宝物 その7   (2011年10月)

似顔絵
大震災を越えて―『校本萬葉集』
多田 一臣
( 【言語文化学科】日本語日本文学(国文学)専修課程 ;
【日本文化研究専攻】日本語日本文学専門分野 )

今月の宝物は、『校本萬葉集』初版本である。


校本萬葉集第二帙 校本萬葉集巻1-2

今回の大地震の時は、たまたま会議があって、京都にいた。駅前のホテルの地下にいたのだが、それでもゆったりした大きな揺れが数分間続き、その直後に「私は無事」というメイルが家から届いて、それで大変な事態になったということがわかった。

なぜ、このようなことから書き始めたかというと、大災害が貴重な文化遺産を壊滅させてきた歴史があるからである。応仁の乱の昔はともかく、近年でいえば、関東大震災、太平洋戦争における戦禍が、そのような大災害にあたるだろう。

周知のように、関東大震災によって、東京帝国大学の主要な建物はことごとく灰燼に帰した。図書館は無論のこと、文学部の各研究室に所蔵されていた大切な書物も、その多くが焼失の憂き目に遭った。

私の専攻は日本古代文学であり、『万葉集』を主たる研究対象にしている。その『万葉集』研究だが、近代の研究を大きく押し進めた書物が二つある。『校本萬葉集』と『萬葉集總索引』である。ここでは、まずは『校本萬葉集』に焦点を当て、さらに『萬葉集總索引』についても記してみたい。というのも、『校本萬葉集』は、関東大震災の難を奇跡的にくぐり抜け、刊行されたという経緯をもつからである。

校本萬葉集巻第二 校本萬葉集 巻第二

校本というのは、一種の学術用語だが、簡単に説明すると、ある古典について基本となる本文(底本)を定め、さまざまな諸本との異同を細大漏らさず記したもののことをいう。『万葉集』は、1300年以上も昔の古典だから、残された諸本もおびただしい数になる。その校本を作るのは並大抵のことではない。国家事業に等しい取り組みが必要とされる。

この企ては、明治45年以降、文部省等の援助を得て、東京帝国大学の国語研究室を中心に進められ、皇室、宮家、名家に所蔵される『万葉集』の本文との校合が、精力的に進められた。その際の底本には、当時もっとも普及していた寛永版本が選ばれ、これに異同を書き加えることで、その基礎となる原稿が作られた。もともとは、校本の作成を通じて、『万葉集』のもっとも信頼すべき本文(定本)を提供するところに最終目的があったようだが、とりあえずは校本の刊行を優先することにしたらしい。大正8年の段階で、その原稿はほぼ完成したという。さらに、本文の可否・訓法についての古来の学者の考説を採録することが新たに決定され、大正12年5月、その成果を含めた原稿4882頁の印刷が完了した。異体字を多用するなどした版面があまりに複雑になるため、活字使用ができず、すべてを浄書し、その写真版を金属板に付して印刷したという。さらに、諸本の印影を加えるべく準備中のところ、9月1日の関東大震災に遭遇、製本所にあった印刷済みの本文500部は一部も残らず焼失し、さらに国語研究室にあった諸家から借用の『万葉集』の本文、関係書籍や資料等もことごとく湮滅したという。

ところが、まさしく僥倖というべきだが、その校正刷りが、編者である佐佐木信綱氏、武田祐吉氏の許に一部ずつ残されており、それをもとにこの企てが再興されることになった。もともとは、洋紙本6冊として刊行される予定であったが、耐久性を考え、土佐産別漉和紙を用いて、5帙25冊の和装本として刊行することにしたという。大正13年7月のことである。耐久性が標榜されているあたりは、大震災の衝撃がいかに大きなものであったのかを示している。冒頭に掲げたのは、国語研究室に所蔵される『校本萬葉集』の初版本の写真である。いまとなってはかなりの貴重書である。

以上は、現在の『校本萬葉集』首巻の「本書編纂事業の由来及経過」に拠ったが、もしこの校正刷りが残っていなければ、多年の苦心が一瞬にして失われ、現在の『万葉集』研究の隆盛も到底ありえなかったに違いない。天運というものを感じずにはいられない。

『万葉集』ではないが、これと類似の事態が、諸橋轍次氏の不朽の大著『大漢和辞典』にもあったのをご存じの方は多いと思う。その序によると、『大漢和辞典』は、諸橋氏の畢生の大業として、昭和18年に第一巻が刊行されたが、昭和20年2月25日の空襲によって、一切の資料が焼失した。ところが、これまた僥倖というべきだが、全巻15000頁の校正刷りが3部だけ残っており、戦後、これをもとに修訂を加えて、新たな完成を見たのだという。もっとも、敗戦直後ということもあり、この事業の再興にも多大な苦心があったようである。版元である大修館の鈴木社長は、大学、高校に在学中であった長男、次男を退学させ、「社運を賭す」覚悟で、その事にあたらせたとある。ここにも天運があり、また事業継続への尊い思いがあったことになる。

万葉集総索引 万葉集総索引

さて、大災害とは直接の関係はないが、近代の『万葉集』研究を大きく押し進めたもう一つの書である『萬葉集總索引』についても、簡単に触れておこう。これは、『校本萬葉集』とは違って、正宗敦夫というたった一人の人物によって作られた、文字通りの労作である。正宗敦夫氏は、作家の正宗白鳥氏の実弟で、岡山県在住、井上通泰氏を師として和歌を学んだという。『万葉集』の本文は、いわゆる万葉仮名も含め、すべて漢字のみを用いて表記されているが、この総索引は、そこに用いられた漢字をその訓義とともに示し、さらにすべての単語をその文字表記ごとに五十音順に配列したものである。その刊行は昭和4年だが、完成のためには20年を越える歳月が費やされているという。電子化技術の進んだ今日ならいざ知らず、すべてをカードに書き写してのことであろうから、まさに気の遠くなるような作業というほかはない。この総索引が、どれほどの苦心の産物であり、また『万葉集』研究に裨益するものであったかについては、この総索引が『万葉集大成』に加えられる際、山田孝雄氏が記した「總索引の賛」に、実に懇切に述べられている。この「賛」はきわめて長大なもので、けっしてありきたりの讃辞でないことが、すぐに読み取れる。この総索引の恩恵を蒙らない万葉学者は、今日まで誰一人としていない、それほどの画期的な業績である。

正宗氏は、「萬葉集總索引増訂版を出すまでの事情」という短い文章に、国歌大観番号を加えた増訂版を刊行することのできた喜びを記しているが、そこに次のようなことが述べられている。

私は此の書を編纂して出版を了したあとで、多くの誤植ある事に心付いた。私は其れを発見する毎に、頁の上部へ少さな貼り紙をして見出にする事として置いた。或日柳田国男君が来られて其を見つけ、是れは何の印かと問はれた。私は誤植のある印であると答へた。君は斯う誤植が有つてはどうにもならぬではないかと言はれた。実に其の通りで恥ぢ入るの外は無い。

柳田国男氏は、井上通泰氏の実弟である。それにしては、ずいぶん心ない言葉というしかない。謙虚な正宗氏も、よほど悔しかったのであろう、その直後に次のように記している。

但し此の索引の一頁の文字数は普通の本の幾倍かあるし、殊に歌辞は全部ルビ付きである。一所懸命の注意はしたのであるが、結果はこんな事であつたと言ふの外は無かつた。

それゆえ、いつか訂正版を出したいという希望を持っていたことが続いて述べられているのだが、この箇所を読むたびに、改めてその恩恵に与ることへの感謝の念が湧いて来る。

『校本萬葉集』と『萬葉集總索引』。この二つは、繰り返しになるが、まさしく近代の『万葉集』研究を大きく進展させた、画期的な書物であるといえる。それと同時に、関東大震災をくぐりぬけて、『校本萬葉集』の刊行が果たされたことが、まぎれもない僥倖であったことが、今回の大地震を振り返るにつけ、あらためて思い起こされたことであった。

なお、私は、この二つの書物をはじめ、多くの先達の学恩を蒙りながら、昨年、『万葉集』の全訳注を完成することができた。筑摩書房刊『万葉集全解』全七巻である。最後にその写真を掲げておく。


万葉集全解
万葉集全解
書き手からのコメント
過去の大災害でどれほど多くの文化財が失われたかを考えると、書物のデジタル化はまさしく急務であると思います。なお、私の自己紹介めいた文章が、文学部のホームページの「私の選択」の中にあります。よかったらそちらも御覧下さい。
次回の登場人物
 鈴木淳さんは、明治の社会経済史、とくに技術史が御専門です。駒場から移られた頃は、大変お若い先生でしたが、いまや押しも押されもせぬ文学部の中堅です。ともにルール大学にお世話になったことから、おつきあいが続いています。どんな宝物をお示し下さるか、とても楽しみです。
c東京大学文学部・大学院人文社会系研究科