私が本郷の文学部・中国語中国文学専修課程に進学したのは昭和58(1983)年のことである。四年生になって間もなくの頃、ある日私は意を決して平山久雄先生に大学院の授業に出席する許可を頂けませんかと切り出し、快諾を得た。今と違って大学院の敷居は高く、修士に進学することは、退路を断って研究者としての道を進むことを意味した時代である。傍聴をお願いするだけでも相当の覚悟が要ったのである。
当時平山先生は、毎年のように大学院で清の段玉裁(1735-1815)の『説文解字注』の講読を行っておられた。「清朝小学」、「清朝考拠学」と言われるように、清代の学問は文字・訓詁の学問(小学)や古典文献に対する厳密な考証を重視した。異民族の征服王朝という思想的制約の多い環境の中で、偉大な先人の残した言葉を正確に読み解くことへの関心が深まったのである。後漢の許慎が著した『説文解字』(後100年成立、『説文』と略称)は、全巻現存するものとしては最古の字書である。篆書9000字余りを取り上げてその成り立ちを解説する。いわば漢字学のバイブルに比すべき書物である。清朝の研究者たちは、荒れ果てた『説文』本文の校訂を行い、信頼に足るテキストを復元するために膨大な労力を注いだ。
平山先生は、『東京大学東洋文化研究所漢籍目録』や『京都大学人文科学研究所漢籍目録』などを参考にしながら、『説文』校訂の歴史を紹介して行かれた。「文学部にはあまり良い本はないのですが、これだけはどこにでもある本ではありません」と言って紹介されたのが、この平津館本『説文解字』である(写真①)。孫星衍(1753-1818)という学者が嘉慶14(1809)年に刊行したものである。平津館本はいろいろな人の校訂の最後に出た行き届いたテキストとして珍重される。ところでこの本は見出し字(親字)が追い込み形式で詰め込まれており、目的の字を探すのに目に負担がかかる。
そこで陳昌治という学者が、同治12(1873)年に平津館本に基づき,見出し字毎に行を改めて改刻したものがいわゆる「一篆一行本」であ。『説文』本文として最も広く流通しているテキストである(写真②)。
さて写真①は『説文』冒頭部分である。最初の行に「説文解字弟一上 漢大尉祭酒許慎記」と書かれている。目ざとい読者は「弟一」とは何のことか、「第一」の誤記ではないかと思われたのではないだろうか。このような些細なところに、『説文』を読み解く面白さと難しさが潜んでいる。実は平津館本『説文解字』には、見出し字として「第」は収録されていない。そこで『説文』で「弟」を引いてみると、「ひもで束ねる順序」という意味の解説が付けられている。当時の文書や書物は竹簡(竹の札)に書いて、それをひもで束ねるのが一般的であったから、これは竹簡の配列順序を念頭に置いた解説に違いない。我々は「弟」という字は「おとうと」だと思い込んでいるが、『説文』の著者許慎にとっては、本来的には「順序」を表す「第」なのであった。「おとうと」という意味・用法は、順序一般から人間の兄弟の長幼の順序へと派生して生じたと考えていたのかもしれない。だとすると「第一」が「弟一」と書かれているのも得心が行く。
ところが次に紹介する清・段玉裁『説文解字注』では、「第一」「第二」と書くのが正しいと考えて、「弟」を「第」に校訂した(写真③)。清朝では『説文』に関する夥しい著作が著されたが、中でも段氏の『説文解字注』は、『説文』に内在する数多の規則性を再発見することによって本文の解釈を飛躍的に高め、『説文』注釈の最高峰との評価が定着している名著の中の名著である。42歳で取り組み、刊行まで足掛け40年、後半生をかけた大事業であった。緊張感漲る研ぎ澄まされた文体は、読む者を粛然とさせる。
校訂するには当然根拠が必要である。段氏が拠ったのは、唐の孔頴達らがまとめた『毛詩正義』という書物だった。『毛詩』とは中国最古の詩集である『詩経』のことで、これが後に儒学の経典として漢魏六朝時代を通じて夥しい注釈が付けられた。隋唐時代に科挙が始まると経典の解釈を統一しておく必要が生じ、そこで編まれたのが『毛詩正義』である。なんとその中に引用された『説文』に「第」字があったのである。読み下して引用すると、「『説文』に云う。第は次なり。竹と弟に従う」とある。『説文』とは全く無縁に見える『詩経』の膨大な注釈の中からこのような例証を見つけ出すなど、いかに清朝の過酷な科挙の洗礼を受けてきた学者にしても神業に近い(因みに段氏は科挙の最終試験である会試に三度不合格となり、進士及第の栄誉を得ることはできなかった)。段氏はこの発見によほど自信と誇りを持っていたのだろうか、『説文解字注』にはもとの『説文』にはない「第」字が見出し字として付け加えられている。
それでは段氏が校訂した如く、許慎の原本『説文解字』に果たして「第」字は収録されていたのだろうか。私自身の考えは消極的である。段氏が活躍した清朝時代と異なり、現代の漢字学は大量の出土資料を利用することができる。甲骨文字が発見されたのは、段氏の没後80年以上経ってからのことである。戦国時代から秦漢時代にかけての竹簡や帛書に筆写された文字資料が利用できるようになるのは、20世紀に入ってからのことである。しかしその中に「竹」と「弟」からなる「第」字はなかなか見当たらないのである。
2002年、湖南省龍山県の里耶鎭という村にある古井戸から、3万枚を超える秦代の竹簡が出土した。あまりにも大量の資料に人手が追い付かず、全貌はまだ公開され るにいたっていないが、その中に「第」に該当する字を見つけることができる。ここでは『里耶発掘報告』(写真④)収録されている籠の札を引いておく。実は この字は「艸」と「弟」から成り立っていて、明らかに「竹」ではない。このような「艸」と「弟」から成る「第」字は漢代の出土資料にも見出すことができ、 順序を表す「第」の意味で使われている。後漢の末期に楷書が成立し、六朝から隋唐にかけて定着して行く中で、動乱の時代を背景に楷書の字形は乱れに乱れた。「艸」と「竹」もしばしば混同される。段氏が見つけた『説文』佚文がはたして原本にあったのか、伝承の過程で付加されたものか、今となっては 何とも言い難い。しかしたとえ原本にあったとしても、それが今のように「竹」冠をもつ「第」字であった可能性は相当低いであろう。些か話がミクロに過ぎた嫌いがあるが、漢字学は個々の小さな事実を積み重ねて大きな流れを読み取る研究分野である。「第」と「弟」のような一見常識に見える文字遣いも、歴史的には必ずしもそうではなかったのである。
段氏当時利用できた出土資料は金石文、即ち周代の青銅器銘文や、秦漢時代碑文などが主であったが、段氏はさほど熱心に取り組んだ様子はうかがえない。『説文』によって『説文』を読み解くという原理主義的な学問態度によるものであろうか。しかし『説文』に内在する見えない規則性の探求にこそ段氏の真骨頂があり、それは現代の言語学者の態度にも通じるものである。『説文解字』の文字解釈にはしばしば誤りや牽強付会があり、そのためにともすれば軽視されることもある。しかし漢字学は『説文』研究を基礎として積み重ねられてきたのであり、『説文』解読のレベルを飛躍的に高めた段氏の功績は不滅であると言わねばならない。