくまで一つの特殊な宗教観)に由来し、私たちの宗教の見かたは、無自覚のうちにその影響を強く受けているとする、(反省的という意味での)批判的議論。
注7 進学振り分け。教養課程の2年次に、進学する学部・学科を成績に基づき決定する制度。
注8 上掲の柳川教授の門下生。島田裕巳氏のほか、新聞に「柳川四天王」として記載されたことがある、中沢新一氏、四方田犬彦氏、植島啓司氏、渡辺直樹氏など。
注9 「宗教史学演習―宗教人類学的宗教誌を読む―」。授業概要:本演習では、比較的近年に刊行された宗教人類学的方法で書かれた宗教誌を取り上げ、その方法論を学ぶとともに、各自の関心をフィールドデータに基づいて探究する可能性について検討する。また希望者を募り夏季休業中に奄美大島で調査実習を行う予定である。(2014年度シラバスから)

●「宗教家になるんでしょ」と言われて否定したくなるのは宗教学という学問の特性?
A Fさんは今の職場で、「教祖になりたいの?」とか言われないの?
F 言われない。でも、「宗教はやばい」っていう感覚は、私の世代より今の大学生の方が、オウム事件を知らないので、和らいでいるんじゃないの?
B 完全にやばいものっていうより、ちょっといじったらおもしろそう、みたいな? ネットはそうかな。
D そういうことって昔からあったんですか?
T 柳川先生が、まだ若かったころ、汽車に乗り合わせた人に、自分のやっていることを一生懸命説明したら、「けっこうなご趣味ですなあ」と言われたっていうエピソードがありますね。「お若いのにご奇特なことで」って言われたとも。やはりお坊さんになる勉強だって思われたんでしょうね。
A なんか、今でもそうだけど、信仰と研究があまり分けて認識されていない感じがあって。それはなんだかな、と思う一方で、本当に信仰と研究って別なのかなとも。このへんは神秘主義研究者の鶴岡先生がよく書かれているところと思うんですけど、神秘家のテクストについて研究して書くことは、それ自体が神秘家的になっちゃうっていうようなこと。それは一種、真実なんじゃないかなと思うから。それは社会学や文学研究にはない悩みだろうなって思いますね。
G 文学研究も、文学なのか研究なのかみたいなところがあるじゃないですか。文学研究者と文学者のラインは微妙ですよね。
A そこを分けなくちゃいけない必要が出てくるのがむしろふしぎな気がして。仏文科だとそこがくっついていて、仏文科で博士課程を出て、小説家になっている堀江敏幸さんとか。文学研究者だと、研究しながら、自ら小説や詩を書く人もいる。宗教学科だと、信仰をもっている人が、宗教者と学者のアイデンティティを分けなくちゃいけない感じがあるじゃない。
G それはやっぱり、分けないと学問っぽく聞こえなくなるからじゃない。自分の宗教、宗派の宣伝のような研究は、やっぱりどうかと思う。

●いわゆる「日本人は無宗教」論について
G 宗教学は一学年何人くらいですか。
T このところ毎年15〜7人入ってきます。
G 多いですね!
B Fさんがなんで宗教学に来たのか、気になるんだけど。
F 私は高校の頃は、哲学に興味があったんですけど、医療系の大学に進みました。そこでは死生学をけっこうやってて、ターミナル・ケアのことをいろいろ勉強していたときに、チベット仏教のお坊さんのお話を聞く機会があったんですけど、「人間は生まれ変わるから、死ぬことは怖くない」と言われて。それで、宗教ってすごいんだなあと、特定の宗教じゃなくて宗教学に興味を持つようになりました。問題関心としては、いろいろな宗教をつまみぐいするような日本人の宗教観を知りたいですね。
B 日本人の宗教意識、何かと出てくるよね。日本人は無宗教っていうけれど、違うんですよ、って。
A なんかね、無宗教とか世俗化とかの議論って、もう、泥沼だよね。
B 堀江(宗正)先生の授業(注10)で、誰かに、その人の死生観を聞いてきなさいという課題があったんだけど、
D えー、一般人?
B そう。僕が聞いたのは「霊魂なんて存在しませんよ」「信仰心なんてないです」って言う、理系の人なんだけど、いろいろ聞いてくと、「お墓に水をかけてはいけない」って家で言われていたらしく、「なんで?」って聞いたら、「えー、だって、急に水かけたら、ご先祖がびっくりしちゃうじゃない」って。「え、なに、君、魂は存在しないって言ったよね」「はい」「死後の世界はないと思ってるよね」「ないです」「なのにご先祖はびっくりするの?」って。そういう曖昧なところがある。もう一つ思ったのは、「信仰心がある」というとマイナスイメージだから、それを認めたくないんじゃないかと。特に理系の人はそういう感情があるんじゃないかって見てて思った。
A 医者の死生学には時々ひどいのがあるよ。終末期の医療とか、ホスピスがどうとかっていう話、「科学、科学」って言って、「宗教なんかくそだ」って言ってるんだけど、なんか霊魂の話始めるとか、倫理の話始めるとか、自己矛盾がひどい。医者っておもしろいなと思うけど。
B 数学科の院生の人に、「宗教学やってます」って言ったら、「宗教学って、地盤固めずに研究しているイメージあるなあ」って言われたことが。「宗教ってなに?神ってなに?定義はないの?」って突っ込まれて。
D その突っ込みかた、なんて言うか、ちょっと知ってるね、ふふ。(笑)
B そう、理系の人も、実は興味があって、調べてるのかも。
F そういう、自分は興味はないって言いつつ、実はあるっていうのは、自分の宗教心に自覚的じゃない、日本人の特徴なのかなと。キリスト教なら信仰告白があって内面化するけれど、日本人はあまりそういうことがないから。
A 宗教学で使ってきた「宗教」の概念が、信仰を中心とした、プロテスタント的宗教観に影響されている、っていうのはよく言われてるけど、そのプロテスタント的な宗教の考え方が、学者の間だけじゃなく、一般にそうやって浸透しているのはおもしろいなあと思う。一般の人の実感として、「宗教=belief」という宗教観が、すごく出てくるのは、見逃せないところって思う。
     


注10 「死生学特殊講義―現代日本人の死生観を問う―」。授業概要:「日本人の死生観」とはどのようなものか。この問いに短く答えることは難しい。それほど複雑だからである。歴史的な穴も多い。過去の思想家が残した死生観に頼ろうとしても、現代人の死生観と関係があるか、それともその思想家の特殊な死生観でしかないのか、という疑問が残る。現代人だけに範囲を限定して も、多様な死生観がある。宗教観以上に曖昧で複雑な現代日本人の死生観にどのようにアプローチするか。すでにあるアプローチから、突破口を考えてゆきたい。(2014年度シラバスから)

●“変わった”宗教に好奇心ありすぎ?
A 課外授業で、宗教施設に見学に行く(注11)って話とか他人にすると、けっこう受けるよね。
D でもね、一つ思うのは、行くのが、新宗教の施設が多いじゃない。そういうところは確かに一人じゃ行きにくいし、大学の皆と行くのはいいと思うんだけど、逆に、じゃあ普通の教会とか入ったことあるの?って聞くと、入ったことない人が多い。ちょっと逆転が起きてるな、っていう感じもするんだよね。
A そうだね、この間のツアーは、神田明神行ってニコライ堂行って東京ジャーミィだったから違うけど。
D あれはそう、異文化理解的なって言うか。
A 俺ら観光客か?みたいな(笑)。でも、意外と、だからあれは、みんな行ったことがなくて、よかったね。
E 伝統宗教より新宗教の方が「宗教」って言うと出てくるっていうのは、世間的にもそうなんじゃない。そっちの方がセンセーショナルだから。だから「宗教学」もそういうものとして、外から見られてる感じがするね。それは昔からそうだったみたいだし。
T それはでも、実はイギリスの宗教(社会)学の方が顕著かもしれない。あちらはメインが新宗教研究で、しかも統一教会とか、エホバの証人とか、ハレー・クリシュナ教団(ISKCON)とか、マージナル度の高い教団を対象にした研究が代表的という伝統があるんです。1960年代の後半からのカウンターカルチャーの中で変化した若者の宗教意識の、突出した部分を研究してきたんですね。それはそれで研究する意義があったのだけど、その反面、メインストリームの、一般的なキリスト教教会の研究はなされてこなかった。世俗化で、信者が来なくなる一方のふつうの教会なんて研究する意味がないよと思われていたんですね(注12)。それに比べると、この研究室の宗教学では、社会学的関心と民俗学的関心が同居してきたので、新宗教教団の調査もやれば、村の祭りの調査もやる、学生の宗教意識調査もやる、という具合に、相対的にはバランスがとれていると言えるかも。変わっているものばかり研究しているということは全然ないです。
全員 へー! そうなんだ。
     


注11 國學院大學の井上順孝氏(本学科OB)主催の見学会に同行させていただくほか、学科の学生の希望を集め、独自に見学を計画することもある。
注12 Grace Davie, “Sociology of Religion,” in The Blackwell Companion to the Study of Religion, ed. by R. A. Segal, 2006.

●日本人は宗教に無頓着なのか厳しいのか
G 個人的なことなんですが、彼女がインドネシア人なんです。結婚を前提につきあってるんですが、彼女、ムスリムで、ムスリムと結婚するには改宗しなくちゃいけないじゃないですか。それで、彼女のお母さんから、プレッシャーかかってきてるんです。今は、とてもとても、という気持ちなんですが、宗教学を学ぶと、自分の中の宗教心を発見することにもつながり、改宗にも抵抗がなくなるかもしれない。そういう感じに、宗教学を実践的に使うこともできるんじゃないかなと思いますけど。
A それができちゃうとまた、学問としてどうよ、って気がするけど。
G 学問をやる側じゃなくて、読者の立場で、ということなんですが……
A でも改宗すると、豚肉も食べられなくなっちゃうね。お酒も飲めなくなる。
D そこがね、日本人の特徴なんだけど、「イスラムに改宗する日本人」が話題になると、信じている内容よりも、豚肉とお酒の話が先にくるね。どういうことを信じているかより、生活のルールが先に出てくる。
全員 あー、そうだね。
C 想像しやすいからね。
A だからその辺もたぶん、(「宗教」概念を構成する)beliefとpracticeの(内、どちらが規範になるかの)問題なんだよね。
D そう、日本人で改宗するケースは、ムスリムの男性と結婚する女性が多いんだけど、改宗した日本人の奥さんは、食事の用意とかで頭がいっぱいになるみたいで。そういった改宗ムスリムの人たちと、生まれながらにムスリムの人たちの間の感覚の溝はなかなか埋められないようですよ。
G さっき、日本人は「宗教」というと、practiceよりbeliefの方から宗教を見ている、っていう話もあったけれども、でも、日本人ってpracticeに厳しいですよね。ムスリムになると、豚ダメなんじゃないのとか言われる。インドネシア人とか、日本に来るような人は、個人差ありますけど、そんなに厳しくないですよ。それより、信じているかどうかっていうことの方が、インドネシア人ムスリムから見ると、重要。クルアーンにもありますよね、2章だったか、信じているふりをしている人は地獄に落ちるよ、っていう箇所が。結婚するために改宗する俺ってやばい、って思った。(笑)
B 日本人の改宗者の場合、やっぱり改宗するからには、もうそれは完璧な信者にならないといけない、みたいな意識があるんじゃない?
D そうそう、ゼロか100なんだね。
A 一方ではさ、葬式は仏教、結婚式はキリスト教式でやって、クリスマスも祝えば、初詣にも行くっていうように、practiceの観点で、認識の薄い面もあるし、その反面、ムスリムって豚肉食べられないでしょ、っていうことに注目したり……
T それはpractice中心かbelief中心かというより、「みんなと一緒のことができなくなる」っていうのが、日本の場合、問題になるんじゃない? まあ、そう言うと通俗的日本人論になりそうだけど。
全員 あー、確かに。

●東大の入試を宗教学の視点から見ると
A 仏教やキリスト教は、情操教育として、幼稚園や小学校なら、道徳教育の一環として取り入れられているけれども、そういう宗教には親は抵抗ないよね。
B でも神道やイスラムの幼稚園はないよね。
E 神道がないっていうのはおもしろいね。神道系の学校は國學院系列しか思い浮かばないな。国家神道の過去があるからか。でも神社に行くと、日本人、一番安心しない?
C なんか変に、純粋に日本的っていう感覚があるね。この宗教意識は気になる。
A 俺が受けた時の、東大の後期入試の国語の出題が、そういう話だった。あれひょっとして、宗教学の先生が作ったのかも。(笑)
E あ、東大入試って、めっちゃ「死」についての問題が出るよね。宗教学の人が作ってるんじゃないかって思っちゃう。死生学観点っていうのか。戦死者の遺骨を集める話とか。
A まあ、よその大学は、出しにくいっていうのがあるんじゃない?
E あー、そうなの?!
A 英語とかでも、よその大学は、人が死ぬ話はださないじゃない。
全員 あー!
A それが、東大になると、The Great Gatsbyのいいシーンとか、浮気がばれるシーンとか。
E ああ、変なシーン出すことあるよね。記憶喪失になるとか。
A そういうところで、「宗教」っていうのが、東大の入試には使われてるっていうのが、前から思ってたところだよ。国立大学だからできる話っていうのか。

●就活で「宗教学」を出すかどうか
A Dさんは宗教学やって、就活でウケよかったんでしょ?
D そう。それ、CA(客室乗務員)のインターンシップの説明会だったんですよ。CAだと、お客さんと最前線で接するので、宗教スペシャル・ミールの知識はすごく必要だっていうことで。全日空でも、本当にそう、宗教に対して敬意をもたないといけないとか。教育方針としてそういうのが今、取り入れられてるってことだったので、ちょうど、ああ、いいですねという話になりました。東京―デリーの便だと、もう半分はスペシャル・ミールだってことで。ベジタリアン・ミールも何段階かに分かれてる。就活では、私は結構、宗教学をやってることを前面に出してるけど。むしろそれがウケないところには行かないつもり。
A まあ、君は、行けなさそうだね(笑)。
E 僕も就活では出してる。テレビ局ではウケるよ。何してんの?って。
C 基本的に、ほかとちょっと違う、実学系と違う、って差別化するにはいい。
B でも、「就職に強いから宗教学に行こう」、ってなっちゃうと、ちょっと違う、って思うね。

●宗教学を学ぶ場が少ないのは社会的問題、と思い始めた
E 日本人の宗教に対する意識は、このままでいいの?って思いますけどね。自分たちが宗教学で学んでいるようなことを、中高で全く教えないのは問題。日本人の宗教に対する認識、ひどすぎでしょって思う。
A 俺が習った高校の先生は、普通の地方の公立なんだけど、日本史の先生も世界史の先生も、「仏教はいいもんだ」「森の宗教が人類を救う」みたいな立場で。国語の先生もそうだったし。わりと梅原イズムが浸透してるところがあったね。たまたまだと思うんだけどね。
E 体系的に宗教学を学ぶ場が余りになさすぎるのは問題。
D うーん、ここ(宗教学科)まで来ないと学べないっていうのは、ね。
T 本はいろいろ出てるじゃない。本を読んで独学でやっても同じ、っていうことにはならない?
B うーん、まずきっかけがないと、なかなかそうはならないんですよ。
A 関心はあるんだけど、多分、需要と供給が結びついてないじゃないかっていう。
E あと、何から始めればいいの、俺は?ってなる。
A そうだね、教育がない分、先入観もあるから。
C この本読んでたら、どういう風に見られるの俺?って思っちゃうんじゃない?(笑)
E 藤原先生が授業でやっているようなこと(注13)が本であれば良いと思うんですけど。
B 石井先生の『プレステップ 宗教学』(注14)は?
D うん、あれは高校生でも入れるって感じがする。でも、スター・ウォーズに関しての記述は、ちょっと。(笑)
A もっと単純に、リテラシーの問題で、宗教関係の本は、本屋で、〈宗教・スピリチュアル〉でまとめられてるじゃない。あそこって、石井先生や井上先生(注15)の本もあれば、霊言や占いの本もあれば、全部いっしょくたじゃない。「リテラシーがない」って言うと失礼かもしれないけど、何も事情を知らない人が、その棚の前にポン!って行って、宗教学的な本を手に取れるかっていうと、そうでもないだろうなと。さらにたちが悪いのは、なんというのか、偏った本の方が商業的にがんばるわけじゃない。「葬式は要らない」って見たら、「ああ、要らないのか」って買っちゃう。大学の授業っぽい宗教学の本は読者に届きにくい。そういうところの難しさは、宗教っていうテーマでは、あるんだよ。
D そうそう、地図がないんだよ。地図が。
E そう、体系がないというのか、今いちとっかかりがない。
T わ、わかりました、わかりました。皆さんの話を総合すると、宗教学科に進むと就職できないなんてことはないけれど、「就職に強いグローバル学科」を看板にして、しゃかりきに学生を集めようとまでするのは、「らしく」ない、かえって「良さ」が消えてしまう。でも、自分たちが学んでいるような「宗教学」に対する社会的認知度が低すぎるというのは問題で、この点、学科の教員はもっと改善努力をすべき、ってことですね。良い本、かつ読まれる本をもっと出せって。それだけの価値がある学だってことは1年いてわかったからって。
全員 まー、そうですね。こういった話が広報になるのなら、自分らも協力しますから!


注13 「宗教学の理論を適用する」講義と演習。19世紀から現在に至る宗教学の諸理論を、「実際の宗教現象に適用するにはどうするか」という観点から、独自の整理にしたがって説明。演習では、受講生自ら、それらの理論を、「事例」に見立てた映画に適用し、理論を使うノウハウとその意義を実践的に学ぶ。従来の大学の授業が、原書講読を通して理論を「理解する」ことに重きを置きすぎ、その結果、学部生にはそれが何の役に立つのかが実感しにくく、大学院レベルでは理論研究と事例研究が分離してしまうという問題が生じたことに対処するため、考案した授業。
注14 石井研士『プレステップ 宗教学』弘文堂、2010年。
注15 上掲の井上順孝氏の本。『宗教社会学のすすめ』丸善ライブラリー、2002年、『神道入門』平凡社新書、2006年など。